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デザインvsクリティーク
瀧本雅志
[たきもと まさし/表象文化論]

 デザインは、いまや批判が急務のテーマかもしれない。というのも、現在ではあらゆる領域がデザインの対象となり、生のすべての局面がデザインされるようになってきたからだ。この状況をうけて、意匠や趣味というより、デザインという営為の意義自体を問い直すデザイン論が、いま(再)起動しつつあるように見える。以下では、そうした主旨の本を眺めてゆこう。

 ハル・フォスターの『Design and Crime(デザインと犯罪)』は、昨今のデザインが引き起こした文化的布置の変動について、痛烈な批判を投じる本である(邦訳が近刊の予定)。その見解に同意できるかどうかはともかく、論争の火種が随所に仕掛けられていて、大変スリリングに読める評論集だ。フォスターによれば、現在アートと批評のステイタスは下落してきたが、それは生の全域がデザインされる「トータル・デザイン」の進展と表裏をなす。領域を問わぬデザインの蔓延により、文化の維持に必要なディシプリン間の境界や、主体の保持に必要な内と外との区別が成し崩しにされてきたこと。そして、そのなかでアートや批評が衰退してきた現状に、フォスターは激しく警鐘を鳴らすのである(A・ロースの『装飾と犯罪』と読みあわせよう)。
 この本で槍玉に挙がる固有名(というよりブランド・ネーム?)のセレクトは、鋭い線を突いている。ゲーリー、コールハース、ブルース・マウ……。逆に言えば、フォスターが仕掛ける論争に応答し、デザインの議論にアクチュアルに加わるためにも、彼らの活動を最低限フォローする必要がありそうだ。特に、新たなデザイン概念やデザイナー像がはっきりマニフェストされている、マウの『Life Style』と『Massive Change』は必見。日本語でマウのキャリアや思想の概略をつかむには、『デザイン・クオータリー第4号』が便利である。マウは、すべてがデザインされる世界では、デザインこそが世界変革の力を持つと信じている。この使命感は誇大妄想的にも見えるが、『Massive Change』では、グローバルな諸問題を解決するためのデザインが収集され、そこから未来への指針がデザインされている。これもまたデザインのデザインと言えるし(原研哉の同名の本と比較しよう)、これからのデザイナーの倫理や責任を考えるうえで無視できない。ちなみに、フォスターの彼らへの評価はこうだ。いまの「トータル・デザイン」には(アール・ヌーヴォやバウハウスのそれとは違って)産業や商業への抵抗は見られない。資本の波のサーフや脱領土化を標榜する彼らは、そのじつ資本と共犯しているがゆえに「売れて」いるのだ……。

 東北芸術工科大学の論集『デザインの知』は、年1冊ペースで刊行され、この4月に第2号が出版された。「デザインの本質を問う」と題された特集はもちろん、デザインに関わる「今読み返したい本」という書評のコーナーにも意欲が窺える。一方、倫理学や美学の研究者たちの論文集『デザインのオントロギー』も、なかなかの良書である。個人的には、デミウルゴスとしてのデザイナーと民衆(デモス)との政治的・倫理的関係を論じた奥波一秀氏の文章が、特に印象に残った。とはいえ、デザインで最も良く問われる問題のひとつがアートとの違いだとすれば、『Design and Art』にこそ触れない訳にはゆかない。背景を説明すると、デザインとアート双方の世界(というより業界?)にコミットする活動や作品は、90年代後半からデザイナートと呼ばれ、その種の展覧会も2000年位から各地で開かれるようになった。そうした流れのなか、アレックス・コールズは『DesignArt』を出版(単著)。両領域の「間」で機能する作品の系譜をトレースした(マティス、キースラー、ジャッド等。表紙は村上隆のヴィトン)。けれども、この語はその後体の良い作品ジャンル名(=デザイン商品的アート)へと一気に堕したので、コールズは『Deseign and Art』を新たなアンソロジーの書名に選んだ。収録したのは、両ジャンルの差異を問う文章やインタヴュー等。ラインナップは、グリーンバーグ、ウォーホル、アーキグラム、タフーリ、M・ウィグリー、フォスターらで、所謂デザイナート系の作家たちも数名入っている。

 とはいえ、デザイン論ではデザインとは何かが予め前提されている場合も少なくない。だが、そもそもデザインとは何であり、歴史的に見てその概念はどう変質してきたのか。この難問に取り組むには、近代デザイン運動を再検討する必要もあるが、私見としてはパノフスキーの『イデア』やボードリヤールの『記号の経済学批判』の意義も再認しておきたい。デザインが構想と描図に関わる行為であるなら、disegno(素描)とidea(イデア、アイデア)の関係を教える前者はまさに重要であるし(ルネサンスにデザインに何が起きたのか?)、後者はバウハウス以降のデザインとともに、あらゆる事物が交換・記号のシステムに移植させられた意味を省察している(designとsignの関係はいかに?)。また、哲学やメディア美学系の思考では、ヴィレム・フルッサーにも注目してみよう。テクノコードという刺激的な概念を提示しているこの人物は、『サブジェクトからプロジェクトへ』では家、身体、性、労働等のデザイン(Entwurf/Projekt)を構想している。一方、哲学的エッセイの名手としての筆が冴える『デザインの小さな哲学』という小文集も好著だ(独・仏・英版)。特にその中の一文「デザインという言葉」では、designの語源や派生語どうしの関係網から、デザインという概念の輪郭があぶり出されている。短文ながらじつに含みが豊かで、楽しい驚きに襲われるだろう(『Design and Art』にも収録)。

■参考文献
・アドルフ・ロース『装飾と犯罪──建築・文化論集』(伊藤哲夫訳、中央公論美術出版、2005)
・Bruce Mau『Life Style』(Phaidon Inc Ltd; New Ed版、2005)
・Alex Coles『Designart: On art's romance with design』(Tate Gallery Pubn、2005)
・Vilem Flusse『Shape of Design: A philosophy of Design』(Reaktion Books、1999)
瀧本雅志
1963年生。表象文化論。岡山県立大学デザイン学部准教授。共著=『ドゥルーズ/ガタリの現在』『表象のディスクール4 イメージ』『モードと身体』など。
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