
会期:2026/04/25~2026/09/06
会場:金沢21世紀美術館[石川県]
公式サイト:https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=65&d=1852
金沢21世紀美術館で「路上は誰のものか?」の問いとともに、その公共性をめぐる展覧会「路上、お邪魔ですか?」が開催された。本展は9月19日(土)から渋谷区立松濤美術館で巡回展を迎えた。たまたま入手した、その招待券ともなる広報物には「このポスターは、路上の紙屑と見紛うほどに、よく揉んでからご使用ください」と書かれたシールが貼ってある。このことに大変なすがすがしさを感じる。
シールの文言のみならず、区立美術館の館長名義で出されたA4規格の送付状に、このシールが貼られていること。マナー的にはできるだけきれいな状態で受付に出した方がよいとされているものを、くしゃくしゃにするように勧めること。こうした対比の間で生じる折衝関係の「あそび」こそ、本展が標榜する路上芸術の魅力だと思う。紙は平らな方が管理しやすいが、その状態では個人それぞれの「くしゃくしゃ」の度合いは見えない。一方で後者ばかりでは、何の紙かの確認に時間がかかり、立体化した紙は保管スペースも圧迫する。公と個の塩梅によって社会は成り立つが、紙をきれいに維持することが難しい私のような人間には「この紙をくしゃくしゃにしていいんだ」という開放感が心地よく★1、巡回展を待たずに金沢へ行くことにした。
ところで金沢21世紀美術館ほど、路上と親和性が高い国内の美術館はないように思える。金沢市街と段差なしに地続きでつながり、ガラス張りの外壁や中庭の空間によって、屋外と同じように館内に光があふれている。体験型の作品が観光のアトラクションとして機能していることもあるだろうが、いつ来ても老若男女がリラックスしていて、観光客も観光客のまま、美術館来場者へと仮面を付け替えることなく過ごしている。本展では順路が明示されず、迷路のようであったことも路上らしさを感じた要因だろう。
本展より。村田あやこ《金沢の路上園芸》2026、ギリヤーク尼ヶ崎《ラジカセ》1968-[筆者撮影]とくに惹かれたのは、やはり施設の環境を生かした作品群と、それらの関わり合いである。たとえば、館の中心部を貫くガラス張りの道にはギリヤーク尼ヶ崎のラジカセが置かれ、そこから彼の活動記録と思われる音声が流れるなか、村田あやこの園芸苗越しに、セガの「ジェットセットラジオ」(2000)をプレイする親子が見える。それぞれに由来する路上がレイヤー状に重なり合っている。ゲームをプレイしていた親子には、美術館を出たあとに市内のバスの中でふたたび遭遇もした。
本展より[筆者撮影]また、中庭を活用した中村裕太と、鯨津朝子の作品が合わさる空間にも強く惹かれた。まず中村の《電柱から見た生き物の世界》(2026)は、作品の主体を電柱に設定し、その周囲の環境をめぐる調査からなる。展示物は中庭に置かれた木製の電柱、アゲハチョウを呼ぶ植物と装置、それから屋内の壁面に掲げられたボード、配布式リーフレットで構成されている★2。
本展より[筆者撮影]本展は都市に潜む無用の長物を「超芸術」と呼び、その魅力を提唱した赤瀬川原平と路上観察学会の活動を振り返ることにも重点を置いている。このことをふまえ、中村が注目するのは金沢市内に残る木製の元・電柱、今ではコンクリート製の電柱に役目を譲り、ただの木の棒として市内に残る物体である。リーフレットには美術館から徒歩15分ほどの犀川大橋脇のエリアに立つ、8本の木柱の位置が示されている。また、人間にとっては無用となった棒や、今も電柱としての機能をもつ棒が、ほかの生き物や無生物を主体としたときにどのような存在として捉えられるかが記されている。
人間以外の視点から世界を眺めること。中村が電柱の視点へと至る思考の経緯は壁面のボードでも展開されている。路上観察学会と中村の出品場所は隣接し、その境界に位置する壁面には赤瀬川原平と、ユクスキュルとクリサートの『生物から見た世界』(思索社、1973)の訳者である日髙敏隆の交流を手がかりにした中村の取り組みが紹介される。そこでは彼らの文章を引用しながら、赤瀬川と日髙がかつて互いの分野を交差させるように、赤瀬川がユクスキュルに、日髙が超芸術に触れたこと、赤瀬川が犬や猫の視点から見える世界を想像していたこと、実際にアゲハチョウの視点を解析した日髙がチョウの誘引装置を制作したことなどが示されている。
日髙の装置はユクスキュルによる環世界──主体となる生き物ごとに、世界を構成する要素が異なる──をふまえ、人間とチョウによる世界の見え方の差異を具現化したものともいえる。黒面に青い線を複数引いたグラフィックは、人間にとっては幾何学的な図を示す板だが、オスのアゲハチョウにとっては同じ種族のメスとして認識されるという。中庭には廃品所から回収してきたという木柱と日髙の装置、柑橘類の低木が合わさり、アゲハチョウの訪れやすい空間を作っていた。
本展より[筆者撮影]この超芸術とチョウの研究を交差させた中村の展示空間に、さらに重なるのが鯨津朝子の《Obstacles?》(2026)である。木柱が立つ中庭を中心に、複数の円を描くような弧線がぶつぶつと途切れながらガラス張りをまたいだ室内外に引かれている。黒色の線のリズムは、建物の形態に応じて切断されているが、鑑賞者の方が動き、見る位置を変えることで、伸びやかにつながりもする。その見え方を探って鑑賞者はふらふらと空間をめぐり、中村が招こうとするチョウのような身振りになる。私の鑑賞時は、中庭には交尾中のトンボが訪れてコンクリートの地面を這うように飛び、さらに軌道を増やしていた。
本展より。鯨津朝子《Obstacles?》2026[筆者撮影]本展は国内の路上にとどまらず、クシシュトフ・ヴォディチコによるニューヨーク、Chim↑Pom from Smappa!Groupによる台中での取り組みなども紹介していた。渋谷や新宿の路上を捉えたゲームや写真群、銭湯山車は松濤美術館で再び見返したい。金沢の路上はといえば、チケット販売所に隣接するホールで「テレビで見る石川の路上 NHK金沢放送局のアーカイブズから」と題し、金沢放送局が撮影してきた県内の映像の常時上映が行われていた。ホール入り口には、エクレールなどの16mmカメラやフィルム台帳も展示され、1970年代の金沢放送局の撮影スタイルを伝えるブースも設置されていた。
本展より[筆者撮影]また同時開催されていた「コレクション展 歩く、とどまる」には沖縄の路上を扱った柳瀬安里の《光のない。-私の立っているところから》(2016-2017)──デモが行なわれているヘリパッド建設工事ゲート前の道を、戯曲を暗唱しながら歩く──が出品されていた。企画展「路上、お邪魔ですか?」の概要文には、2020年に渋谷のバス停で女性の路上生活者を殺害した加害者が述べた「彼女が邪魔だった」という発言への言及がある。この概要文は本展のタイトルがもつ反語としての力強さ──「路上、お邪魔ですか?」「いいえ、邪魔ではありません」──を際立たせている。《光のない。-私の立っているところから》はコレクション展への出品だが、SANAAによる美術館の設計によって両展は空間的につながり★3、この概要文との関わりが最も感じられる作品だった。
路上観察学会が立ち上がった40年前から、路上を取り巻く環境はなだらかに、しかしはっきりと変わってきている。出品群に見られた、路上にあるものを撮影すること、それらを公開すること、公共空間の占有、ノネコや園芸植物による生態系関与といった行為にまつわる議論はさらに変容していくだろう。これからの路上のあり方を見直すために、個々の取り組みに触れていく展覧会だった。
鑑賞日:2026/08/28(金)
★1──結局、松濤美術館の巡回展にはこの紙さえ忘れて行った。
★2──さらに街中にも、人間ではない生物や無生物の視点で街角を評した「電柱広告」が設置され、それらの鑑賞を含めた路上観察ツアーも開催された。
★3──路上観察学会の展示室でも企画展のルートでは進入できない箇所が設けられ、そこへは無料ゾーンからのみ入場できるなど、館内の境界を横断させるような試みがあった。