名古屋市民ギャラリー栄は、中区役所が入るビルの7階と8階にあり、大小11の展示室で構成されている。天井高は3メートルで、壁はライトグレーのクロス、床は掃除がしやすいリノリウム。ほかの公営ギャラリーよろしく、基本的に壁に釘は打てないので、多くの利用者はワイヤーで作品を吊っている。スポットライトや展示台は無料で貸してもらえる。地元の絵画教室、写友会や書道会が利用し、市民たちの活発な発表の場になっている。
必要十分の設備だが、いわゆる現代美術をフィールドとするアーティストにとっては必ずしも展示がしやすいとは言えないギャラリーでもある。現代美術のアーティストたちは、白い壁と高い天井、そしてフローリングやコンクリートの床を好む傾向にある。実際、国内の現代美術館はほとんどがこれらの仕様に適っている。そこでは壁や天井から自由に作品やプロジェクターを吊るすことができ、彫刻を床に直接置いても様になる。1929年開館のニューヨーク近代美術館が採用した、いわゆる「ホワイト・キューブ」は、いまでも「ニュートラルな」展示空間として人気だ。大学で現代美術を学んだ若いアーティストのなかには、「ホワイト・キューブ」とは勝手が異なる公営ギャラリーでの展示を思い描きにくい人もいるだろう。
地元アーティストとともに、自主事業を模索する
今回は市民ギャラリー栄で開催された第5回次世代アーティスト企画展「刷れば、」のレビューから出発して、同館が近年地元のアーティストたちと共に取り組んでいる一連の自主事業について紹介する。本展は、山口麻加が主宰するオルタナティブ・スペース/版画スタジオである「波止場(studio)」が、小栗沙弥子と中村航をゲストアーティストとして招いて開催された。版画を主なメディウムとしていない作家に版画スタジオで制作をしてもらい、その成果を同館で発表するという趣向だ。
第5回次世代アーティスト企画展「刷れば、」チラシ
小栗は岐阜県に生まれ、愛知県立芸術大学美術学部を卒業後、岐阜県を拠点に活動している。日常生活のなかで手に入れた紙屑をコラージュして、地図の一区画や間取りを思わせる小さなレリーフを作るシリーズ「地面を壁を歩く」や、キャンバスの木枠をカッターで細く削った「飾り」シリーズなどで知られる。一方で中村は大阪府出身、米国・カリフォルニア州の美術大学で学び、大阪で活動する画家である。近年は、深い青や緑の色面に柔らかな輪郭と掠れた筆致で、抽象化された情景のような絵画を描いている。小栗は大学在学中に研究生として版画を学んだことはあるものの★1 、両者とも平素から版画を制作していないアーティストだ。
本展で小栗は、制作の現場にある凹凸のあるものを、紙に転写することに情熱を傾けたようだ。例えば、「波止場」にあった版画の制作過程でインクを乾かす際に用いる板や、自身のスタジオでボンドを溶くのに使っていたカッターマットをカーボン紙や版画用紙に写し取っていた。さらに、「コラグラフ」の技法を応用し、「地面を壁を歩く」シリーズにインクをつけてプレス機にかけ、紙に現われた作品の型のようなものを展示していた。
第5回次世代アーティスト企画展「刷れば、」より、小栗沙弥子の作品展示風景[筆者撮影]
他方の中村はドライポイントの技法に正面から取り組んだ。ドライポイントは銅版の表面を引っ掻いて版にする技法だが、普段から描いているドローイングのニュアンスを、ニードルや小刀、ヘラなど使って版画表現に変換した。さまざまな先端をもつ道具で削ったり擦ったりしてできた肥痩の異なる描線は、バイオモルフィックなものもあれば、丸刀や三角刀で描いたと思われるゆったりした直線もある。中村の油彩画は静謐な雰囲気を纏っているが、版画は多様な線が画面を走っているせいか、どこか賑やかだ。
第5回次世代アーティスト企画展「刷れば、」より、中村航の作品展示風景[筆者撮影]
本展はところで、少々複雑な運営体制になっている。展覧会の内容は山口が企画したものだが、山口を指名したのは「Art Space & Cafe Barrack」である。「Art Space & Cafe Barrack」は、近藤佳那子と古畑大気によるアートユニットであり、愛知県瀬戸市に位置するスペース名でもある。国際芸術祭「あいち2025」の参加作家として愛知県陶磁美術館でカフェ&ギャラリー「Who are you たそかれ」を運営していたことが記憶に新しい人もいるかもしれない(今年5月から、正式に同館でカフェをオープンさせた)。彼らは市民ギャラリー栄から委託され、本展の冠である「次世代アーティスト企画展」のディレクションを2024年の第2回目から務めている。市民ギャラリーが若手作家をディレクターに据えて自主事業を行なうのは珍しい。本事業はどのような経緯で始まったのだろうか。
コロナ禍を経ての利用者減をきっかけに
館長の宮田健によると、「次世代アーティスト企画展」が始まったきっかけにはポストコロナの状況があった★2。コロナ禍以前は展示室の利用率はほぼ100%で、多くの場合1年前には予約が埋まるので、自主事業をする必要も余地もなかった。しかし、パンデミックが落ち着いて活動を再開したところ、コロナ禍で活動を中止する高齢者の団体が増えたことが原因で、利用者数が大きく落ち込んだ。2021年12月に館長に就任した宮田は、この機に若手作家支援のための自主事業ができないかと考えたという。パンデミック以前は60代以上の利用者が大半を占めていたため、将来に向けて潜在的な利用者を開拓しようという狙いもあった。

第2回次世代アーティスト企画展「森正響一 LOVE ROMANCE ON THE FRONT LINES…」での設営風景(2024)
[写真提供:名古屋市民ギャラリー栄]
翌年9月には早速、第1回の「次世代アーティスト企画展」として、名古屋市出身の画家、水上卓哉を選出し、8階全室を使用した約2週間の個展を開催した。2024年3月の第2回からは「次世代による次世代のためのアート」★3と称してディレクターに前述のBarrackを迎え、近藤と古畑が作家を選び、広報物の作成や展示計画の策定などを含むコーディネーションやキュレーションを行なうようになった。Barrackがディレクターに就任してからの同事業は、名古屋造形大学出身の森正響一による5日間のみの個展に始まり、翌年には愛知県立芸術大学に在学中だった大野瑠菜(oono runa)の個展を8日間開催した。2025年には当初想定していた「若手作家の個展」という企画趣旨の幅を大きく広げ、愛知県岩倉市にある2つのオルタナティブ・スペース、Project Space haziと場七がそれぞれ参加作家を募って総勢約28組の展示を行なった。そして前述の山口麻加が第5回のアーティストに選ばれたが、やはり個展にはならず、結果的に山口が指名した小栗と中村の二人展となった。アーティストたちの意向を尊重して、企画を柔軟に伸縮できるのも、同事業の魅力のひとつである。
第3回次世代アーティスト企画展「oono runa 日光浴」での展示風景(2024)[写真提供:名古屋市民ギャラリー栄]
公共施設ゆえの制約と付き合う
冒頭でも触れた通り、市民ギャラリー栄は基本的に誰でも使用することができるため、利用のルールは比較的厳しい。壁に刺せるのはダルマピンのみで、展示室内で「電気器具」を使用する際はあらかじめ許可を取らなければならない。室内を暗くする展示や、壁面以外の天井や床面を使って展示する場合も、要相談。これは無論、展示室を使うさまざまなバックグラウンドをもつ利用者を鑑み、施設や什器をより長く維持し、すべての市民が安全に展示・鑑賞するために必要なルールである。しかし設営の制約が少なく、現代美術のリテラシーのある観客が大半を占める大学のギャラリーや画廊での展示に慣れた若手のアーティストたちにとっては、気詰まりなものに感じるかもしれない。彼らはというと、絵画はワイヤーではなくドッコ★4でかけたがるし、彫刻は床に直接置きたがるし、プロジェクターは天井から吊って部屋を暗くしたがる。これは無論、現代美術においては展示されているすべてのオブジェクトが作品を構成する一部と考えられる傾向にあるため、自身の作品以外の要素(上記の場合はワイヤーやプロジェクター)を観客の視界に入れることが望ましくないからであり、また台座の持つ権威性を避ける者が多く、あとは単に暗いところで映像作品を鮮明に見せたいからである。
さらに、ギャラリーの使用には料金が必要で、部屋の広さによって異なるが、6日間で58,200円から109,800円がかかる(2026年10月時点)。画廊のように1カ月の展覧会を開催しようと思うと、安定した収入のないアーティストには到底手の届かない金額となってしまう。そして、作品の販売や販売予約はできない。若手が市民ギャラリーの利用から遠のいていたのは、先に挙げた両者の了見の齟齬に加え、経済的な理由もあるだろう。
第4回次世代アーティスト企画展「Project Space hazi『ぼくたちのスーベニア』×「場七『斑点を結ぶ』」での展示風景(2025)[写真提供:名古屋市民ギャラリー栄]
翻って、市民ギャラリー栄もルールを固持して譲らないわけでは決してない。自主事業においては、本稿に載せた展示風景の記録からも明らかなように、利用のルールを緩和している。例えば、ディレクターや作家からの要望に応えて、壁面への虫ピンのビスの使用を認めた。参加作家にとっては、これだけで格段に展示のハードルが下がっただろう。宮田館長は、ディレクターや参加アーティストからの要望に応えてさまざまな展示方法を試行することで、 一般利用のみでは把握しづらい需要を検証する機会にもなっていると話す。
また、本事業では利用料を主催者である市民ギャラリー栄が負担し、ディレクター含め参加作家には謝礼を支払っている。こういった支援事業では謝礼はないか、きわめて少額であることが少なくないが、予算書の段階でそれなりの金額が割かれている。発表機会を報酬の代わりとしない点に、本事業を持続的な地元の若手支援につなげようとする同館の姿勢が窺える。
「Nagoya Contemporary Art Poses 96」での展示風景(2026)[筆者撮影]
30年分の積層の上で
付け加えれば、同館はさらに若手支援に力を入れようと、30周年を迎えた昨年度から「Nagoya Contemporary Art Posse 96」(通称NCAP)をスタートさせている。少々風変わりな名前のこの自主事業は、こちらも瀬戸市に所在のある共同アトリエ「タネリスタジオ」のメンバーである、画家のMITOSと設楽陸と共に同館が企画したグループ展である。1988年から電気文化会館で始まり、1992年から2003年まで名古屋市民ギャラリー(現在の市民ギャラリー栄)で開催されていたアートフェア「名古屋コンテンポラリーアートフェア(NCAF)」にちなんだネーミングで★5、若手アーティストの「見本市」となるよう企図されたそうだ★6(ただし作品は原則通り、販売されていない)。こちらも地元の若手作家との共同企画であり、企画者の2人を含む6人のアーティストが絵画や写真、映像などの展示を行なった。最近はこれらの自主事業を見た学生たちが徐々に施設を利用するようになり、新たに学割料金も設けたそうだ★7。
第5回次世代アーティスト企画展「刷れば、」展示風景[筆者撮影]
最後に、本稿の起点とした「刷れば、」に戻ってみる。実は、とりわけ筆者の目を引いたのは、小栗の展示方法だった。小栗は、もうこのギャラリーでは使っていない廃棄間近のステージや花台を倉庫から持ち出し、展示台として使っていた。ステージは90度寝かされて、その側面にはプレス機にかけてぺちゃんこになった「地面を壁を歩く」が並んでいた。その横にあるアルミフレームのついた花台は風合いのあるモカベージュ色で、もし美術館で学芸員が展示台はこれしかありません、とアーティストに告げたら怒られそうな見た目だ。しかし紙屑で構成された小栗の作品には、年季の入ったステージや色褪せた花台が、なかなかどうしてしっくり来ていた。それどころか、作品の周囲にある傷やところどころ剥がれた薄桃色の経師紙に、それまでたくさんの市民たちが使ってきたであろう歴史さえ感じた。制作するときは「手に入れたものをただ使う」★8という小栗らしい選択だが、古い什器たちが「発見」され、再び使用されたことは、これもまた現代作家の展覧会を市民ギャラリーで行なう小さいが確かな意義に思えた。
第5回次世代アーティスト企画展「刷れば、」より、小栗沙弥子《幽霊(地面を壁を歩く)》(2026)[筆者撮影]
★1──「とるにたりないものはなし 小栗沙弥子 愛知県美術館 収蔵作家インタビュー」(AACタイム、2024年12月11日公開、2026年9月23日閲覧)
★2──筆者による宮田健館長のインタビュー(2026年9月15日、市民ギャラリー栄にて)
★3──「LOVE ROMANCE ON THE FRONT LINES…森正響一」展(2024年3月5日〜10日)チラシの宮田健のステートメントより引用
★4──壁面に取り付けて使用する角柱状の部材。横位置で壁に打ち付け、絵画裏の木枠を引っ掛けて展示する。ワイヤーでの展示とは異なり、展示器具が一切見えないことと、壁面に対して垂直に展示できることがメリットだが、取り付けの際に壁にビス穴が空いてしまうことがデメリット。
★5──MITOS「エヌカプの視座」(『Nagoya Contemporary Art Posse 96 記録集 01』名古屋市民ギャラリー栄、2026、p.3)
★6、7──筆者による宮田健館長のインタビュー(2026年9月15日、市民ギャラリー栄にて)
★8──「とるにたりないものはなし 小栗沙弥子 愛知県美術館 収蔵作家インタビュー」(AACタイム、2024年12月11日公開、2026年9月23日閲覧)
市民ギャラリー栄 第5回 次世代アーティスト企画展「刷れば、 lf you were to print it,」
会期:2026年8月15日(土)~30日(日)
会場:名古屋市民ギャラリー栄 8階 第10展示室(愛知県名古屋市中区栄四丁目1番8号 中区役所平和不動産共同ビル7階)
参加アーティスト:小栗沙弥子、中村航
公式サイト:https://www.bunka758.or.jp/event/sakae/details/_5.html