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もはや人間ではない、としても |
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大橋完太郎 |
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[おおはし かんたろう/表象文化論] |
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目覚めた時、自分が昨日の自分と変わっていないはずだ、という確信は、いったい何によって与えられているのだろう。古くは『荘子』の「胡蝶の夢」から始まり、現代においてカフカがグレゴール・ザムザに託した『変身』に極まる、現実と夢とがないまぜになったあの感覚は、たとえ自らが奇妙な甲虫になるという鮮烈な経験をするとまではいかないにせよ、常に奇妙な手触りをともなって、覚醒中の自分にもつきまとっている。実際、髪や体毛は常に伸び続けている。細胞は代謝し、そのうちのあるものは老廃物として乾いてこそげ落ち、あるいは新たな力をみなぎらせて新しい組織となる。数日手入れを怠ったなら、人によっては別人へと様変わりしてもおかしくはない。私が私であることを保証しているものは、私の意識と、私の周囲に張り巡らされたさまざまなモノや情報でしかない。自己同一性というものが、継続する意識と外的環境を──ある合理的な仕方で──折り合わせることによって成立している仮象にすぎないのなら、意識と環境とがずれた瞬間に、「私」という統一のなかで、ある決定的な破局がおとずれることも、何ら不思議な現象ではない。その時「人間」は、もはや固有の整合性を失い、人間以外のモノになる。いわば、人は夢のように、ただの動物になる。少なくとも、人にはその権利がある。意義を問われるべきは、この「リアル」「夢」「動物」の位相だ。
そもそも、理性こそが、例えばデカルト哲学の有名な一節「我思う、故に我あり」という言明に支持されつつ、近代における人間的思考の道標として、長い間その役目を果たしてきた。そこでは「明晰にして判明な」知が、方法に従いながら連鎖し、「合理的な=理性的な」体系を形成する。デカルトの『省察』に詳しいこのプロセスにおいて、非合理なものとして動物的身体や夢の位相が排除されているのは、決して偶然ではない。動物性は、理性によって、統御、あるいは支配されねばならなかった。近代の、あるいは近代哲学の要請のひとつは、この合理化への希求に存している。「敢えて賢くあれ(Sapere Aude)」という啓蒙の標語は、「理性批判」の要請を産み出し、理性が理性的であるための権利領域を画定していくことへとつながっていく。そこにおいて人間は、もはや「子供」や「動物」から抜け出さねばならない。こうした理性崇拝とでも言える状況は、今日でもなお強力なものであって、発達した「システム」の狡智が完成度を高めている以上、あらゆる面において、「合理化」の誘惑が避けがたく存在しているのはもはや否定しがたい。だが、デリダが述べたように、合理的であり続けることも、一種の狂気でしかない。そうして、まさしくこの局面において、「非人間的なもの」の存在意義について思考する必要が生じてくる。非人間的であることは、人間が合理化されることに対する、ひとつの抵抗となりうる。だが、どのように? どのようにして、知的でありつつ、非合理であることができるのだろうか? あるいは、どのようにして、反合理的でありつつ、理性的であることができるのだろうか? ひとつの可能性を既に述べておいた。すなわち、「動物」と「夢」に向かって「変身」すること。
人間が人間以外になること、すなわち、ある「変身」への、あるいは「狂気」への可能性を説いた哲学書としては、リオタールの『非人間的なもの』がある。いくつかの小論文からなるこの書のなかで、例えば「3:物質と時間」という章を参照してみれば、精神と物質とをエネルギー的に媒介することによって、人間が、人道主義的な中心性(価値の階梯の定位点)となることを免れ、世界におけるひとつの「変換装置」となるべき提案が示されている。
さらに抽象的な議論としては、有名なドゥルーズ=ガタリの「1730年──強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」という論がある(『千のプラトー』所収)。多くの論点を含むこの難解な思考を一言でまとめるのは困難だが、そこにおいて展開される、速度と形態についての考察、アレンジメントの思考、そうしたもののただなかとして措定される「中間」の概念などは、「人間の特権」を切り崩すための最良のツールとして機能するはずだ。この論考にはすべてがある、と言っても過言ではない(この著作を、その可能性において読み解くことは、まだ手つかずのまま残されている)。
脱中心化された人間は、極めて複雑な「ダニ」のような存在となる。ユクスキュルにしたがうならば、ダニとはいわば、極めて限定された知覚しかもたない、貧しい世界に住んでいる存在者でしかない。だがこの貧しさは、驚異の裏返しでもある。例えばダニは、吸血する対象が出現するまで、18年もじっと動かずにいることができる。18年後、凍りついた時が動き出すこの瞬間を享受できるのは、ただひとえにダニの貧しさによる。こうした契機、すなわち貧しき世界に属するものが享受しあるいは歓待する「夢」のような瞬間を語っている作品は、哲学とは少し離れた領域においても存在している。そこでは、ただ体験固有の強度が、あるいは夢のように、あるいは悪夢のように、だが極めてリアルに、果てしなく繰り広げられる。
例えばキューバの作家、レイナルド・アレナスが1965年にデビュー作として書いた『夜明け前のセレスティーノ』や、あるいは、南アフリカで生まれたJ・M・クッツェーが1983年に発表した『マイケル・K』を少しめくってみるだけでもいい。二つの作品を一言で換言する暴力をあえて犯してでもこれらの書物を提示したのは、両作品においては、生という行為が、素朴な人道主義的な観点から擁護されることなどいささかもなく、むしろ生が、そうしたものさえ産み出す人間の文化(=制度)への抵抗として提示されているからだ。生とは、実在する世界という夢の中でサソリやトカゲといった動物と決然と語り続けること、あるいは実の名を失いイニシアルでしか語られない存在となっても労働を続け、足萎えの母親を乗せた手製の乳母車を押し続けることの中でしか見出されない。そこに描かれているのは、苛烈なまでに具体的な生存の様態であって、それに対しては、「生」という抽象表現を与えることさえ憚られる。動物性の本質は、具体的な行為の内にのみある。
流動する資本の結節点として有機的に社会に位置を占める「エコノミック・アニマル」という軛から脱して、別のアニマルになること。人文学的な思考は、そこにおいて賭けられるべきであって、その第一段階として、徹底的に貧しくあること、言いかえればハングリーであることが求められる。この貧しさは、ニート的な安逸へと結びつくものではない。むしろ、飢えることによって感覚を研ぎすまし、ようやく現われた獲物に即座に食らいつく「動物的な」反応にこそ、不毛な現実を切り裂き、それを夢のように貪るための知恵が存在している。なんとなれば、よい目覚めは常に、空腹という「変身」をともなっているはずなのだから。
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■参照図書 |
- 『荘子』(金谷治訳、岩波文庫、1971)
- カフカ『変身』(山下肇訳、岩波文庫、2004)
- 岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、2000)
- デカルト『省察』(山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2006)
- カント『啓蒙とは何か』(中山元訳、光文社文庫、2006)
- カント『純粋理性批判』(原佑訳、平凡社ライブラリー、2005)
- ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』(若桑毅他訳、法政大学出版局、1977)
- ジャン=フランソワ・リオタール『非人間的なもの』(篠原資明他訳、法政大学出版局、2002)
- ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(宇野邦一他訳、河出書房新社、1994)
- ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』(日高敏隆訳、岩波文庫、2005)
- レイモンド・アレナス『夜明け前のセレスティーノ』、安藤哲行訳、国書刊行会、2002)
- J・M・クッツェー『マイケル・K』(くぼたのぞみ訳、ちくま文庫、2006)
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大橋完太郎
1973年生。東京大学嘱託助手。表象文化論。論文="La Question du monstre chez Diderot dans Le Rêve de d'Alembert", (Etudes de la langue et littérature françaises, n.89, 2006.)、「自由の徒弟時代:スピノザ『エチカ』における理性の諸相」(『UTCP研究論集』6, 2006)、「タブローを越えて:『百科全書』とスクリーン」(『水声通信』No.11, 2006)など。 |
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