
監訳:仲山ひふみ
翻訳:小林卓也・島田貴史
発行:河出書房新社
発行日:2026/03/20
発行元ウェブサイト:https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309231754/
本書の著書であるレイ・ブラシエ(1965–)は、2000年代後半に現代思想の一大ムーブメントとなった「思弁的実在論(Speculative Realism)」の主要メンバーとして知られる。2007年にロンドンで行なわれたワークショップ「思弁的実在論」の組織者の一人であり、かつその命名者であるとされるブラシエは、本書『解き放たれた無』(2007)の刊行と、カンタン・メイヤスーによる『有限性の後で』の英訳(2008)とによって、この思想潮流に関心を寄せる人々のあいだで大きな注目を集めた。
しかしその一方で、ブラシエ本人は、思弁的実在論という「ムーブメント」からはその後はっきりと距離を取ることになった。前述のワークショップに集ったメイヤスーやハーマンとはもともと哲学的な関心を大いに共有していたものの、それから一種の「流行りもの」として拡大を続けていったこの潮流には、明白な拒絶を示すようになったのである。その意味で、このたび原著から約20年の時を経て翻訳された本書は、当時のいくぶん限定的な受容から離れて、よりニュートラルな目で読まれる好機を迎えていると言えるかもしれない。
さて、そのうえで言うと、本書『解き放たれた無』はまずもってニヒリズムの書であると言えるだろう。しかもそれは、しばしばニーチェの名前とともに想起される通俗的なニヒリズムを再興せんとするものではなく、あくまで合理主義的な思考によって、従来のニヒリズムを徹底せんとする試みである。ブラシエによるこの目論見は、今般の邦訳に付された「仏語版序文」(15–20頁)において明晰に語られている。その一部を要約するなら次のようになるだろう──真理の否定としてのニヒリズムは、もっとも端的には「いかなるものも真ではない」という命題に帰着する。だが、もしも本当に「いかなるものも真ではない」のだとすれば、その「いかなるものも真ではない」という主張それ自体もまた真ではなくなる。そうした真理の否定は、ニヒリズムにおけるもっとも深淵な問いを解決するというより、その問いをやりすごすかたちで解消してしまう。その場合に残るのは、語の厳密な意味でのニヒリズムというより、むしろひとつのシニシズムである。
この哲学的なプロジェクトがもっとも直接的に展開されているのは、本書第七章(最終章)の「絶滅の真理」だろう。この章の大半はまさにニーチェ的なニヒリズムとの対決に捧げられており、前段落で素描した問題が、ニーチェのみならずリオタール、レヴィナス、フロイトといった複数の思想家との濃密な対話を通じて展開されている。だが本書の醍醐味はむしろ、前述のような「ニヒリズムの徹底」という企てを、分析哲学・大陸哲学にまたがって縦横無尽に展開するそれ以前の行程にこそある。
たとえば第一章「信念の自死(アポトーシス)」で中心的に検討されるのは、ポール・チャーチランドの消去的唯物論(eliminative materialism)である。ニーチェやハイデガーといった固有名をただちに連想させるニヒリズムというテーマに関連して、その冒頭がセラーズやチャーチランドらの「心の哲学」の検討に割かれるのは、いささか意外な印象を与えるかもしれない。しかし消去主義による素朴心理学への批判と、当の消去主義に見いだされるパラドクスの検討を通じて、著者はあくまでそのポテンシャルを引き出すことを試みる。というのも、かりに消去主義に対してしばしば投げかけられる「自己論駁的」という(一見もっともらしい)主張にとどまるのであれば、さきほどふれたようなニヒリズムの(「徹底」ではなく)「解消」に陥ってしまうケースと、構造的には同じところにとどまってしまうからである。
これに続く章でも、アドルノ&ホルクハイマー(第二章)、メイヤスー(第三章)、バディウ(第四章)、ラリュエル(第五章)、ハイデガー(第六章)をはじめとするさまざまな論者との対決を通じて、本書は終始緊張感のある記述を積み重ねていくことになるだろう。それらを貫通する「問い」を適切にキャッチするために、仲山ひふみによる「訳者解説」(420-462頁)はほとんど必読と言ってよい。そこでは、本書の難解さが何に由来するのかという問題をはじめ、読者が抱くであろう疑問のほぼすべてが遺漏なく説明されている。
本書の刊行後、ブラシエの哲学的立場は──レザ・ネガレスタニやピーター・ウルフェンデールらとともに──しばしば「新合理主義(Neo-rationalism)」とも呼ばれてきた。管見では、この呼称は(少なくともブラシエについては)要を得たものである。というのも、本書が果敢に描き出そうとするニヒリズムは、よくある実存的な不安や恐怖によってではなく、むしろ合理的思考の徹底によって可能になるものだからだ。本書の副題になっている「啓蒙と絶滅」とは、理性それ自体が徹底的に突き詰められたときにある破局的なヴィジョンを示すことの謂いなのだろう。ただし、そのような認知的達成は、あくまで「知的発見の爽やかな活力」(23頁)をもたらすベクトルを有しているということも忘れてはならない。ニヒリズムの書としての本書は、同時にわれわれの(合理的)思考が解放=脱‐拘束された(unbound)先の光景を実践的に示そうとした書物でもある──本書刊行後のブラシエの歩みを踏まえたとき、あるいはそのような言いかたが可能であるかもしれない。
執筆日:2026/10/14(水)