秋は魅力的な展覧会やアートイベントがたくさんあって嬉しい季節だが、その一方で、学芸員にとってはもっとも慌ただしい時期でもある。下半期に入り、年明けや次年度の展覧会準備が重なり、会場造作の仕様書づくりや下準備に追われる。ふと気づけば、仮設壁やサイン類の制作費は、数年前に自宅をリフォームしたときの予算感とほとんど変わらない。「一生もの」と思って行なった工事と、わずか数週間から数カ月しか使われない展示空間の費用が同等というのはなんだか不思議だ(もちろん、どの業者さんも物価が高騰するなかで適切な価格でのサービスを提供してくださっていると思う)。だが同時に、展覧会場で過ごした時間が、美術館を訪れる誰かの記憶のなかで「一生もの」になってくれたら、それ以上の喜びはない。そんなことを考えていた折、まさに“場所の記憶”をめぐる展覧会に出会った。

「場に宿る夢 ─記憶の舟にのる─」フライヤー
「玉乃井」のバトン
その展覧会「場に宿る夢 ─記憶の舟にのる─」の会場は福岡県福津市津屋崎、海岸のほど近くに位置する旧玉乃井旅館である。明治末期に建てられた木造建築で、1946年には獣医師で町議会議員を務めた地元の名士・安部正弘(1887-1971)が観光旅館「玉乃井」として創業した。筑豊の炭鉱労働者の休養や海水浴客の宿として賑わい、広縁越しに海が一望できる。腰を下ろすと津屋崎の海を望むことができ、窓から海風が吹き込む。まるで建物自体が海に浮かんでいるような錯覚に陥る場所だ。長い時を経て2021年に改修が施され、2025年に登録有形文化財として正式に登録された。
玉乃井旅館の軒先[筆者撮影]
「玉乃井」のバトンは、90年代に入り正弘氏の孫である安部文範氏(1950-2022)に引き継がれた。東京では印刷会社勤務ののち独立。編集、デザイン、翻訳を続ける。津屋崎に戻って、1990年代から 旅館を現代美術の拠点として開いた。「津屋崎現代美術展」(1994年から13回にわたり不定期で開催)や勉強会などを主催し、やがて玉乃井は地域と芸術を結ぶサロンのような場となる。元・福岡市美術館学芸員の正路佐知子の言葉を借りれば、「窓から見える海、建物を通り抜けていく風と音とともに作品を見て、この建物の主である安部文範や作家、来場者と作品や近況について会話し、喫茶室でケーキと安部が淹れてくれるコーヒーをゆっくり味わう、そういう場所」★であった。改修プロジェクトの途中、彼は病に倒れ、2022年に逝去した。
今今回の展覧会「場に宿る夢」は、安部氏と親交の深かった美術家・草野貴世の呼びかけで実現した。草野はイギリス留学から帰国し福岡に拠点を構えた1990年代、東京から津屋崎に戻った安部と出会い、以後交流を重ねてきた。子育て期を経て距離が空いた時期もあったが、長く続いたその縁が草野を動かし、追悼展となる今回の展示に結実した。
草野は約1年前から玉乃井に通い、掃除をし、老朽化した客室に手を入れながら、そこに残された「主の不在」と向き合った。このたびの展示には、安部が生前に蒐集した李禹煥、山田正亮、加納光於らの作品に加え、彼と関わりのあった22組の作家による作品が建物全体で展開されている。談話室には彼のコレクションが展示され、かつて安部が築いた文化サロンの雰囲気が、静かに息を吹き返していた。
2階の廊下にいつからか常設されている資料からは、安部家の複雑な歴史が垣間見える。祖父・正弘は18歳で日露戦争を体験した。東郷平八郎率いる日本の連合艦隊がバルチック艦隊を破った「日本海海戦」での勝利に感激し、記念碑を制作するなど、戦勝記念事業に力を入れた。玉乃井からほど近い大峰山には戦艦「三笠」を模した記念碑と記念公園があり、砲口が海に向かい据えられているさまは見る者をギョッとさせる。叔父・一男は第二次世界大戦中に南洋諸島沖において戦死した。戦争の影が家族の記憶に刻まれているなか、文範は、芸術を通じて新たな夢を見ようとしていたのではないかと感じた。祖父の世代が信じた「“戦勝国日本”の夢」ではなく、さまざまな境遇を越えて人々が対話し、境界を行き来することのできる「芸術という夢」を。
常設の展示ケース[筆者撮影]
24名にのぼる作家たちの呼応
すべての作品を紹介することはできないが、建物の隅々に、かつての主人・安部文範の気配が感じられた。出展作家はほとんどが、生前の彼や彼が主催した玉乃井での催しに関わってきた人たちである。24名という多数の作家が呼びかけに応じたこと自体が、すでにこの場の力を示している。建物と作品は自然に馴染み、作品ではなくまるで家そのものが語りかけてくるような錯覚に陥った。
展示風景より。草野貴世《玉の井戸》[筆者撮影]
1階の勝手口に続く廊下には、草野による新作のインスタレーション《玉の井戸》がある。藍に染まった三つ編みの糸が垂れ、その奥に水をたたえた瓶やガラスの壺が整然と並んでいる。これは、かつて玉乃井で行なわれていた勉強会で安部の友人松井安彦氏が作ったシナリオで、自らも演じたという、「玉乃井の一角が実は地下につながるエレベーターになっており、そこで国家プロジェクトが行なわれている」というSFめいた物語を下敷きにしている。透明感のあるインスタレーションは、玉乃井の持つ不思議な魅力を暗示している。
鈴木淳《命名 文範》。玉乃井の主人である安部文範の誕生をユーモラスに祝う[筆者撮影]
階段を上がると、正面の客間ではオーギカナエが公開制作を行なっていた。彼女はかつて2016年の津屋崎現代美術展で発表した作品《she see sea》に加筆を施し、部屋全体に津屋崎と海のイメージを描いていた。鮮やかな黄色や青の色面の目が覚めるような色合いが、オーギらしく、場に軽やかさを与え、湿度を少し下げてくれる。オーギがたびたび描く船の形が、今日はこの場所に固有の意味をもって感じられる。海に面したガラス戸には、2016年に広く募った、津屋崎の海についてのエピソードが貼られ、そのなかには安部がイカ漁を見たときの記憶も記されていた。読んでいるうちに、直接言葉を交わしたことのない主人と、どこかで会話をしているような感覚を覚えた。
オーギカナエの展示の一部[筆者撮影]
オーギカナエの展示の一部[筆者撮影]
大浦こころは、改修された中央の部屋で、2011年の個展「やわらかな圧力」出品作の続編となる新作を7点発表していた。これまで多く描かれてきた2人組の人物に代わり、複数の人物が登場する。描かれている人物の容貌は変わり、年齢を重ねているように感じる。その外側で大きなスケールで描かれた人物が人々を見守るように佇み、絵の中には過去と現在・未来がつながる神話的な世界観が描かれているように見える。過去に描いていた作品が気になり、また手を入れたいという気持ちに素直に従ったのだという。母を亡くした大浦は、「“死”が、気になるテーマになってきた」と言う。描きたいテーマが、今回の追悼展に不思議と符合し、大浦の絵画世界を変容させていた。
大浦こころ「やわらかな圧力」のシリーズ作品[筆者撮影]
先述の通り、安部文範にとって、玉乃井は単なる家業の場ではなく、家族の歴史と土地の記憶を抱えながら、文化を通じて新しい関係を試みる実験場だったのだろう。こうした意図を受け止めるように、渭東節江の作品では、虹色に染められた小さな紙の船が洗面台や盃に浮かび、展示全体を象徴するようであった。床の間に置かれたセカンド・プラネットの《満州国》もまた、戦争の記憶に向き合う作品である。飯山由貴の映像作品《戦争画の部屋》で取り上げられた2枚の絵画も展示され、過去の記録はいま新しい文脈を得てよみがえった。
渭東節江の作品[筆者撮影]
新たな空気を吹き込んで
安部との直接の面識はない筆者のような来訪者であっても、なぜかこの場所には引き寄せられる。最終日、親戚の家を訪れたような気持ちで、大広間に上がり、いつの間にか膝を崩してしまった。お茶を飲みながら、草野が「玉乃井ってなんだか生き物みたい」と語る。出品者の宮本初音が、「(玉乃井のマスコットの)タコみたいなね」と返す。その言葉がこの場所の本質をよく表わしているように思えた。
展示タイトル「場に宿る夢」とは、この場所に堆積した時間へのリスペクトを込めたネーミングだ。しかしながら、この場所はただ過去を保存するための記念碑ではなく、創造的な行為が積み重なる有機的な場としてある(実は、1階には醸造所がテナントとして入り、実際に微生物が呼吸をする場所でもある)。草野や参加作家たちは、場に新たな空気を吹き込みながら、この家にもう一度生命を宿している。文化財としての保存と、アートスペースとしての再生、その二つの時間が交わったときの輝きを、窓に嵌め込まれた板ガラスが放つ水晶のような光とともにできるだけ長く覚えておこうと思う。

★──正路佐知子「ある美術家にとっての40年間とこれから──牛島智子個展『40年ドローイングと家婦』」(artscape 2021年03月15日号「キュレーターズノート」掲載)より。
https://artscape.jp/report/curator/10167518_1634.html
場に宿る夢 ─記憶の舟にのる─
会期:2025年9月27日(土)〜10月26日(日)※土・日・祝日のみ開場
会場:国登録有形文化財「旧玉乃井旅館」(福岡県福津市津屋崎4-1-13)
参加作家:渭東節江、牛嶋均、浦のりこ、大浦こころ、オーギカナエ、草野貴世、桑野よう子、古賀和博、坂井存、坂崎隆一、佐土嶋洋佳、鈴木淳、諏訪眞理子、セカンドプラネット(宮川敬一、外田久雄)、竹森あやか、谷尾勇滋、中村ケイ、長野聡史、原田俊宏、母里聖徳、前原ヨシノブ、宮本初音、山本隆明
公式サイト:https://www.instagram.com/baniyadoru_yume/
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