
会期:2026/08/05
会場:京都芸術センター 講堂[京都府]
公式サイト:https://www.kac.or.jp/events/260805/
振付(家)と権力構造。振付を「ナンセンスなゲームのルールの恣意性」へと還元する自己批判。スペクタクルとして消費される身体からの逃走。バレエという制度が内包するダンサーのヒエラルキー、さらには訓練されたプロのダンサー/アマチュアや子ども、障害者といった出演者のヒエラルキーの解体。「ダンスとは何か」について脱構築するようなコンセプチュアルな作品を制作してきたフランスの振付家ジェローム・ベル。自身の名前をタイトルに冠した本作『ジェローム・ベル』は、約30年に渡る振付家としてのキャリアと人生を振り返り、映像を見せながら自作について解説し、創作の背後にあるダンスや社会への問いを語る、2時間のレクチャー・パフォーマンスである。また、2019年以降は、環境負荷への配慮から、ベルと彼のカンパニーは飛行機での移動を行なわず、上演地ごとに、現地のパフォーマーがその土地の言葉で演じる形を採っている。日本版では、2025年の YPAMでの上演と同様、川口隆夫が「ジェローム・ベル」として出演する。「他者による代演」というもうひとつの仕掛けについては後編で詳述し、まずは本作で語られるベルの思索の軌跡を概観してみよう。
10代後半で国立ダンス学校に進学するも、従順なダンサーの養成機関にすぎないことへの失望。「踊らない」ダンサーの演劇的な仕草で観客に感銘を与えることができるピナ・バウシュの舞台に力づけられたこと。当時の1980年代は、ミッテラン大統領の進歩的な左派政権下でダンスに対する国家的支援が拡充され、コンテンポラリー・ダンスが盛行した。海外ツアーにも多く参加し、ダンサーとして華やかな経歴だったが、親友2人をエイズで亡くし、「人生で何をやりたいのか」という問いに直面したことから、振付家になろうと決心する。
ここでベルが特異なのは、振付家になるための修行期間として、2年間、美術史、文学、哲学などの読書に専念したことだ。その際、「アート」「文学」という言葉を「ダンス」に置き換えて読む。例えば、ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』を「零度のダンス」に置換し、「ダンス」を問い直す思考のフレームを鍛える。また、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』に触発され、消費者の目を惹きつけるためにメディアが誇張する(性的)魅力に溢れた身体表象を批評するため、ダンスの媒体(メディウム)である身体を即物的な次元で扱う。本作と同じタイトルで発表された初期作『ジェローム・ベル』(1995)では、全裸のダンサーが、初めて触るものであるかのように自分自身の皮膚をつまみ、限界を確かめるようにゆっくりと皮を伸ばすシーンが紹介される。また、衝撃的なのが、舞台のみならず、日常的な社会規範からも「身体を解放」するために、ダンサーが放尿するシーンだ。全裸のダンサーは不動のまま、身体の内部にあったものが外に放出され、重力によって落下する運動が提示される。
観客の拒絶や批評家の酷評にもめげず、ベルはさらにラディカルな創作を進めていく。代表作のひとつ『The Show Must Go On』(2001)では、スペクタクルの消費社会と振付という権力への自己批評を展開。世界的にヒットしたポップ・ソングの歌詞を「振付のスコア」と捉え、特定の歌詞が流れた時だけ、ダンサーは歌詞が指示する行為を行なう。例えば、デヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」がかかると、「レッツ・ダンス」と歌われるサビの間だけ、出演者はクラブ風の踊りを繰り返すが、それ以外は棒立ちの異様な時間が続く。ポリスの「見つめていたい」が流れると、出演者は舞台前面に一列に並び、客席を黙って凝視する。高尚なダンス/ポップ・カルチャーというヒエラルキーや、「見る/見られる」の非対称性の解体と同時に、ムーブメントの審美性や高度なテクニックが排除され、「振付とは、身体に課されたゲームのルールにすぎない」という恣意性や権力性が露わになる。
また、ベルは2000年代以降、パリ・オペラ座バレエ団からの依頼(!)を契機に、ダンサー自身が実演を交えて自伝を語る「ドキュメンタリー・ポートレート」のシリーズに取り組む。アマゾンの先住民の部族をフィールドワークしたクロード・レヴィ=ストロースの文化人類学を参照し、「バレエという未知の体系」が研究対象にされた。調査サンプルとして起用されたのが、バレリーナのヴェロニク・ドワノーだ。バレエ団のヒエラルキーでは中間に位置するドワノーは、主役のエトワールを引き立てるために舞台美術のように静止する時間が最も辛いと語り、群舞と静止を行き来するシーンを実演してみせる。『白鳥の湖』の優美な音楽が覆い隠していたのは、ダンサーを非人間的な部品に変えるバレエの階級制度と、その基盤にある国家権力(絶対王政期に設立された王立ダンスアカデミー)だ。
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2010年に入ると、ベルは、知的障害者の団体から依頼され、「言葉で表現することが難しい出演者とともに、人間性を疎外せず、どう創作できるか」という困難な問いに向き合う。『The Show Must Go On』のメソッドを応用しつつ、「出演者が自分の好きな曲を選び、自身のソロを作って踊る」という委ね方を選択した。踊りに熱中する出演者たちのパワーに圧倒され、「今、ここ」を生きている身体ほど舞台においてパワフルなものはないと語るベルは、『Disabled Theater』というタイトルとは裏腹に、この作品では、振付家という特権性からの解放、社会規範を解除する場として立ち上がる舞台、そして社会で周縁化された存在に表現力という力と武器を与えるものであったと振り返る。
『Disabled Theater』は高く評価されたが、「一人ひとり違うはずなのに、知的障害者としてひとくくりにされてしまう」という反省から、車椅子ユーザー、子ども、クィア、移民、定年退職者などより多様な出演者とともに、同じ手法でつくり上げたのが『Gala』(2015)である。また、『Disabled Theater』では、中央でソロを踊る出演者を、他の出演者が椅子に座って見つめるという構造だったが、『Gala』では、ソロの踊り手の動きを真似して他の出演者も一緒に踊ることにより、ソロ/群舞という境界も流動化させた。「それぞれが個でありながらどう平等でいられるか」という複雑な方程式をダンスで解くことの喜びがあったとベルは語る。
そして、イサドラ・ダンカンの自伝を元に彼女についての伝記的な作品をつくったことを契機に、ベルは、自身について語るこの作品『ジェローム・ベル』をつくるに至ったと語る。ダンスをめぐるラディカルな思索が2時間に凝縮された本作はそれだけでも十分に面白いのだが、さらにもうひとつの仕掛けが加算される。ここまで「ベルは」という主語で述べてきたが、実際に本上演で「ジェローム・ベル」として登場するのは、本人ではなく、川口隆夫という日本人のパフォーマーが日本語で語る。直接的な契機は気候変動対策であるとベルは述べるが、「本人ではない他者が振付家の自伝を語る」という構造は、「振付」それ自体についてのさらなる問いを推し進める。それは同時に、ダンス(舞台芸術)の反復性・再現可能性や、映像アーカイブと舞台芸術の一回性の問題についても問う作業になるだろう。
鑑賞日:2026/08/05(水)
関連レビュー
越智雄磨『コンテンポラリー・ダンスの現在──ノン・ダンス以後の地平』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年07月15日号)
未だ見ぬ身体へ──川口隆夫『大野一雄について』|岡村恵子:フォーカス(2017年11月15日号)
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(後編へ)※10/5公開予定