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2006年の5冊
暮沢剛巳
[くれさわ たけみ/美術評論家]

 秋に東京都現代美術館で開催されていた大竹伸朗展は、2006年最大の収穫のひとつといっていいだろう。とにかく、国内最大規模を誇るあのギャラリー空間が、3層にわたってただ1人のアーティストの作品が埋め尽くされたのだ。個々の作品の質はともかく、壮大なジャンクのごとき光景は必ずや観る者を圧倒せずにはおくまい。だが、展覧会に合わせて出版されたエッセイ集『ネオンと絵具箱』(著者自ら手がけたことが一目で分かる鮮やかな装丁は、いかにもこのタイトルに似つかわしい)に同種の感慨を期待して手に取ると、あたかも肩透かしをくらったような気分を味わうことだろう。というのも、同書のなかで綴られている著者の日常は、起き抜けに池の金魚やめだかに餌をやったり、ネオン管に染み付いた絵具のにおいが気になったりと、およそ展覧会のスケール感とは無縁の淡々としたものばかりだからだ。いかにして著者は、この10年来拠点を置いている宇和島での変化に乏しい日常のなかで、かつてはニューウェーヴの前線に立ったほどの旺盛なクリエイティヴィティを保ち続けているのか。本書を一読した私は、むしろ書かれていない部分の方が気になってしまった。

 アーティストの著作としては、悪趣味な装丁の効果もあいまってか、村上隆の『芸術起業論』もまた大きな話題をさらった。本来アーティストは起業論などとは縁遠い存在なのだが、ことこの人に限ってほとんど何の違和感もないのは、自らカイカイキキという会社を運営し、また積極的なメディア戦略を仕掛けるなど、起業家としての顔もよく知られているからなのだろう。実際本書の内容も、欧米のアートのルールを徹底的に研究して緻密な戦略を立て、市場で高い評価を確立するに至った「成功法則」を率直に語る一方、旧態依然とした日本のアート界を容赦なく切り捨てるなど極めて明快で、起業論という看板には何の偽りもない。確かに反発を感じる部分もあるが、手の内を隠してはいないから嫌味はないし、それにその説得力がほかでもない著者自身の実績によって裏付けられていることは認めざるをえないだろう。だが一方で、これだけロジカルでコスト意識の高い思考をする著者であれば、ビジネスの世界でも成功できただろうに、なぜわざわざ現代アートとい浮き沈みの激しい「水物」に手を出したのかがわからないという読者も少なくはあるまい。閉鎖的な日本画壇への不満やサブカルチャーへの強い関心? そうした決まり文句だけでは、恐らく著者の心の奥深くに潜む衝動を解明することはできないだろう。ビジネス書同然の本書の読後感はいかにも牧歌的な『ネオンと絵具箱』とは大いに対照的だが、奇しくも書かれていない部分の方に興味を引かれるという一点は共通しているのである。

 批評集の類にも、地味ながらも注目すべき成果が散見された。その筆頭が千葉成夫『未生の日本美術史』であろう。「未生(みしょう)」とは耳慣れない言葉だが、実は「まだ生まれていない」という意味の造語であり、比較的最近の動向を一種の反ヘーゲル的な歴史意識によって捉え直す試みに対応したものだ。ちなみに本書の議論には、主として2本の伏線を指摘することができるだろう。1本は、著者がちょうど20年前に同じ書肆から刊行した『現代美術逸脱史』であり、「類としての芸術」「プラークシスとしての美術」という著者特有の言い回しがここでも用いられていることからも、本書がその続編的な性格を強く持っていることがうかがわれる。もう1本は、椹木野衣の『日本・現代・美術』である。同書が提示した枠組みの大きな反響は今更言うまでもないが、本書では堀浩哉、戸谷成雄、遠藤利克、川俣正、中村政人、中ザワヒデキなどそれとは明らかに系統の異なる作家に美術史的な重要性を見出し、またマンガやアニメなどのポップカルチャーと「制度」としての美術を対置するなど、明らかに『日本・現代・美術』を批判的に意識し、同書とはまったく異なる戦後美術の系譜学を描こうとする意図を強く滲ませている。考えてもみれば、『日本・現代・美術』の議論の多くは『現代美術逸脱史』に依拠していたのだし、過去の経緯を振り返るなら、本書は著者なりの時を隔てた返答なのだと言えなくもない。

 一方、問いを投げ返された格好の椹木は、年末近くになって『美術に何が起こったか1992-2006』を出版した。タイトルからもわかるように、この10年来の著者の仕事をまとめた批評集であり、今までの著書には再録されずにいた時評や対談などをまとめて構成されている。シミュレーショニズムの論客として登場した著者も、近年は日本の戦後美術の再構成へと重点を移し、岡本太郎や万博についての関心を深める一方、反戦運動などにも積極的にコミットしてきた。本書に再録された多くの断片からは、そうした著者の関心の軌跡を見て取ることができる。加えて、本書には著者が今までにキュレーションやプランニングを手がけた展覧会の概要が詳細な図面を交えて紹介されており、著者の批評活動にとっては、展覧会の企画を立案し、そのコンセプトを視覚化してみせることが、文章として記録することと同様の重みを持っていることが伝わってくる。なお個人的には、著者の仕事のなかでも、審査員を務める公募展においてK.K.の「ワラッテイイトモ、」を発掘し、適切な文脈を与えて広く紹介したことが特に強く印象に刻まれたことを記しておこう。

 なお批評の収穫ということで言えばもう1冊、上田高弘『モダニストの物言い』もぜひ触れておきたい。著者は90年代には藤枝晃雄の強い影響下にある若手のフォーマリストとして注目されていた存在だが、近年は美術雑誌などで名前を眼にする機会も少なくなっていた。そのため本書の出版には意表をつかれた思いをし、また少しばかり読み進めて著者の思考がまったく変わっていないことを確認してどこか安堵もしたのだった。迂回や挿入が多く、また回りくどい言い回しを多用する著者の文体は非常に読みづらく、また党派性が鮮明なその主張には、朝比奈逸人やアンゼルム・キーファーらへの注釈を別にすれば、むしろ同意できない部分も多い。にもかかわらず、明らかに偏向した主張にどこか引き寄せられてしまったりもするのは、著者が反時代的なまでにモダニズム芸術にこだわり、孤立無援の局所的な論戦を挑もうとする様子にどこかで共感を覚えるからなのだろう(それゆえ、本書に収録された文章の多くはかなり以前に書かれたものであるにもかかわらず、経年変化によって失われたものは意外にも少ない)。私自身は立場を異にするが、フォーマリズムは美術批評における重要な立場のひとつであり、日本でもそれに基づく言説がもっと盛んに展開されるべきと考えられる。本書の出版は、その観点からも有意義なことであった。
暮沢剛巳
1966年生。美術批評家。武蔵野美術大学、女子美術大学講師。著書=『「風景」という虚構──美術/建築/戦争から考える』(ブリュッケ、2005)、『現 代美術を知るクリティカル・ワーズ 』(編著、フィルムアート社、 2002)、 『美術館はどこへ?──ミュージアムの過去・現在・未来』(廣済堂出版 、 2002)、『美術館の政治学』(仮題、近刊)ほか。翻訳=『実践カルチュラル ・スタディーズ──ソニー・ウォークマンの戦略』(大修館書店、2000)、 『ドゥルーズの哲学』(共訳、法政大学出版局、1996)、『パステルカラーの罠──ジェンダーのデザイン史』(共訳、法政大学出版局、2004)ほか。
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