Typhoonを接尾辞にもつ文化イベントの運営にしばらく携わっていた同期性だろうか、雑誌『relax』vol.114(2006年8月号)のオダギリジョーのカヴァー写真にインスパイアされた。アートディレクターの野田凪が手がけた、その名も「Typhoon Hair」。頭頂部には家を形作った髷があしらわれ、毛束の先では車、木々、ベンチ、牛などが吹き散らされている。Typhoonの動きを基調としつつ、「第一の自然」である髪がもつ成長のリズムと、流行によって変調し、カットやスタイリングによって「第二の自然」となった髪がもつリズムとが織り成す重奏に導かれて、まずはジョルジュ・バタイユの「髪」(『ランスの大聖堂』所収)という短いテクストを手に取ってみた。
バタイユは、1937年に発表したこのテクストのなかで、光や水のように無益に流れゆく髪に、「脱自」という恍惚を感じ取っている。合理的な理性に抗うかのように漂う髪は、生と死の境界に位置する両義性ゆえに「エロティシズム」の対象ともなってきた。髪は「私」の外にあり、「私」に回収されないまま消尽される。そのような過ぎ去りゆくもの、いわば「存在論的な深い空虚」を徹底的に生き抜くなかで顕在化する「至高性」は、効用に還元されない欲望やエネルギーの解放と同時に、「私」の内なる外=他者との交通に晒されるなかで生起する。ただし、それは同一化すべき、あるいは安定した関係を取り結ぶべき対象としての他者ではないがゆえに、たえず流動的かつ未完了な宙吊り状態にある。
つづけて、そのような「存在論的な深い空虚」を抱える「私」を、孤独に漂う運動体としての素粒子とのアナロジーで描いた文学、ミシェル・ウエルベックの『素粒子』を面白く読んだ。これは、1950年代末の西欧に生まれた異父兄弟である文学教師のブリュノと分子生物学者のミシェルの物語であり、社会学者のアンソニー・ギデンズがいう「純粋な関係性」をめぐる寓話としても読める。人物設定の対比は、脆弱化する人文科学の知を尻目に猪突猛進する量子力学や遺伝子工学の知の戯画ともなっている。1968年以後を時代背景に、性的解放や快楽を徹底的に追求するブリュノ、病と死の支配や身体の所有をめぐる合理的確実性および他者の生の手段化に苛まれるミシェルを通じて、伝統的諸価値の制約から解き放たれた個人の欲望の肥大化と自滅の過程が鮮烈に描かれている。『素粒子』はまた、個人の「自由」を肯定したうえでの、新しい連帯の可能性をテーマにもしている。読了後、見田宗介/真木悠介による「交響圏」──個々人の「自由」を優先し、かつ個々人の異質性を享受しようとする圏域──の洞察が想起された。
『社会学入門──人間と社会の未来』の補章で、見田もバタイユに触れながら、「『それぞれの主体にとって〈至高なもの〉』を、相互に解き放つような社会の形式」を探求している。それは、生きることの歓びの源泉である他者との積極的な関係性と、生きることの制約や障害となる他者との消極的な関係性という「他者の両義性」を相即する社会の構想でもある。そして、本章では、「越境する知」である社会学の「魂」が語られ、近代社会と現代社会の見取り図、現代社会における対人感覚、自己感覚、世界感覚の変容などが論じられている。「使える」入門書や知識のコンビニ的供給源としての新書ブームとは一線を画し、同書は社会学を「生きる」人へはもちろん、個々人にとって異なる「切実な問題」に真摯に向き合おうとする人びとへのエールとなっている。
さて、冒頭で示したカヴァー写真に再び目を向けてみる。髪/衣服/建築の相互関係を探ることは、素材の加工や可変性、あるいは身体を核とした空間造形や空間スケールにおける連続性と差異という点からも一興に値するものの、ここではTyphoonの最中、オダギリジョーの頭頂部で持ち堪えている家の髷の様子から(飛躍もはなはだしいが)、天災ならぬ人災である昨今の耐震強度偽装事件の動向に話を旋回してみよう。
現在、国土交通省は事件の再発防止に向け、一級建築士の基準などの建築士制度の見直しを図っている。制度見直しの内実はさておき、三級、否、そのような資格や制度のレールにはのらない「第三の建築家」を多く生むことも必要ではないだろうか。高口恭行・真鍋恒博『第三の建築家──アングラアーキテクト』は、ル・コルビュジェ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエに代表されるフリーアーキテクトを第一の建築家、建設会社や官庁営繕の建築家を第二の建築家としたうえで、住人としての側面をもった町医者的建築家や空間リテラシーのある生活者を「第三の建築家」と呼んでいる。非日常性、実用や安全面での無責任さ、クライアントの階層性といった観点から繰り広げられる有名建築家をとりまく幻想への批判は痛快である。作品と作者名を結びつける慣習や、コンペをはじめとする競争とは無縁な「第三の建築家」は、プランナー/住民、専門家/非専門家という境界線を解体し、組み替えたところに位置づけられるものであろう。
不思議なことに、科学技術ジャーナリズムや科学技術コミュニケーションの分野で、建築と社会の関係が掘り下げて論じられることは少ない。その点、必ずしも住宅に関する記述は目立たないが、佐倉統・古田ゆかりが『おはようからおやすみまでの科学』で提唱する「リビング・サイエンス」の試みが興味深く感じられた。佐倉・古田は、「リビング・サイエンス」を生活者の視点から科学・技術を捉え返そうとする「越境する知」の実践であると定義し、たとえば台所の日常を構成する食材、調理器具、家電、エネルギー資源などを俎上にのせている。生活者とは誰か、従来の括弧付きの市民と生活者はどう違うのかなど議論すべき点は多いが、生活の具体的な局面で建築をめぐる「学び」を紡ぎ出そうとする、「リビング・サイエンス」に覚醒した「第三の建築家」たちの広がりに期待したい。
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