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わたしたちは皆、都市を徘徊する探偵なのかもしれない
石山友美
[いしやま ともみ/デザイナー]

 誰にでもどうしても忘れられない都市体験がいくつかあるだろう。わたしにとって、そのなかのひとつは20年ほど前に歩いた、自宅から最寄の駅までのたった10分弱の道のりである。今まで何万回と、往復してきたその道のりは、今となっては目をつぶっていても歩くことができる。しかし、20年ほど前のその道のりの印象を今でも鮮烈に覚えている。どうして、そんなことをしたのか覚えていないし、その道のりで何か劇的なことが起こったわけでもない。幼いわたしは「行ってきます」といつものように家を出た姉を尾行したのである。20年ほど前の、その10分弱の探偵きどりの不気味な高揚感を今になって考え直すきっかけとなった本を紹介したい。

 近森高明による『ベンヤミンの迷宮都市──都市のモダニティと陶酔経験』は、ベンヤミンの都市論をフロイトの精神分析理論と並行させ再解読した意欲作である。かつて、ベンヤミンは19世紀のパリに出現した遊歩者(フラヌール)と呼ばれる、街を目的もなしに歩きまわる者たちを、パサージュという都市空間との関係を通し説明した。近森は遊歩者のアイデンティティを「観察者」と「陶酔者」とに分け、二つの相互関係を通し解き明かす。探偵ともよべる「観察者」としての遊歩者は、そのアイデンティティを視覚イメージに負っている。探偵は、群集のなかに溶け込みながらも、視覚から得る情報を分析し、真実を暴いていくのであるのだから。しかし、「陶酔者」としての遊歩者の知覚は、主体(探偵)の視覚イメージからの逸脱であり、「夢の顕在内容のように、歪曲された表象」なのである。近森はベンヤミンが「陶酔者」の都市体験を「迷宮」というモティーフを通して説明したことに注目する。そして、ベンヤミンの「迷宮」のモティーフは「痕跡」「古代神話」「死の欲望」といったフロイトの無意識をめぐる思考と重なりあうのだとする論は、説得力のあるものだ。

 レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を読むと、なるほど、探偵の存在は、ベンヤミンが唱える都市空間における「群集」「犯罪」「室内」「痕跡」といったキーワードから生まれたのだということに納得する。主人公である私立探偵、フィリップ・マーロウは、群集に埋もれながら、群集に埋もれる痕跡を辿り、やはり群集の内に埋もれる犯罪の真実に向って疾走する。村上春樹の新訳は「都市小説」としての側面をより強めたと言われているが、しかし、この小説には都市そのものの描写はないといっても過言ではない。舞台がカリフォルニアであることも手伝って、マーロウが都市を徘徊するときはいつも究極のプライヴェート空間ともいえる車であった。つまり、室内から室内へと動きまわる探偵は、プライヴェートとパブリックという二つの領域の狭間を自由に行き来し、その境界を消し去っていく。そして、境界のないこの空間こそが、都市のひとつの姿となって浮き出てくるのである。そこには、もはや物質的な境界により細かく区切られた古代の迷宮のイメージはない。ただ、ぼんやりと境界が消えた都市、チャンドラーはそんな都市を描くことに成功し、村上はそれをうまく翻訳した。

 シリ・ハストヴェットの『目かくし』は、都市の遊歩者の、より純粋な「陶酔者」としての側面を主題とした小説である。なにしろ、主人公のアイリスは、タイトル通り、探偵としてのアイデンティティに一番重要な「目」を隠しているのだから。主人公のアイリスは、翻訳を手がけた原本の主人公である少年に心酔し、そして、ついには男装し、その少年の名を名乗り街を徘徊するようになる。この明らかな自己からの逸脱、現実からの逃避のプロセスが、ニューヨークという街の描写と重なって描かれているわけだが、そこには、わたしたちが知っているグリッド状の理路整然とした都市の姿はない。夢心地の、ぼんやりしたイメージは、主人公の足跡から作り上げられた、彼女あるいは彼だけの街の姿なのである。

 こうして、二つの小説を読むと、真っ先に浮かんでくるのが、ソフィ・カルの一連の作品群である。特に、「ベネチア組曲」という、1人のほとんど面識のない男をパリからベネチアまで追いかけていって尾行するという作品と、「尾行」という、探偵に自らを尾行させた作品(探偵はそれを知らない)は、「追う者/追われる者」「視る者/視られる者」の空間的あるいは心理的関係を逆転させたものである。ボードリヤールによれば、カルは「自らが不在になり、何も気づいていない他者を映す鏡でしかなくなるという考え」自体に誘惑されているのだとする。

 ジョアン・コプチェクは、ジジェクと並ぶラカン派の学者で、その著書は難解でとっつきにくいのは事実である。『〈女〉なんていないと想像してごらん』も例に漏れずアート、映画といった視覚表象文化を通してラカンの理論を説明し、さらにその理論でもって昨今の思想にメスを入れ、新たな方向性を示していくという大変な思想書であるが、ラカンの理論の説明は非常に的をえていて分かりやすい。コプチェクはラカンがサルトルを引用して説明した「眼差し」の説明を繰り返す。「鍵穴を覗く窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される」。そして、この「眼差し」こそが、世界に客観性を与えるのだと説明する。つまり、「眼差し」の存在こそが、わたしが視ている世界が、わたしだけの幻想ではないことを保証するのである。マーロウもアイリスもカルも、「視る」という主体であり、しかし同時に眼差しの対象であった。あるいは、幼かったわたしも。そして、眼差しの対象となることで、俯瞰の都市の全体像から抜け、無限に広がる都市の深淵へと自ら迷い込んでいったのだ。
石山友美
1979年生。デザイナー。2004年〜2007年フルブライト奨学生、2006年NY市立大学都 市デザイン修士号取得。エッセイ="Little Brothers in Tokyo", Block Magazine, 2006. March、"Jia Zhang Ke and his 'World' - Bodies and cities", New York Film-Mg, 2006.Summer
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