
会期:2025/06/17〜2025/06/22
会場:武蔵野芸能劇場 小劇場[東京都]
脚本・演出:三浦直之
公式サイト:https://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU2/
10年後の未来を生きる私がいまだに『HUNTER×HUNTER』の連載再開を待ち詫びているなどと、10年前の私は果たして想像していただろうか。「全然再開しないよね、ハンターハンター」という10年前と同じセリフを聞きながら、しかし10年分の歳を重ねた私はそんなことを考えていた。
『いつだって窓際であたしたち』(脚本・演出:三浦直之)は2015年にスタートした「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」を舞台とする連作群像劇シリーズ、通称「いつ高シリーズ」の一作目。このシリーズでは学校を舞台とする連作群像劇というフォーマットを存分に活かし、一作ごとに校内の異なる場所を(あるいは同じ場所の異なる時間を)舞台としながら、「いつ高」というひとつの時空間でともに、しかし異なる時間を過ごす高校生たちそれぞれの学校生活とその交錯が描かれていく。リアリズムとはかけ離れた、想像力の風呂敷をこれでもかと広げるような作風が持ち味だったロロ/三浦直之が、現実世界をベースとしたワンシチュエーションの会話劇というスタイルを採用し、作品の幅と間口を広げることに成功したという点で、劇団としても作家としてもひとつの転機となったシリーズだと言えるだろう。全10作品を上演し2021年に完結したこのシリーズが、vol.1の初演から10年の時を経た2025年、フルキャストオーディションによって選ばれた俳優陣とともにリブートした。
なお、『いつだって窓際であたしたち』は2025年8月末まで映像版が配信中。以下では物語の展開に触れるのでご注意を。また、初演版の戯曲はロロのウェブサイトで全編が無料公開されている。
[撮影:阿部章仁]
『いつだって窓際であたしたち』の舞台となるのは昼休み、2年6組の教室の窓際の席。教室後方のカーテンの陰では茉莉(三上晴佳)と瑠璃色(端栞里)がヒソヒソ話で、しかし大いに盛り上がっている。一方、中程の机ではひとりの生徒が突っ伏すように眠って(?)いて、教室に戻ってきたシウマイ(稲川悟史)は自分の席に見知らぬ生徒が突っ伏しているのを見て困惑する。シウマイは意を決してその生徒=白子(土本燈子)に声をかけてみるも撃沈。仕方なくすぐ後ろの席に座ったところにその席の主である将門(竹内蓮)が戻ってきて──。
恋バナや噂話に花を咲かせる茉莉と瑠璃色、他人を気にせずマイペースな白子、誰にでも分け隔てなく接する人気者の将門とその幼馴染の朝(小川紗良)、そしてコミュニケーションがあまり得意ではないシウマイ。多くの観客に共感や懐かしさを引き起こすであろう、いかにも高校の教室に「いそう」な登場人物たちが、しかしステレオタイプに陥ることなく生き生きとして見えるのは、三浦の筆もさることながら、俳優陣の力が大きいだろう。
[撮影:阿部章仁]
[撮影:阿部章仁]
初演を見ている私は、2025年のシウマイたちの向こうについつい2015年のシウマイたちを透かしてみるが、同じ名前を持ち(ほぼ)同じ言葉を話す彼らは、しかしたしかに違っている。そういえば、いつ高シリーズ後日譚と呼ぶべき番外編『ここは居心地がいいけど、もう行く』(2022)では、同じいつ高を舞台に、いつ高シリーズの登場人物が大人になった姿──先生になった白子と親になった「(逆)おとめ」が描かれると同時に、(逆)おとめたちが去ったあとのいつ高でいままさに青春を送っている生徒たちの姿が描かれていたのだった。そこではいつ高初演版本編と同じく大場みなみと望月綾乃が白子と(逆)おとめを演じる一方、例えば初演版本編でシウマイを演じていた新名基浩がダブチという「現役」の、シウマイとは異なるいつ高生を演じていた。少なくとも見た目はシウマイにそっくりなその生徒は、しかしダブチという別の名前を持ち、別の青春を生きているのだ。学校という空間の時間は螺旋状に流れている。似たような無数の、しかしそれぞれに違った青春たち。
[撮影:阿部章仁]
[撮影:阿部章仁]
さて、上演がはじまって(というか高校演劇のフォーマットに則って観客の目の前で上演前の舞台美術の設営がはじまって)まず驚いたのは、舞台美術のレイアウトが初演版とは180度逆になっていたことだ。そこがかつてのいつ高ではないのだということを鮮やかに示す導入と言えるだろう。
教室を示す舞台美術は机や椅子、そして窓枠とカーテンで構成され、初演版では窓枠は舞台奥に置かれていた。シウマイたちはときに窓の向こう(=舞台奥)の校庭や山々を眺め、観客もまたシウマイたちと同じ方向を向き、窓の向こうにある(ことになっているが舞台上には存在しない)校庭や山々を想像する。『いつだって窓際であたしたち』の終盤でシウマイと白子がある想像をともにするように、同じ方向を向き、同じ想像を働かせること。
一方、2025年版では舞台手前に窓枠が置かれていて、観客は自分のものではない教室を、自分のそれとは似て非なる青春を窓越しに覗き込むことになる。心憎いことにこのレイアウトはシリーズのラストを飾るvol.10『とぶ』のそれを引き継いだものでもあり、その意味では2025年版『いつだって窓際であたしたち』が初演版いつ高シリーズの「続き」であることを示すとも言えるのだが、2025年版ではさらに、終盤で舞台美術のレイアウトを180度転換する(=初演版と同じ配置に「戻す」)という演出も追加されていた。舞台を観る観客の視線と窓の外を見るシウマイたちの視線は向き合い、すれ違い、やがて(再び)同じ方向へと向けられることになるだろう。
[撮影:阿部章仁]
まなざしはひとつきりのものでも一方的なものでもなく、永遠でもない。青春は、物語は、いくつものまなざしが交錯するなかで生まれ、さまざまに受け取られ、変化し、あるいは消えていく。2025年版『いつだって窓際であたしたち』の上演は単なる再演の枠を超え、「まなざし」をテーマに掲げるいつ高シリーズのリブートを告げるにふさわしいものとなった。
最後に、10年を経て変わらなかったもうひとつのことに触れておきたい。ここまでのレビューでは触れなかったのだが、この作品には将門がバスでいつも一緒になる太郎のことを「好きなのかも、しれない」という場面がある。初演を観た私はその軽やかさに、同性を好きかもしれないということがさも当然のことであるかのように描かれていたことに強い感銘を覚えたのだった。日本で作られるフィクションにおいて、そのようなかたちで同性愛が描かれることは稀だったからだ。そして今回もまた、私は強く感情を揺さぶられることになった。だが、その内実はかなり違っていた。今回、私の感情を揺さぶったのはむしろ、10年を経てほとんど変わらない日本の現状の方だったのだ。この場面が本当の意味で何でもないものになるのにあとどれだけの時間が必要なのだろうか。
ロロは早くも8月頭にはロロ短編『わたなべさんの夏休み』を上演予定。こちらは7月28日(月)からの前半5日間は会場で作品づくりをしている様子を公開し、8月2日(土)・3日(日)に作品の上演と交流イベント「ロロの打ち上げ」を実施する企画となっている。さらに9月には新作本公演『まれな人』も控えている。「10年後のロロ」はどのような景色を見せてくれるだろうか。
鑑賞日:2025/06/17(火)
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