会期:2025/08/17~2025/09/15
会場:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
公式サイト:https://gallery.kcua.ac.jp/archives/2025/13132/

東アジアの思想「山水」をテーマに、芸術と社会を繋ぐアートプロジェクトや展覧会を企画するアーティスト・コレクティブ「山水東京」と、メンバーの水木塁の共同企画によるグループ展。水木は2024年夏、文化庁新進芸術家海外研修制度でロンドンに滞在中、反移民団体による暴動が起きたことをきっかけに、「多様性(diversity)」という言葉に疑問を抱くようになったという。あくまでマジョリティが設定した制度や規範に沿った形で「許容可能な他者」を選別/承認するのではなく、「他者との摩擦や予測不能性を引き受け、共に変容していくプロセスを重視」する態度として、「包摂(inclusivity)」という概念に水木は着目し、本展のキーワードとなった。

出品作品は、「植物」「庭」「自然と人工」というキーワードで連関する。人工スキンに韓国の国花の木槿(ムクゲ)を彫った水木の《彫り物(風に根ざす木槿)》(2025)は、展覧会場に隣接する東九条地域における在日韓国・朝鮮人の歴史を念頭に、人工と自然の境界線、アイデンティティや所有について問う。夜の植物園を描いた長谷川由貴の《私たちは植物について語る言葉を持っていない》(2025)は、鬱蒼と生い茂る熱帯植物を湿度まで感じられるほど濃密に描くが、背景に描き込まれた温室の鉄骨は、それが「人工的に管理された自然」であることを示す。中村太一の穏やかな絵画では、釣り人のいる地上世界と魚や流木がいる水中世界が一枚の画面に描かれ、人工/自然の二元論で切り分けられた世界とその共存が、構図として示される。


水木塁《彫り物(風に根ざす木槿)》(2025)[撮影:吉本和樹]


長谷川由貴《私たちは植物について語る言葉を持っていない》(2025)[撮影:吉本和樹]


中村太一《char fishing 岩魚釣り》(2025)[撮影:吉本和樹]


右:中村太一《夏の終わり》(2025) 左:繁殖する庭プロジェクト 展示風景[撮影:吉本和樹]

以下の本稿では、小宮りさ麻吏奈と鈴木千尋のユニット「繁殖する庭プロジェクト」に焦点を当てる。緑色に透けるネットで囲われた仮設的な空間で上映されるのが、映画『繁殖する庭』(2023)だ。映像内にも、同様の緑のネットで囲われた空地が入れ子状に登場する。住宅同士の狭い路地の奥にあるその土地は、建築基準法により、建物を取り壊した後に再建築が不可とされている。「繁殖する庭プロジェクト」のコンセプトは非常に明晰だ。現行の法規制によって「家が建てられない土地」と、日本の婚姻制度で認められていない「同性同士の結婚」を重ね合わせつつ、「家庭」という言葉を「家」と「庭」に分解し、二重の法制度によって「家」から疎外された存在によって「庭」をつくることができないか。


繁殖する庭プロジェクト『繁殖する庭』(2023)[撮影:吉本和樹]

本作は、小宮と鈴木が、再建築不可の土地を大家から賃借して行なったプロジェクトのドキュメンタリーである。何もない更地で、小宮と鈴木は、寝具を敷いて寝転がり、婚姻届に記入し、培養土を運んで苗を植え、思索の空間ともなる。同時に本作は、セクシュアル・マイノリティと日本の婚姻制度についての丁寧なレクチャーでもある。日本国憲法第24条に規定された「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」という文言は、元々、戦前の旧民法の家父長制的な家制度を解体することを目的とし、GHQの女性職員が起草した「ベアテ草案」に基づくものであった。戸主(男性)ではなく、女性が結婚や離婚の決定権を持てるよう、女性の権利向上が目的だったが、現在の日本政府によって「同性婚を認めない根拠」として異性愛規範の強化に利用されてしまっている。

また、小宮と鈴木が区役所に提出した婚姻届について、受理できないことを説明する職員とのやり取りも重要だ。職員は別の選択肢として、法律上の親子関係になる養子縁組の制度を提示する。同じ戸籍に入ることができ、相続権も保障されるが、少しでも先に生まれた方が養親となるため、養親の苗字に統一しなければならない。さらに複雑かつ残酷なのは、一度養子縁組をすると、解消しても婚姻関係を結べないルールがあるため、「もし将来、同性婚が認められた場合、結婚できなくなる」という可能性だ。区役所の職員の対応は非常に丁寧で、映像内ではプライバシーに配慮して音声をカットし、字幕のみで記される。「えーと、」「あのですね、」といった間投詞まで拾って文字化することで、「制度」側の人間の心理的緊張や配慮が示されると同時に、(マイノリティに代わって)透明化されるという反転が起きてもいる。同時にこの反転は、「制度」側の人間 にも・・セクシュアル・マイノリティがいるかもしれないというごく当たり前の事実についても想像させる。

プロジェクト名の「庭」は幾層もの両義性のあいだを行き来する。苗の植え替えや剪定、雑草の除草など、「庭」は管理された人工的な自然であり、婚姻制度という「国家によって管理された性と生殖」の謂いともなる。一方、食物を育てて収穫するための「畑」とは異なり、「庭」は「生産性」という目的を免れている。「家庭」という単語から「家」と「庭」を分離するように、「家(婚姻制度)」の外側に、血縁関係によらない共同体をどうつくることができるのか。それは、遺伝子的には子孫を残せないクィアの歴史をどう紡ぎ、継承することができるかという大きな問いにもつながっていく。個体の生という時間の有限性を超えて「種」の時間を存続させるために、遺伝子レベルでプログラムされた有性生殖とは、別の「時間の接ぎ木のしかた」があるのではないか。それは、存在を抹消されてきた歴史への抵抗でもある。「庭」とは、そうしたクィアネスについての思索の場となる。また、そこは、何もない更地だが、小宮と鈴木が「ウェディングドレスの交換」という結婚式を行なう場所になったように、制度と制度のすき間にある自由さでもある。同時にそこは、「近所迷惑だから」という理由により、2人が植えた植物に大家が除草剤を撒くという善意の介入・・・・・を現実に受けることにもなる。


繁殖する庭プロジェクト『繁殖する庭』(2023)[撮影:吉本和樹]

現実の空地と展示空間をともに区切る緑のネットの仮設性が示すように、「庭」は半ば閉じられ、半ば外に開かれてもいる。作品の後半、そうした境界の流動性をもつ「庭」は、男/女というバイナリーな規範、人工/自然の境界線、有性生殖という繁殖システムについて、「種」を超えて相対化する思考の場所となる。雌雄同体のなめくじには、ピンク(女の子)と水色(男の子)、どちらのプレゼントをあげればよいのか。染色体数の操作によって生殖機能を奪われた種なしスイカやブドウといった商品作物は、クローンで増殖する。人工的に生殖管理された生物も、そうではない生物にも、有性生殖や異性愛規範の外側で繁殖を続けるものがいる。「庭」は、そうした多様な生物たちを迎え入れ、ともに過ごす場所でもある。

なお、本展は、後編として「包摂とL」展が11月8日~12月21日まで京都芸術センターにて予定されている。

★──会場配布資料「水木塁 キュレーターズ・ノート『包摂を巡るあれやこれや』(前編)」より。

鑑賞日:2025/08/23(土)