私たちはいま、どのような時代を生きているのだろうか。そのような問いの前提として、20世紀は「暴力と戦争の世紀」だったということがしばしば言われる。21世紀を迎えてもなお、歴史の経験が踏まえられるどころか、「9.11」に続くアメリカの単独的な覇権主義が国際政治を不安定にし、ふたたび帝国主義戦争の時代が回帰してきたかのような様相さえ呈している。そうした退行現象は、今後の展望をますます袋小路に追いやるばかりだ。だがまさにそのような現状に活路を見出そうとして──90年代からの大きな趨勢でもあるが──ヨーロッパ系の現代思想は、おおむね政治哲学へと傾斜しつつあるように思われる。ネグリとハートの『〈帝国〉』以後、と言いうるかもしれない思考の風景にあって、私たちは、どのようなパースペクティヴを切り開くことができるのか。以下はその可能性のごく一部でしかないが、私が最近興味深く読んだ書物を紹介するなかで、ひとつの視点を提示してみたい。
かつてフロイトは第一次大戦が文明社会にもたらした「幻滅」について精神分析の見地から論じていた(「戦争と死に関する時評」1915)。フロイトによれば、この戦争は、文明化したはずの諸民族が、盲目的に憎しみと嫌悪をもって敵対するという現象を決定的なかたちで明るみに出した。というのも、こうした敵対性や暴力は、社会の文明化や道徳的規範の確立によって鎮まるどころか、まさにそのために増幅されることで噴出したと考えられるからである。その意味でこの戦争は、西洋の啓蒙的価値への信頼を回復不可能なまでに打ち砕いた。フロイトはこうしたプロセスを、人間の知性がそもそも起源において深く根ざしていた感情生活の次元に遡行することによって説明する。すなわち、この次元は、深い愛が激しい憎しみに反転し、あるいは同情の果てに残忍さがもたらされる、そうしたアンビヴァレント(両面価値的)な感情の強度として存在している。戦争とは、あたかも渦=旋風のように、文明の進歩に対して反動的に強化された情動が集団的ないし民族的に束ねられて巻き起こった現象にほかならない。このように渦巻く情動の力によって、近代的な主体や個人が培ってきた文化的価値ないし道徳的理念はあっさり凌駕されてしまうのだ。
一昨年末、日本語版独自編集によってアメリカの批評家サミュエル・ウェーバーの著書『破壊と拡散』が刊行された。本書が集中的に検討しているのはこのフロイトのテクストである。ウェーバーはフロイトの議論をラカンにいたる精神分析の展開と西洋思想の暴力論の系譜のうちに明確に位置づけつつ、フロイトの分析がたんなる誇大妄想の思弁でも政治の通俗的な心理学化でもないことを精密に読み解いている(本書はウェーバーだけでなくフロイト論文の新訳も併録しており有益だ)。ウェーバーのこのフロイト読解自体は90年代のものだが、それが「9.11」以後、フロイトの洞察そのものとともにいっそう説得力を増すものとなっているのは、本書に収められた別の論文が明らかにしているように、現代の戦争の主要な特徴が、メディア・テクノロジーを介したスペクタクルという次元から描き出されているからである。つまり、戦争を駆動する情動の渦は、現代社会をグローバルに覆うメディアのネットワークのうちに物質的な回路を見出したうえで、テレビやインターネット上のイメージの流通として直接的に可視化され、いっそう増幅されるのである。
そこからギー・ドゥボールの古典的著作『スペクタクルの社会』(1967)を参照しよう。よく知られているように、ドゥボールらのシチュアシオニストが批判しようとしたのは、人々によって現実に生きられた社会関係が、大量消費社会における商品の論理、すなわち、マスメディアを通じて商品を広告し欲望をかき立てるスペクタクル(見世物)のうちに疎外されているという資本主義的な支配の論理であった。後年ドゥボールが『スペクタクルの社会についての注解』(1988)においてさらに展開したように、資本主義社会における「統合されたスペクタクル」の全面化はとどまることを知らない。スペクタクルに媒介されないような「生の現実」はもはや存在せず、それは人間の身体を直接に捉え、知覚のシステムそのものを書き換えるにまで至っている(これはベンヤミンの複製技術論文がすでに予見していた論点でもある)。だが、このことはたんに脅威であるだけではなく、つねに両義的な帰結をともなう。アガンベンがドゥボールのこの『注解』に寄せた文章(『人権の彼方に』所収)で指摘しているように「スペクタクルには、スペクタクル自体に抗して用いるべきなにがしかの肯定的な可能性が含まれてもいる」のである。
戦争へと結集する集団的情動が、現代にあってはスペクタクルの可視的な次元へと増幅されるとともに飼い馴らされることになるのだとしても、それは一面を捉えたことにしかならない。というのも、感情のスペクタクル化は、その裏面においてつねに可視化されえない残余を反動形成するからである。すなわち、当の感情をかき立てる原動力が、スペクタクルの次元で不可視だったものを可視化してゆくという反転プロセスに求められるとするならば、スペクタクル化の進行は、その過程が今後も存続するよう、当のスペクタクルのうちでスペクタクルへとけっして可視化されない不可視の他者を、いわば反作用として、おのずと産み出し続けざるをえないのである。これは、ウェーバーに即して言い換えるならば、「テロリズムに対する戦争」が、みずからの「敵」をスペクタクルの支配によってひとつのイメージへと同定しようとすればするほど、ますますそこには掬いきれない敵の存在──「国際テロリスト」ネットワーク──が拡散し、いっそう不可視のものとして回帰し続ける、ということだ。かくしてスペクタクルの専制は、みずからの暴力によって自身の疲弊と自壊を招く「うちなる他者」に怯え続けることになるだろう。
ウェーバーを介してフロイトを再読すべきだとするならば、それは、なにかマグマのごとき噴き出す情動の流れをそれ自体鵜呑みにするためではなく、まさにフロイトの強調していた「感情のアンビヴァレンス」が、その反転プロセスを通じて、スペクタクルの全面化する社会そのもののうちに孕まれた批判的契機を明らかにするからである。帝国の覇権やグローバリゼーションの展開が、自身の威力から自己自身を守ろうとしてかえって際限のない自殺的行為に及ばざるをえなくなる、といったデリダやエスポジトの「自己免疫」の議論もまた、同様の事態を分析しようとしたものとみなすことができるだろう。要するに、現代において戦争へと人々を動員する情動や暴力の噴出が不可避であるかぎり、そうした力の発露がいわば自己相殺的に働くようなアンビヴァレントな契機を、より具体的な局面において分析し続けることが、ありうべき「〈帝国〉以後」の批判的思考の原則として浮かび上ってくるように思われるのである。
最後に付記として、二冊の共著書を挙げておきたい。一冊は未邦訳だが、Retort, Afflicted Powers: Capital and Spectacle in a New Age of War。サンフランシスコ・ベイエリアで抵抗運動を組織してきた四人の活動家グループ「リトート(反撃)」──高名な美術史家として知られる、T. J. クラークがメンバーの一人だ──が、「9.11」以後の戦争状況を批判的に分析した書物。本書もまた、ドゥボールのスペクタクル批判を活用しており、フロイトの精神分析を経由したテクスト読解中心のウェーバーのアプローチとは違って、シチュアシオニスト的観点からの状況認識として、いっそう痛烈で具体的な議論が展開されている(『オクトーバー』誌にも収録された「後記」のインタヴューはとくに興味深い)。
もう一冊は日本語オリジナルの書物から。市田良彦・丹生谷貴志・上野俊哉・田崎英明・藤井雅実『ワードマップ・戦争──思想・歴史・想像力』。いまや日本の第一線で活躍する論者たちの共作だが、彼らが20-30代の頃に著したカイドブック。文体から情熱と活気が伝わってくる。冷戦終結以前に書かれたため(初版89年)、時代認識はどうしても古くなってしまっているが、戦争にまつわる古今の重要な論点が分野を越えて広く整理・提示されており、小著ながら、大きな射程で視点を得るためのアイディアがぎっしり詰まっている。「スペクタクルと戦争」という項もある。いまでは入手できなくなっているということもあり、なんらかのかたちで復刊されることを願って、この場を機会に特筆しておきたいと思う。
|