artscapeレビュー

コレクション1 遠い場所/近い場所

2022年08月01日号

会期:2022/06/25~2022/08/07

国立国際美術館[大阪府]

コレクションの本気と底力だ。ウクライナへの軍事侵攻と沖縄返還50周年という時事性に基づき、①東欧からロシアの作家群と②沖縄出身の作家(石川竜一、山城知佳子、ミヤギフトシ)をそれぞれ小特集に組み、企画展に負けない見応えがある。①は、共産主義体制の崩壊を経た社会的激動期である90年代以降の中東欧のアートを紹介した「転換期の作法」展(2005)が土台にある。現在のウクライナ侵攻や難民危機について直接言及するわけではないが、ホロコースト、冷戦と共産主義下での抑圧、ソ連崩壊といった20世紀史が通奏低音をなし、この地域の現在につながる歴史的視座を提示する。企画の発案から、リサーチ、貸出の交渉、予算調達、輸送など、実現まで1年から数年間かかる企画展に比べて、状況に対するコレクション展のフレキシビリティの高さを示した好例だ。また、②では、山城知佳子の2000年代の初期作品群(《オキナワTOURIST》3部作[2004]、《OKINAWA墓庭クラブ》[2004]、《あなたの声は私の喉を通った》[2009]など)をまとめて収蔵したことの意義も大きい(なお、これら初期作品群については、「山城知佳子作品展」[2016]の拙評を参照されたい)。

展示室を進むと、多数の民間人を巻き込んだかつての激戦地/現在の戦火に加え、沖縄/本土、旧共産圏/西側という地域的周縁性など、この2つの地域を架橋するつながりの線が見えてくる。例えば、山城知佳子が問う沖縄戦の記憶の継承と、クリスチャン・ボルタンスキーやユゼフ・シャイナにおけるホロコーストの記憶。山城の映像作品《あなたの声は私の喉を通った》では、サイパン戦で家族を自決で失った老人の証言を、山城自身が語り直す。記憶の継承とは、他者(死者も含む)の声の憑依や痛みの分有といった身体的プロセスであることを、山城の目から流れる涙や次第にオーバーラップする2人の声と顔が示す。ウクライナ系ユダヤのルーツを持つボルタンスキーの代表作例《モニュメント》(1985)は、子どものモノクロの顔写真を手作りの祭壇風に設置し、犠牲者の追悼を思わせる。強制収容所から生還した経験をもつユゼフ・シャイナのドローイング《群衆》(1996)は、顔のない人間の上半身のシルエットが無数に集積し、大量死がもたらす匿名性や個人を均質化する抑圧的な社会体制を暗示する。



左:山城知佳子《あなたの声は私の喉を通った》(2009)
右:山城知佳子《OKINAWA墓庭クラブ》(2004)



左:クリスチャン・ボルタンスキー《モニュメント》(1985)
右:ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water…」シリーズより(2004/2006)


また、ボリス・ミハイロフが写す「華やかなショッピングストリートの浮浪者」は、石川竜一のスナップの1枚と共鳴する。ウクライナ北東部のハルキウ出身のミハイロフは、ベルリンと故郷を行き来しながら、社会の変化から取り残された低所得者や路上生活者の姿を捉えた。チェリーを詰めた袋を抱えた浮浪者は、果汁で真っ赤に染まった手と口元が血塗られたようで、強烈な印象を与える。ダイアン・アーバスや鬼海弘雄の系譜に連なる特異な風貌の人々を、強烈な色彩とともに沖縄の路上で捉えた石川の写真集『絶景のポリフォニー』(赤々舎、2014)の1枚では、路上に裸足で座り込むホームレスの男、背後のデモ隊と機動隊、その奥のブランドショップという多層構造が、沖縄の抱える矛盾を示す。



ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water…」シリーズより(2004/2006)



石川竜一『絶景のポリフォニー』より(2011-2014)


石川の別のスナップはクラブのドラァグクイーンやキスを交わす女性同士を捉え、ミヤギフトシの作品とクィア性においてつながっていく。ミヤギの「American Boyfriend」プロジェクトのなかの映像作品《The Ocean View Resort》(2013)では、アメリカから故郷の沖縄へ戻った主人公の語りが、同性の友人Yへの淡い恋心と、戦争捕虜だったYの祖父と米兵との関係という2つのエピソードを詩的に往還する。同じ音楽を「基地のフェンスを隔ててYの祖父と米兵が聴く」関係が、「レースのカーテンを隔てて主人公とYが聴く」関係として反復される構造により、個人的で親密な関係と、国家や民族、軍事的な境界線というより大きな枠組みが入れ子状に示される。

ここに、基地のフェンスの前でアイスクリーム(=与えられた「甘いもの」)をひたすらなめ続ける山城自身のパフォーマンスを映した《オキナワTOURIST-I like Okinawa Sweet》を並置すると、「沖縄の表象とジェンダー」というもう一つの問題が見えてくる。山城作品では、アイスクリームをなめる仕草や汗で濡れた肌を見せつけるなど、あえて性的に強調してふるまうことで、基地が潤す経済や日本政府の補助金に依存する沖縄の受動性や被支配者性が、「女性」としてジェンダー化されて提示されていた。山城の批評的意図は明快だが、女性ジェンダーを依存性や受動性と直結させることは、別の問題もはらむ。

一方、ミヤギの作品では、「沖縄」の側が「ホモセクシュアルの男性」として表象されることで、政治的な力関係が、「ヘテロ男性の優位性」というセクシュアリティの支配構造と重ねられる。また、「沖縄人らしくないYの容貌」という伏線や「Yの祖父は本土からの漂流兵」という語りからは、「ウチナーンチュである主人公とヤマトンチュの血を引くY」の恋愛の困難さに、別の政治的困難さが重ねられる。「フェンス」「レースのカーテン」は、国家・民族・軍事的分断線、異性愛/クィアという境界線を何重にも示す。祖父の遺品にはさまれていた「真ん中で引き裂かれた若い米兵の写真」は「関係の破綻」を暗示するが、それでも、たとえ束の間の儚い時間でも、「美しい音楽」が両者の隔たりを恩寵のように満たすのだ。



ミヤギフトシ《The Ocean View Resort》(2013) 国立国際美術館蔵[© Futoshi Miyagi]


このように、本展は、コレクション=「現在から安全に隔てられた、消費対象としての過去」ではなく、「進行形の現在」と接続可能であること、そして「現在」を変数として入力するたびに異なる「出力値」が召喚され、読み替え可能な流動体であることを示していた。夏休み期間にもかかわらず、館内設備工事のため企画展は穴が空いた状況だったが、だからこそ、「コレクション展しかやってない」ではなく、「コレクション展だからこそできること」という存在意義を力強く示していた。


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2022/07/02(土)(高嶋慈)

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