公演期間:2024/11/01~2024/11/10
会場:シアタートラム[東京都]
作:松原俊太郎
出演:荒木知佳、伊東沙保、古賀友樹、東出昌大
演出・出演:小野彩加、中澤陽
公式サイト:https://spacenotblank.com/performance/alice
公演とはいつから始まっているものなのか? 鑑賞者である私にとっては、フライヤーを目にしたときからか。ホームページにレポートされる稽古場の様子や、出演者のインタビューを読んでからか。SNSに投稿される1分足らずの映像を目にしてからか。劇場の入口に立つスタッフを目にしてからか。チケットを引き換えて、トイレを済ませてからか。客席に座り、スマートフォンの機内モードを確認してからか。あらすじを読み返し、1カ月ほど前に同じ文字列を読んだことを思い返してからか。客席について間もなくすると、バニーが現われて、軽い会釈をしたり、ストレッチをしたりする。舞台上を歩き回っている。上演はまだ始まっていないと感じるが、それはまだいまが開演時間ではないと知っているからだろうか。縦長の電光掲示板にはあらすじにも書かれていた文字列が時折流れる。上演はそろそろ始まりそうだが、もし私が初日の初回の鑑賞者であったとしても、公演がその前にもう始まっている気がしそうなのは、普通のことを言うならば、作家が私たち鑑賞者よりも先にそれを始めているからだ。
考えてみれば、“上演”が問われることはあっても、“公演”が問われることは多くない。まず上演について考えると、開演から終演までの間、舞台上で起きる役者によるパフォーマンスだけを指して上演ということは今日少なくなってきた。舞台からはスポットライトの光で見えづらいが向こうにいる、舞台の上に何かを見ている鑑賞者たちはいないことにはならない。いや、見ていると言っていたのは昔の話で、舞台へ役者が現われて、声を発し、こちらを見る、それに対して見返すことが鑑賞行為なのだろう。見られることと、見ているということはそれぞれに完結する行為ではない。それだけでもまだ上演が指す範囲は狭すぎるから、チケットを買うときにどんな情報を目にしているのか、どのような客席なのか、どう過ごすことを考えられたのか……。上演と呼ばれ、鑑賞者と作家の間で共有されうる物事の範囲は、作家によって広く見積もられるようにもなっている★1。どのような広さであれ、一旦ここまで、と決めることがいまは必要なのだ。
[撮影:高良真剣]
一方、役者たちが鑑賞者と劇場で出会うまでの間、同じ戯曲で──演出や演技が調整されているのだとしても──稽古は繰り返される。繰り返しのひとつとして上演はやってくる。そして繰り返しにも始まりはある。戯曲を手にし、書かれた言葉を口に出したとき、公演が始まった、と言えないだろうか。鑑賞者との共有や共同性を上演の前提とするならば、公演とはこの世界に言葉を発するところから始まるもので、それは舞台の側にいる者たちが始めることだ。戯曲のあらすじにも記され、上演時刻に合わせて流れる電光掲示板の文字列としても現われる「登場人物は、はじめから死んでいる。」「生きはじめるには、動かなければならない。」「はじめるには、声を発しなければならない。」という言葉の指すことにほかならないが、これは上演ではなく、公演を行なうことにまず掛かっている。
今回、バニー(東出昌大)とミニー(伊藤沙保)は2020年の初演から役者が変わっている(初演時:矢野昌幸、佐々木美奈)。役者が変わったからでもヒカリ/アリス(荒木知佳)とナイト(古賀友樹)が続投しているからでもなく、これを再演と呼べるのは、公演が一度始まったことがあるからで、まだ終わっていないからだ。また再演されるかもしれないし、誰かの指令であり願いでもある「つづけ」★2の文字はいまも効力を失っていない。だとすると、「つづけ」もまた、上演ではなく、公演という一連に掛かっていないか?
これは、鑑賞者にとっての上演が、本作では明快なものであったことと対比して考えられる。キングことK(中澤陽)とクイーンことQ(小野彩加)が、演出を担う小野と中澤の二人によって演じられていること。舞台上の一部オペレーションを中澤自身が担い、小野は鑑賞者に背を向け続けていること。これらは舞台における演出家と演者の関係、演出と演技の関係に対するメタ的な言及であると言ってよいし、この上演が、上演することへの自己言及でもあることは言うまでもない。アリスという役を突如当てがわれるヒカリ、変わることのない「おもひで」のなかで生き続ける選択肢に葛藤するナイト、舞台袖がなく退場している役者が壁際で水を飲んで休むセノグラフィー、スタッフのサポートが舞台上で起きること、電光掲示板に現われるト書き……。演出の狙いは明快であり、戯曲がもっていた構造も端的に伝わったのではないだろうか。ゆえに、鑑賞者としてこの時空間に起きたことを劇場外に持ち帰ることはある意味容易だったのかもしれない。私たち鑑賞者にとって公演の全体像というものはないのだから、気づけば始まり「つづけ」の文字で時間上は区切られた上演を、この2時間の経験とその少しの前後として切り出せば十分だからだ。私たちが、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下、スペノ)ほどには本作を引き受けなくて構わない、ように上演されていた。
[撮影:高良真剣]
8場あるうちの6場、ミニーに「それで? お話の続きは?」と問われたKは「あらすじはここで尽きた。」と言う。以降の時間は、尽きたあらすじのその先へ、あらすじに示された、あるいは当てがわれた役から登場人物たちが脱していこうとする筋を明確にしていく。初演時のインタビュー★3で、戯曲を執筆した松原俊太郎は「ぼくは戯曲では、固有名よりは類型化されたキャラを立てて書きます。その類型を最後には突破して、そこで個別具体的な固有名を獲得するまでの過程を描いているので、それなりの言葉が必要になってきます。」と語っている。このような登場人物(人物???)たちを、これまでの作品でも私は目にした気がする。松原の戯曲ではない作品においても、繰り返しや再生からの離脱や変化は、スペノの主題のひとつと考えられる。筆者が観たなかで言えば、方法論のレベルにおいては『フィジカル・カタルシス』(2019-)における振りの引き継ぎと変奏からの作が、他者の戯曲によるものであれば『セイ』(2023/作:池田亮)におけるやるせない転生とAI文字起こしによる発話の再生、そしてラストにおける巻き戻しの演出が。2024年12月に発表される『再生』(2024/作:多田淳之介)においても、通ずるものは見えてくるだろう。他者の戯曲でこそ演出という行為は前景化し、主題はむしろ明らかなものとして現われる。上演そのものについての話でもあった『光の中のアリス』は、スペノが演出することで、スペノについての物語にもなった★4。カーテンコールの後、役者たちは舞台のセリを用いて捌けてしまい、舞台上に残った小野の終演アナウンスの〆は「またお会いしましょう」。本作における退場は舞台袖ではない。『光の中のアリス』の公演は、上演が終わり、公演“期間”が済んでなお、まだ終わっていない。公演を再開──再演だ──したこと、終わっていないと宣言したことに、私は尊敬とも不安とも言えない気持ちを抱いている★5。
★1──筆者のテキストでたびたび名前を挙げている演劇カンパニー・新聞家の実践は、上演の範囲をラディカルに押し広げた一例だろう。新聞家のように演出的でなくとも、例えばトリガーアラートの記載や、観客席の設えの工夫もまた、上演の再考だと言える。これは現在30代以下の作家たちのひとつの傾向だと言ってよいだろう。実際的な条件の再検討は、決してつまらないことではない。
★2──戯曲の最後のト書きであり、舞台上の電光掲示板に最後に流れる文字である。なお舞台上では「つ」「づ」「け」と一文字ずつ表示される。
★3──「光の中のアリス(2020年)|インタビュー|松原俊太郎」(聞き手:植村朔也)内「類型性の突破」より。この直前の「戯曲の中の登場人物は、言葉を発していないと、存在することにならないんですよね。分量とかいう話じゃないかもしれないけど、これだけの言葉があってこそ役が存在するというイメージで書いています」という発言も松原の戯曲の特徴がよく表われている。そのように書かれた戯曲を、台本として変更することなくそのまま上演(しようと)する──つまり舞台上に登場人物が役者の身体を借りて存在し続けている状態で発話を行なう──スペノの驚異/脅威についても本インタビューでは言及されている。
★4──上述のインタビューおよび最新のインタビュー(聞き手:佐々木敦)でも言及されるように、『光の中のアリス』の戯曲は、初演の稽古の進行と合わせて内容が変わっていったそうだ。その点で、本作はスペノ(の上演)と分かちがたい。それゆえに明快になった演出と(それにより現われる)戯曲の構造が、鑑賞者によって上演の内外を結んで受け止め、持ち帰りやすくする一方、スペノ自身を内に捉える戯曲であるとも言える。たが、上演を通じて戯曲の言葉の意味を取れているか、そもそも意味を取るとは松原の戯曲においてはどのようなことであるかは、また別の議論だろう。
★5──筆者は上演という形式に関心をもって活動してきたため、本作が上演と呼ぶ範囲をいたずらに広げないものであり、舞台上で起きた物事にしっかり感じ入り、晴れやかな気持ちで劇場を後にできてしまったことに戸惑っているのかもしれない。本作は2020年からいまに至るまで、レビューやインタビュー、レポートと、多くの研ぎ澄まされた言葉に囲まれている。だからもう、ほかの誰かの異なる公演と上演によって『光の中のアリス』を見直してみたい、と思わないこともない。ただ、それでもまず、スペノにお疲れ様と言いたい「この気持ちはなんだろう」。
鑑賞日:2024/11/06(水)、11/09(土)
関連レビュー
スペースノットブランク『光の中のアリス』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年01月15日号)
新聞家『屋上庭園』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年06月15日号)