自主上映や野外上映では、映写途中でフィルムがよく切れた。名画座でも、フィルムがブツンと音をたてて途絶え、あたりを暗闇が支配しかけるやいなや、すかさず観客から、指笛が鳴らされ、「なにやってんだ」「カネ返せ」の声があがった。この呼吸も、場末の劇場で映画を見る楽しみのひとつだった。
先日、ひさしぶりにフィルム切れを目撃した。場所は、「ダイ・ハード4.0」を上映中の新宿プラザ劇場で、予告編が流れている最中だった。フレームがカタカタと微震動を始め、フィルムがスルリと脱落していく……。ちょうど画面は、暗殺者の動きを目まぐるしいテンポで紹介していて、フィルムの切断を、はじめは、予告編の演出と思って見ていた。フィルムが大画面いっぱいにジュワーッと焦げつき、映像の揺れもただごとでなく、数秒後には、演出なのではなく、実際のトラブルだと気づいた。
修復に5分ほどかかったろうか。野次をとばす観客もおらず、奇妙な静寂が劇場を包む。真新しいはずの予告編フィルムが切れるなんてめずらしいと思いながら、フィルムのコマが映写機から脱落していく数秒間の映像を、それが狙われた映像なのか、事故なのかを判定する手段を観客はもっていない、そんなことを考えた。ずいぶん以前に、飯村隆彦の実験映画を見ていたとき、フィルムが燃えたことがあった。このときも、その燃焼現象が、作品として写されているのか、あるいは事故なのか、にわかには判断がつかなかった。
やがて、事故を生起させているフィルムを、フィルム自身が巧妙に模倣し作品内部に取りこむようになるのだろう。すでにそんな映画があるのかもしれない。じっさいの事故なのか演出なのかを宙吊りにするサスペンスが目ざされるというわけだ。ひそかに流通するビデオでは、そこに写っている〈殺人〉が本物のものがある、と聞いたのはずいぶん昔のことだ。
しかし、ここで問題にしたいのは、〈やらせ〉や〈映像の信憑性〉の問題ではなく、微細な〈パラレル・ワールド〉のことだ。数秒後には真偽の判定がついてしまうにしても、フィルムのコマが滑落していくのを見ながら、「これが演出だとしたら」と「これが事故だとしたら」と、両様に対処しようとしていた自分がいた。ふたつの可能性に引き裂かれていた瞬間を、スローモーションのように想起できる。
「ダイ・ハード4.0」では、ホワイトハウスが木っ端微塵に爆破されるシーンが映し出されていた。このときも、「ホワイトハウスが爆破された」方向にストーリーが進むのと、そうではないのとの、両方に身構える自分がいた。フィルムの切断事故の直後のせいで、ことさら意識したのかもしれない。
いささか荒っぽいが、〈パラレル・ワールド〉を〈可能世界〉と言い換えてみたい。表象には、可能世界がリアルに透けて見えることがある。もう少し強弁するならば、リアルな可能世界が透けて見えるのを表現と言うのではないか。画家が引く一本の線は、〈そこではない可能性〉に隣接しながら、そこにある。それゆえ、基底材に定着したタッチは、見る者のなかで震えることができるのだ。
可能世界についてのすぐれた紹介者・三浦俊彦が上梓した『のぞき学原論』(三五館、2007)は、奇書と呼ぶにふさわしい。いわゆる「盗撮ビデオ」大全でもある本書には、さまざまな用途がありそうで、たとえば、どのビデオをレンタルショップで借りようかの直接的な指南になるし、撮影方法の技法書としても読めるし、公衆トイレを見る目も確実に変わるし、匂いに関する想像力もやしなうことになる……、つまり、ひとことに要約しがたい不思議さが湛えられているのだが、あえてひとことで言えば、〈この壁の向こうにあるはずの風景を想像する〉本だといえそうだ。壁の向こうにリアルな可能世界を透視するのだ。
新訳がなったジョイスの『若い芸術家の肖像』(大澤正佳訳、岩波文庫、2007)を読み進めていくと、自分の幼少から青春にかけての時代がしきりと想起される。「あのとき、なんであんなことをしたのだろう」「あそこで、こうしていれば」などとの思いが湧き、心が騒ぐ。主人公のスティーブンは「正しい答えは何だろう」と考えるがゆえに、多様な正しい答えに包まれていく。話法の織物ともいえる文体は、同時に、可能世界を何層にも束ねている。
オーストリアのグラーツに在住する写真家・古屋誠一は、精神を病んで1985年に自死を遂げた妻・クリスティーネをめぐる写真集を何冊も編んでいる。「脱臼した時間」との意味をもつ『Aus den Fugen』(赤々舎、2007)も、そんな一冊だ。生前の妻の写真は、いま見かえすと、すでに死の予兆を含んでいる。現在の庭の光景のみずみずしさもまた、〈彼女のあのとき、あの場所〉へと回帰していく。時間が脱臼する。写真はさまざまに読解でき、いくつもの〈もうひとつの世界〉が、見るものには許されているのだが、古屋は、読解可能性を、シンボルの体系へと上昇させるのではなく、ふたたび地表へと着地させようとする。可能世界のアレゴリー化だ。
ともに永松憲一の著書である『囲碁はなぜ交点に石を置くのか』(2002)と『将棋の駒はなぜ五角形なのか──西遊記で解く将棋の謎』(2003、いずれも新風舎)は、囲碁や将棋の文化史的な背景をさぐるのだが、易や五行との関連をあざやかに開陳するばかりではなく、最新の情報理論にまで知の触手はのびていく。著者は、「ゲームでは局面が意味で手が機能だ」としたうえで、ある疑問を投げかける。ゲームの競い手は、手を読んだうえでゲームを進行させ、結果的に局面が生まれる、と思われがちだが、はたしてそうだろうか。局面という複数の可能世界は、競い手に一挙に到来している。原因と結果は、継起的に並んでいるのではなく、局面という〈結果〉こそが、コトのはじまりなのではないか。
先日、銀座のトンカツ屋で昼食をとっていて、背後の席に座ったひとたちの会話がふと耳に入る。そのなかの女性が、自分の幼い子どもが左利きで、それを直すべきか、直すならいつがよいのかを、同僚たちに相談している。あからさまに振りかえるわけにもいかず、背後の話に耳を傾けているうちに、奇妙なことに気づく。自分の手の左右の感覚がギクシャクしてきたのだ。わたしは、右利き・左利きを話題にする背後の〈もうひとつの世界〉に、聴覚だけで参加しているのだが、その参加が、身体をクルリと一回転してなのか、現状の姿勢のままで接近してなのか、このふたつのなかで、心理が揺れているようなのだ。〈もうひとつの世界〉は、単に横置されているのではなく、捩じれてもいる。 |