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高松次郎《赤ん坊の影 No.122》──限りなく「無」に近づく
「神山亮子」
影山幸一
高松次郎《赤ん坊の影 No.122》182.0×227.0cm,ラッカー・キャンバス,1965,豊田市美術館蔵
無許可転載・転用を禁止 courtesy of Yasuko Takamatsu/Yumiko Chiba Associates
高松次郎《赤ん坊の影 No.122》182.0×227.0cm,ラッカー・キャンバス,1965,豊田市美術館蔵
無許可転載・転用を禁止 courtesy of Yasuko Takamatsu/Yumiko Chiba Associates
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21世紀の高松を求めて
 影を見ると高松次郎(以下、高松)を思い起こす。高松が1998年に亡くなってすでに10年が経つが、2005年の横浜トリエンナーレ会場の入り口に、大きな1971年の作品《工事現場の塀の影》が再現されていたので、作品の記憶は新鮮さを保っている。それまでもそこにあって当然というように、幾度となく高松の「影シリーズ」を目にしていた。高松の“影”に、自分の影が投影され、作品の一部となることに満足していた単純な私の心理を違和感なく受け容れてくれていた。その包容力は私を何か分かった気にさせていた。高松のトリックに私はやすやすと引っ掛かっていたのではないか、という気持ちになってきたのは最近のことだ。ゆっくりと立ち止まり、作品と正面から向き合いたいと思った。PCのモニター画像には鑑賞者の影は映らないが、高松の“影”を鑑賞してみたかった。SF映画『2001年宇宙の旅』のラストシーンに出てくる大きな赤ん坊を高松は見ていただろう。20世紀にさまざまな高松の作品批評があるなかで、21世紀の高松に出会いたいと思った。

代表作を探す
 ところが「影シリーズ」は高松の代表作といわれるが、実際どれか1点作品を選ぶとなると簡単にはいかない。高松の作家活動全体が作品化しているのだ。作品の絵柄などをじっくり味わう古典作品とは異なる、現代美術特有の思考の連鎖が始まり、それをまた拒絶もされ、シリーズからシリーズへ横断してみたり、正しい高松作品の鑑賞法などないのかもしれないと思い始めた。とはいえ高松はなぜ影を描いたのか、影には何が潜んでいるのか、滲んだ水墨画のような影絵から象徴的な「赤ん坊」を選んでみたが「赤ん坊」も数点あった。著作権の生きている現代美術家の作品画像をWebサイトに掲載することは難しいが、著作権者が快く許諾をしてくれ、また作品のカラーポジフィルムを所有している豊田市美術館が貸出しを協力してくれて幸運にも《赤ん坊の影 No.122》にたどりついた。

カタログ・レゾネ
神山亮子氏
神山亮子氏
 後世へ作家の活動や作品を伝えるためにも、カタログ・レゾネ(作家の全作品目録)は重要な資料である。高松のカタログ・レゾネを作り始め、2004年6月には没後初めての回顧展『高松次郎──思考の宇宙』(2004.6.26〜8.15)を開催したのが、府中市美術館の学芸員で戦後美術史が専門の神山亮子氏(以下、神山氏)である。神山氏は、学生時代の卒業論文として高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の姓の頭文字をとって「ハイ」「レッド」「センター」と命名された前衛芸術グループ「ハイレッド・センター 」も書いていた。神山氏が高松の存在を明らかにする必要性があると、2003年より参加した高松のカタログ・レゾネ作成のための調査は、現在基礎資料を作る段階にあり、まだ終了していない。展覧会の図録、35mmの写真ベタ焼きなど、多様な資料を集め、画像と文字データを整理しつつ、データ処理ソフト「ファイルメーカー」に入力した作品データは、現在約1,200点となった。高松次郎のレゾネ作成が動き始めたことは、日本の現代美術家にとっては大きな一歩となる。日本のアーティストを世界の人々に認識してもらう上でも、次世代へ作品を受け継いでいくためにも、作家活動の記録はデジタルアーカイブに通じる大事なことである。高松を解釈するうえでは欠かせないカタログ・レゾネ。これら高松研究の基礎を整備し、研究している神山氏に20世紀の作品批評とは異なる、高松の“影”について話を伺いたいと思った。

倦怠から不在
 神山氏は高階秀爾の『名画を見る眼』(岩波書店)を読んだのが美術の世界へ入ったきっかけという。絵からいろんなことが読み取れるのが新鮮な驚きだったそうだ。学芸員という職業が世間に認知されはじめ、絵を見る専門家になる道を選び、東京芸術大学に学んだ。ハイレッド・センターには匿名性があり、誰がということなくグループが起こす法律限界ぎりぎりの行動、しかも洗練されたところに神山氏は惹かれたそうだ。高松へ魅せられたのは、コンセプチャルで、本質的に物事を考え作品化していくその思考のプロセス。神山氏は高松の「影シリーズ」の第一印象を「絵画のイメージと現実が錯綜する、不思議な絵」と言う。「大きな余白とグレーで塗られた影のイメージの力が、見る者の現実感と幻想との境を一挙に撹拌する。高松のコンセプトが、影のモチーフという“容器”を獲得したことが、大きな説得力につながっているのではないかと思う。高松は物質の実在を追求するが、それはつねに満たされない存在、“倦怠”として立ちはだかった。そこで高松は、絶対的な存在は、主体との間に断絶を作り出すこと、つまり完全な不在を作ることでしか表わしえない、という不在論にたどり着いた」と述べている。影を見て実在しているものを想像する方法を生み出した。卒論が「ハイレッド・センター」だったところに、高松と神山氏との関係は始まるが、府中市美術館にほど近い東京・三鷹市にアトリエのあった高松の展覧会を開催するなど、さまざまなタイミングが重なり関係が深くなっていったという。

「もの派」の源泉
 「高松は本質的なことを突き詰めて考え、美術の作品としてきちんと作っていける人。ただコンセプトや考えだけでなく、物としての表現のあり方がそのコンセプトと合致している。その一貫性が高松の魅力だ」と神山氏は語る。しかし、エロスや身体性の表現ではないので、それを欠点とみるか清潔さとみるかという視点もある。また60年代の現代美術界を、リーダー的存在として活躍していた高松は、同じように本質的に物を見る美術評論家・宮川淳(あつし)と共鳴していた。宮川は60年代前半、美術の現場をよく見て批評しており、それが60年代後半に展開される“見ることの制度”という思想に展開した。影や遠近法において“見ることの制度”を暴くような仕事をしていたのが美術界の中心にいた高松次郎である。神山氏は、制作現場と思想の密なつながりが起こった幸福な出来事としてとらえている。また戦後の美術界において「物」は一つのキーワードだったと言う。画家・鶴岡政男の「物を描こう」発言や、詩人・瀧口修造の「物質の外在性:ポエジーの外在性」の主張にそれを読み取ることができる。「影シリーズ」の造形面では、余白やモノクロームの効果、思想的背景では、無や不在という考えに高松次郎の日本的な要素を感知できる。特に影や遠近法のシリーズは、西洋近代に支配されていた絵画の見方、美術の見方に対して、疑問を最初に投げかけたと神山氏は述べている。そして関根伸夫、李禹煥らがそこから発展させて、戦後随一のモダンアート「もの派」にたどり着く。高松はその流れの源泉であった。関根伸夫は高松の助手をしていて影響を受け、李禹煥は早い時期から高松の批評を書いていた。“影”が最初に発表されたのは、東京オリンピックが開催された1964年の「第8回シェル美術賞展」(佳作)であり、高松の初個展は1966年東京画廊の「アイデンティフィケーション展」である。洋画・日本画といった従来の枠組みから分離して、現代美術の領域が独立していった60年代である。「影シリーズ」は1998年まで続いた。

【赤ん坊の影 No.122の見方】
(1)画材
「赤ん坊の影 No.122」は、キャンバスとラッカー。他の作品では、板、油彩、ペンキなど「影シリーズ」の画材はいくつかある。ラッカーは耐久性がなく黄ばみやすいので、シリーズの後半には油彩が増えている。

(2)色
白く塗ったキャンバスに、グレーで描いている。No.122は下地の白色が経年変化して黄色に変色してきている。「影シリーズ」の色はひとつずつ微妙に変えている。

(3)影のエッジ
影の効果を出すために、ぼかしの具合は苦労したところ。

(4)影の重なり
影をあえて重ねている。描かれた影と鑑賞者の影とが混ざり合って錯綜した空間が生まれる。鑑賞者はここに居るが、描かれた影の主はここにいないということに気づかされるSF的表現。

(5)サイズ
作品は大きく、想像以上に実際の影は大きく描かれている。

(6)影シリーズと遠近法
「影シリーズ」は、物を立体的に捉える遠近法から、平面として捉える見方に転換を示す作品であった。「影シリーズ」に続く「遠近法シリーズ」の代表作は、『遠近法の椅子とテーブル』(1966, 木にラッカー, 95×122×20cm, 東京国立近代美術館蔵)であり、絵画の中の遠近法を、三次元として外に出した立体作品。「影シリーズ」と両極でつながっている。

(7)作品番号
No.122のように、作品には番号が付けられているが、必ずしも時系列に沿った通し番号ではない。美術館では作品名に番号を入れているところと、入れていないところがある。


影の作り方
 「影シリーズ」の制作は、まず身近な人の影の写真を撮影し、それを基にスケッチを起こす。そしてサイズが大きい場合は下図を作り、それをOHPでキャンバスや板などに拡大投影して描いているのだろうと神山氏は言う。「赤ん坊」など何度も繰り返して描いているモチーフは投影することなく、そのまま直接キャンバスなどに下書きをして描いているようだ。高松自身はこの「影シリーズ」は1枚あればいいと言ったらしいが、高松の代名詞になり、市場でも需要があって、晩年まで続けて制作されたと思われる。作品制作において高松のなかでは“不在”というのが大きかったようだ。物があることを単に絵に描いて表現するのではなく、何もなかったところに何かがあるという、突然ものが現れてくるという状況を作ることで、物の実在性を強く感じさせる方法論を考えていたところがあり、だから“影”なんだろうと神山氏は推測する。何か具体的な物を描き込んだり、物を置いたりというのではなく、SF的な状況を作りその瞬間の強烈さで、赤ん坊がいることと、いないことをストレートに感じさせる。サルトルの実存主義やメルロー=ポンティの現象学などを読んでいた思想的な背景や、時代的な背景など、調べる課題はまだたくさんあると神山氏は述べている。

高松による高松
 美術家・高松は1958年の読売アンデパンダン展 (1949年から1963年まで開かれた無審査出品制の美術展覧会)に始まった。「点」「紐」「影」「遠近法」「波」「弛み」「単体」「複合体」「平面上の空間」「形」とシリーズを自ら命名した。「影シリーズ」を回顧した文章で「人体や物体の表現において、伝統的な西洋絵画と東洋のそれを照らし合わせてみると、西洋では、三次元空間を二次元平面にいかに表現するか、すなわち人体や物体を、どれだけリアルに描くことができるかということに重点を置いてきた。これに対して東洋では、人体・物体表現は、あくまで平面的で、立体的な描写やリアリズムに欠ける。描かれた人体・物体の印象は非常に薄くインパクトに欠け、絵から受けるインフォメーションは少ない。そこで私は影シリーズで、そのことを逆説的にとらえようとした。すべての立体は、一方から光を当てることにより、平面に影をおとす。人体や物体の詳細には全く触れず、その存在を打ち出そうとした。絵が人々に与えるインフォメーションを極力避けることによって、すべて見る側のイマジネーションの中に、その存在をゆだねたのだ。なにかを訴えかけるといった攻撃的なものは一切なくし、空気のような限りなく『無』に近い作品を目指したといってもいい。」(『不在への問い』水声社)と、スーパーフラットを彷彿させるようなことを書いている。また、高松は言う「現実の中でSFのようなことが起こったら、おもしろいと思った。或る晩どこかのビルの壁にでも通行人の影だけを非常にリアルに描いておく。少なくともこの地球上では、ものがないのに影だけがあるということは起こりえない。そんなことでともかく試作としてパネルに影を描いて展覧会に出したのです。」(『展望』119号, 筑摩書房)。また「僕の影は、影が大事なのではなくて、一つの“物が無いぞ”ということを出すために、アリバイとして出しているのです。」(『美術ジャーナル』56号, 美術ジャーナル社)。

主な日本の画家年表(15世紀〜20世紀)
主な日本の画家年表(15世紀〜20世紀) 作成:筆者
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見えないものと見えるものとの関係
 “影”は一瞬グラフィックデザインのようにも見え、誰でも思いつきそうな発想ではあるが、デ・キリコの作品を研究しながら作品化したのは高松の力だ。「影シリーズ」の総数はまだ確定していないようだが、作品批評では、中原佑介、東野芳明、宮川淳、針生一郎など、多くの評論家が近代的な見方の懐疑、人間存在の危うさ、社会的な状況との関連、現実空間と絵画の関係、絵画の制度論、イメージ論等々、「影シリーズ」について書いてきており、幅広い解釈が見られる。中原佑介はこれらを「高松次郎は『影』の絵については絵画(美術)を論じ、影の母体である物については自然(非美術)を論じるという、一種の二元論を語っていることになります。絵画空間というのは画面のなか、あるいは奥にあるのではなく、画面のこちら側ではないか。絵画空間/現実空間の問題を影を描くというヨーロッパ絵画では歴史の古い主題に回帰しながら、影だけを描くという方法によって解決しようとした。影だけが描かれた絵画では、画面の奥の空間というものがまったく意味をもちません。そして逆に、その影の絵のある画面のこちら側、われわれが現実空間といっているところが絵画空間に転移させられる。なぜなら、影があるならこちらにはその母体となっている人物や物がある筈だという自然現象にともなう意識は、絵画の現象としては、画面に描かれた影のこちら側には影の絵の母体となった、目には見えないイリュージョナルな人物や物があるという想像に転換されるからです」。さらに高松を近くで見てきた中原は次のように述べている。「高松は本質的には画家だった。主知主義者、観念主義者などといわれ深く思考するタイプだったが、実際は視覚と感覚を重視した美術家であり、コンセプチュアル・アートとは無縁でした。目に見えないものと、目に見えるものとの関係がアイディアの源泉だったと思う」(図録『高松次郎──1970年代の立体を中心に』, 千葉市美術館)。

語られる言葉を作る
 神山氏は「高松は終生、自分という存在と、自分が認識する物との関係や距離について、思考し続けた美術家であった」と言う。表現媒体や形式の多彩さは、その思考の結果であった。「影シリーズ」のなかでも、1960年代の赤ん坊の影のいくつかは、名画として後世へ残っていくと信じている、と神山氏は力が入る。神山氏は再度これらの作品を見直して何が面白いのか、初めて見る一般の人に伝わる“言葉”を考えたいと話す。高松に限らないがレゾネや、基礎的なドキュメントをきっちり積み上げていくことと同時に、語られる“言葉”や、共有される“言葉”を学芸員が作っていくことを神山氏は意識していると言う。高松の作品を取り扱うユミコチバアソシエイツによると、今年1月11日から2月9日までニューヨークの画廊MARIANNE BOESKY GALLERYで戦後日本の美術をまとめた展覧会があり、十数人の出展作家のなかに高松も入っており話題になったそうだ。その存在を見る者のイマジネーションのなかにゆだね、無に近い作品を目指した高松の作品は、21世紀も空気のようにそこにある。


【画像製作レポート】
 豊田市美術館より作品《赤ん坊の影 No.122》の4×5カラーポジフィルムを無料提供して頂き、Mac OSX+Photoshop CS+EPSON GT-8700により、600dpi・48bit・RGBでスキャニング。iMacの17インチモニターをX-riteのi1-display2でキャリブレーション後、目視による画像の色調整を行い25.6MB・Photoshop形式に保存した。毎回のことだが色の調整が難しい。基本的に白とグレーの2色なのだが、経年変化したラッカーの白色が赤みを帯びているように見えたり、黄色に見えたり、またグレーの程度も掴みきれず実物と比較してみたいと思った。画像には電子透かしを施した。今回の画像手配では、著作権保護期間内の作品を使うことから、著作権者から利用許諾を得る必要があった。高松作品を取り扱い著作権管理をしているユミコチバアソシエイツに連絡を取り、直接会って高松作品の画像をWebサイトに掲載する趣旨や目的などを説明し、許諾を得た。難しいとされる現代美術作家の著作権処理であるが著作権保護期間内であっても、使用する理由を説明し、作品の画像保護に最善を尽くせばWebサイトでも掲載の許可が出ることが証明された。また、今回は数ある赤ん坊作品の中から画像を選択するときに、著作権以外の問題が出てきて戸惑った。まず作品《No.273(影)》を保管している東京国立近代美術館へ連絡をしてみた。「特別観覧許可願と手続き等の諸注意」という4枚の用紙がすぐにFaxされてきた。このうちの1枚に必要事項を記入し、著作権者許諾書と併せて郵送するように書かれていた。締め切りは毎週木曜日で決済がおりるまで10日ほどかかる。さらにポジ1点につき5,250円(税込)を支払うとある。フリーランスの人にはかなりハードルが高いシステムだ。今回は時間的にも間に合わないので、東京国立近代美術館から画像を借用するのは諦めた。次に祈るような気持ちで豊田市美術館へ電話をしてみた。著作権者の許諾を得ていることを伝えると、問題なく協力して頂くことができ、スムーズに進んでいった。
[2021年4月、拡大画像を高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」に変換しました]


■神山亮子(かみやま・りょうこ)
府中市美術館学芸員。1971年東京都生まれ。1996年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。1998年同大学院美術研究科修士課程美術史専攻修了。1999年より府中市美術館準備室勤務。現在に至る。

■高松次郎(たかまつ・じろう)
美術家。1936年〜1998年。東京生まれ。東京芸術大学絵画科卒。1958年読売アンデパンダン展初出品。61年の≪点≫により作品のシリーズ化が始まる。63年には赤瀬川原平、中西夏之と「ハイレッド・センター」結成、街頭の清掃などハプニング・イベントで日常に「撹拌作用」を起こす。64年に代表作≪影≫シリーズ開始、67年には遠近法を立体化した≪遠近法≫、73年の≪平面上の空間≫、80年の≪形≫など。立体、インスタレーション、言語、ドローイング、写真、シルクスクリーン、絵画、また美術論などの著述等、多様な表現で日本の概念芸術をリード。第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表。

■赤ん坊の影 No.122デジタル画像のメタデータ
タイトル:赤ん坊の影 No.122。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:高松次郎, 1965年制作, 縦182.0cm×横227.0cm, ラッカー・キャンバス。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者: 豊田市立美術館。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop, 25.6MB。資源識別子:─。情報源:─。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ユミコチバアソシエイツ, 豊田市立美術館

■参考文献
高松次郎+中西夏之+三木富雄+針生一郎「座談会 現代日本の美術の底流 戦後美術『合理』と『神秘』の間隙」『美術ジャーナル』56号, 1966.1.15, 美術ジャーナル社
東野芳明「観念の遠隔操作で造る世界」、高松次郎+東野芳明「インタヴュー、不在がわれわれを駆る…」『展望』119号 pp.188-195, 1968.11, 筑摩書房
宮川淳『鏡・空間・イマージュ』1975.7.30, 美術出版社
たにあらた「面における秩序の感覚──高松次郎の平面作品」『みづゑ』No.885, pp.60-65, 1978.12.3, 美術出版社
谷川雁+東野芳明「特集:『賛否』両極の『人』」『芸術新潮』第362 号 第31巻 第2号, p.18, 1980.2.1, 新潮社
高松次郎「現代美術の夜明け EXHIBITION展覧会で語る 12 激動の『一九六〇年代展』」『芸術新潮』Vol.32, No.12, pp.100-103, 1981.12.1, 新潮社
図録『現代のイコン──かみとひととものとときのなかに』1987, 埼玉県立近代美術館
高階秀爾『名画を見る眼』1992.12.15, 岩波書店
図録『高松次郎の現在』1996.2.16, 新潟市美術館
三浦雅士「誕生したばかりの『形』を見る」『文學界』5月号, pp.185-189, 1996.5.1, 文芸春秋
図録『高松次郎──「影」の絵画とドローイング』1999.10.20,国立国際美術館
図録『高松次郎──1970年代の立体を中心に』2000,千葉市美術館
中原佑介+峯村敏明+建畠明+藁科英也「鼎談『高松次郎を発見する』」『採蓮』第4号, pp.43-62, 2001.3.31, 千葉市美術館
宮下誠「<書評> Victor I. Stoichita, A Short History of the Shadow」『西洋美術研究』No.9, pp.190-198, 2003.5.30, 三元社
高松次郎『不在への問い』2003.7.20, 水声社
たにあらた「高松次郎の『石と数字』について」宇都宮美術館研究紀要, 創刊号, 2004.3.1, 宇都宮美術館
神山亮子「実在から関係へ──1960年代と1970年代の高松次郎の作品と思考について」図録『高松次郎──思考の宇宙』2004.6, 府中美術館
中ザワヒデキ「高松次郎と数の宇宙|まとめ」『美術手帖』第56巻通巻853号, p.64, 2004.8.1, 美術出版社
神山亮子「宮川淳と高松次郎」『水声通信』No.12, pp.62-67, 2006.10.1, 水声社
2008年8月
[ かげやま こういち ]
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