「コレクション2 身体───身体」

会期:2024/02/06~2024/04/09(会期途中で建物工事の影響で中止)
会場:国立国際美術館[大阪府]
公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/collection20240206/

ブブ・ド・ラ・マドレーヌ「花粉と種子」

会期:2024/02/17~2024/04/06(会期延長)
会場:オオタファインアーツ 7CHOME[東京都]
公式サイト:https://www.otafinearts.com/ja/exhibitions/306-pollen-and-seeds-bubu-de-la-madeleine/

前編から)

国立国際美術館「コレクション2 身体───身体」展の個人的な白眉は、ブブ・ド・ラ・マドレーヌのインスタレーション《人魚の領土―旗と内臓》(2022)と、フェリックス・ゴンザレス=トレスの電球のインスタレーション《「無題」(ラスト・ライト)》(1993)が共存し、互いの「光」が照らし合う最終展示室だった。

ブブの《人魚の領土―旗と内臓》は、金網で編まれたクジラのような生き物が浮遊し、裂けた腹部から内臓が卵のようにこぼれ落ち、尾びれからカラフルな旗が連なっていくインスタレーションである。ブブは、ダムタイプの『S/N』に出演し、パフォーマンスや映像作品などの制作と並行して、HIV/エイズとともに生きる人々やセックス・ワーカー、女性、セクシュアルマイノリティの権利運動に関わりながら、ドラァグクイーンとしても活動してきた。本作のクジラのような生き物は、ブブ自身のテクストによれば、「人間の形をした上半身を脱皮した」人魚であり、水泡のような光の粒を投げかける床のミラーボールは老舗ゲイバーから間接的に譲り受けたものだ。また、「皮膚が裂け、露出した内臓が新たな表面となり、色とりどりの旗となって空へ昇っていく」というイメージは、ブブ自身が卵巣嚢腫と子宮筋腫のため卵巣と子宮の摘出手術を受けた経験が元になっているという。それは、「『完全』ではない身体はどんな場合でも不幸である」という「呪縛」からの解放を祝う祝祭の旗である。また、連なる旗は、ブブが自身の性器から万国旗を繰り出した『S/N』の祝祭的な終盤シーンを想起させるが、国家を象徴する国旗の絵柄が消されている。一方、旗の一部が「ピンクの逆三角形」に見えることは、ホロコーストにおける同性愛者差別の象徴から、差別への抵抗のシンボルに転じたものも示唆する。

ブブは、社会学者の山田創平らとともに2010年から「水図プロジェクト」を開始し、「領土」「境界」といった地上世界の近代帝国主義的思考を脱するために、流動的で不定形な「水の世界」に着目してきた。「人魚」が生きる水中世界は、海水と淡水が混じり合う汽水域のように、さまざまなボーダーが溶け合って混ざり合う流動的な領域であり、「地上から追放・迫害された者たちの領域」という意味でもクィアの謂いである。


ブブ・ド・ラ・マドレーヌ《人魚の領土─旗と内臓》(2022)[提供:国立国際美術館 撮影:福永一夫]

本展と同時期にオオタファインアーツで開催されたブブの個展「花粉と種子」では、本作の発展形として「人魚の生殖システム自体のクィア性」に焦点が当てられた。《人魚の領土―旗と内臓》のインスタレーションでは曖昧だった「尾びれ」が、「雌しべと雄しべを備え、花粉を放出/受粉する花」すなわち「生殖器」として描かれたペインティングが提示された。この「尾びれ=花」を立体化した作品とともに、花粉と種子をカラフルな球体の連なりで表現したインスタレーションが展示空間を包み込む。ブブの新作は、人間/動物/植物という境界の撹乱とともに、「男性器/女性器」ではない、別の性器・生殖システムの想像を見る者に促す。それは、ヘテロノーマティヴィティや、外性器に(のみ)基づく性別二元論という規範からの「脱皮」の提示でもある。

私たちの身体は、ジェンダーやヘテロノーマティヴィティによって既に何重にも領土化されている。ブブの両作品は、「脱皮」という身体の変容の痛みを伴うメタファーによって、これまで不可視だった内臓が新たな表皮と化すように、性と生殖をめぐる規範に覆われた身体を脱領土化していくクィアな想像力を示している。


ブブ・ド・ラ・マドレーヌ《ジェンダー・クイア・ダンス》(2023)[© BuBu de la Madeleine. Courtesy of Ota Fine Arts.]


ブブ・ド・ラ・マドレーヌ「花粉と種子」 オオタファインアーツ 7CHOME(東京、2024)[© BuBu de la Madeleine. 撮影:鐘ヶ江歓一 Courtesy of Ota Fine Arts.]

再びコレクション展に戻ると、ブブのインスタレーションと対面するのが、24個の裸電球が連なるゴンザレス=トレスのインスタレーション《「無題」(ラスト・ライト)》である。本展では、ブブのインスタレーションの旗の連なりと呼応するように、パーティーの輪飾りのような楽しげな形態で展示されたが、本作の展示方法は所有者やキュレーターに委ねられており、作者によって指示・固定された展示形態をもたない。「展示方法を完全に他者に委ねる」という態度は、最大限の自由度を与えているようで、作品の「所有」という近代的概念に対する批評でもある。「物体」としての作品は「所有」可能だが、「展示のたびに形態が流動化し、複数性とともに現われる」事態は、「作品の唯一的で完全な所有」そのものに疑義を呈しつつ、(本展でのブブ作品との対置のように)「作品の展示」がキュレーターなどつねに他者の用意した文脈によって「所有される」ことを露呈させる。つまり、ゴンザレス=トレスは、自由な裁量と引き換えに、展示という行為の政治性を暴く仕掛けをウィルスのように仕込んでいるのだ。同時に、定まった形をもたず、固定化や定義をすり抜けつつ、複数性へと開示していく戦略は、きわめてクィア的でもある。


左奥:フェリックス・ゴンザレス=トレス《「無題」(ラスト・ライト)》(1993) 右手前:ブブ・ド・ラ・マドレーヌ《人魚の領土─旗と内臓》(2022)[提供:国立国際美術館 撮影:福永一夫]


フェリックス・ゴンザレス=トレス《「無題」(ラスト・ライト)》(1993)[提供:国立国際美術館 撮影:福永一夫]

「作品の所有」をめぐる問いが、まさに作家自身の「身体」と交差するのが、(所蔵品ではないが)ゴンザレス=トレスの代名詞であるキャンディやフォーチュンクッキーの作品である。さまざまなバリエーションがあるが、壁際のコーナーや床に敷き詰めたキャンディやクッキーを、観客は1個ずつ持ち帰ることができる。展示中、「作品」の構成要素は日々減り続け、所有者は「観客への分有」という形でしか逆説的に作品を所有できない。さらに、観客が持ち帰ったキャンディやクッキー自体、食べられて消滅してしまう。作品の重量は、ゴンザレス=トレス自身の体重や、同じくHIVに感染して死亡した同性パートナーの体重を足したものが指定されている。「消滅していく作品」を「死に向かって衰弱していく身体」とメタフォリカルに重ね合わせつつ、「分有しつつも完全な総体としては誰にも所有できない」というあり方は、「キューバ出身、ゲイ、HIV感染者」という何重にも周縁化された彼自身の出自や生を考え合わせると、作品/身体/アイデンティティの等号と所有をめぐる政治的な闘争でもある。

ブブとゴンザレス=トレスは、「エイズ危機」の時代を生き、ともにパートナーや友人(古橋悌二)をエイズで失い、自身も病に罹患した。クィアという文脈でも交差する両者の作品は、個人の身体が、ジェンダーやヘテロノーマティヴィティという性の政治によって、あるいは美術という制度によって所有される事態に対して、どのように脱領土化していくかという思考においても響き合っている。

★──ブブ・ド・ラ・マドレーヌ「人魚の領土―旗と内臓」(『国立国際美術館ニュース』第252号、2024)https://www.nmao.go.jp/wp-content/uploads/2024/01/news252.pdf

関連記事

「コレクション2 身体───身体」(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2024年03月26日)
コレクション1 80/90/00/10(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)
コレクション1 遠い場所/近い場所|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年08月01日号)
『ブブ・ド・ラ・マドレーヌ展「甘い生活 LA DOLCE VITA」』|木ノ下智恵子:お奨め展覧会(2002年03月15日号)

鑑賞日:2024/02/06(火)、02/17(土)