本当の「true/本当のこと」とは何か? |
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山口/山口情報芸術センター/阿部一直 |
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去る9月1日に、山口情報芸術センター(YCAM)で、パフォーマンス公演「true/本当のこと」が行なわれた。YCAMのラボは今回、技術開発に直接的に絡んでいないが、YCAMでの十分な期間をとって滞在制作された新作パフォーマンスということになる。メインのアーティストは、演出・ディレクションがダムタイプのメンバーでもある藤本隆行、登場するダンサーは、ここ近年さまざまなシーンでソロでも大きな活躍を見せている、白井剛と川口隆夫の2人。作品の構成には、ガイドライン的にわずかながらストーリー展開らしきものがあるが、これはまったくの白紙から起こしたオリジナルのもので、藤本だけでなく白井や川口が構成にも積極的に参加し、実質的に全体は共同制作に近いかたちといえるだろう。さらにこのパフォーマンスには、新しい技術的なチャレンジが行なわれていて、ステージ上でのダンサーと舞台美術間のリアルタイムのインタラクションが非常に多く採用されている。関わった情報技術チームのクレジットを挙げてみても、南琢也(音響・映像・ビジュアルデザイン)、真鍋大度(音響・振動・プログラミング)、堀井哲史(映像・プログラミング)、齋藤精一(機構設計)、石橋素(機構設計)、照岡正樹(センサーシステム)といった具合で、非常に多彩な人材が協力していることがわかるだろう。
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なぜインタラクティヴではならないか。このパフォーマンスの「true/本当のこと」というタイトルは、本来は、脳内感覚が神経反応として見ているもの・感じているものと、われわれがコンテクストとして社会環境や日常のストーリーを読み込んだうえでの知覚判断・認識とが、実はどれほど違っており、そのヴィヴィッドな差異感・切断感が、生活や思考の意識のうえで、今までにも増してリアルになってきているのでは、といったような意味でつけられている。しかしまず出発点として考えたいことは、舞台芸術としてリアルな「本当のこと」とは、舞台上のアクターと背景(舞台美術)の位置や関係が機械仕掛けで変動する場合、予めの決めごとのフェイクで、見かけをその場で作っているかのようにうまく合わせて動いているのか、実際に何らかのデータネットワークシステムが作動し、リアルタイムでインタラクションしているのか、の2様の違いを本質的に考え直すことではないだろうか。しかもこの相違は、実は美学的には大きな問題を孕んでいるように思えるのである。
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舞台芸術を、観客への視覚効果優位で考えるなら、大概のケースで見かけとしての舞台は、前者であろうと後者であろうと、観客にとってはほぼ同じに見えてしまうことは、間違いないようにも思える。それでは、リスクのない前者(フェイク合わせ)でいいではないか、あえて面倒で小難しいリスキーな情報処理システムなど導入する意味はない、という結論になってしまうはずだが、美学的にステージで起こっている事態をハプニングとしてのアートの現場と考えるなら、そこにはリアルに物事同士が通信し合って、その場で変動する生々しい現実を、何をおいても提示しなければならないのではないかという、リアルタイムインタラクションの意義が大いに生まれてくるはずである(要するにアクターの存在だけは、従来からまさにそのように捉えられているはずであるが、それを周囲の空間全域の存在まで敷衍するかどうか、である)。「本当のこと」とは、現実をどうとらえるかのコンセプトによって様相が大いに変わるのだ(実際メディアフェスなどで、インタラクティヴステージと謳ったステージでも、アクターの動きに合わせて、半分は舞台裏でオペレータがそれっぽくオペレーションで映像を動かしていたり、インタラクティヴは初演だけで、その後の公演は実際には作動していなかったりなどのケースが多いのであるが)。
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「true/本当のこと」パフォーマンス風景
photo=丸尾隆一
写真提供=YCAM |
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「true/本当のこと」で、「本当に」実行したチャレンジしたインタラクション技術を少し解説するならば、まずLED照明が中心的システムに採用されていることから、従来の照明では不可能な、コンマセカンド以下の微細なフレーム単位の時間変化に対して、即座に具体的に対応できるインタラクティヴな特徴を生かすという目的が、当初から明らかにされていることがわかるだろう。今回はさらに「筋電センサー」という、人体の筋組織の動きに対応する電気信号を読み取るセンシング技術を採用し、舞台上でダンサーが左右の腕の関節に取り付けるかたちでライヴパフォーマンスが行なわれている。この電気信号の変化をセンシングし、音信号に換えてトランスミッタで飛ばしMAXで受けて、それらをサウンド、LED照明、映像、イントレの振動子、の各メディアにオペレータが振り分け、リアルタイムにリンクさせてアウトプットしていることになる。イントレの振動子とはいったい何?と思われるかもしれないが、これが今回のかなり面白いキー・アイディアなのだ。ダンサーが腕の筋肉をピクッとさせると、それに合わせてステージの左右に3段5.4メートル高の壁面に組んである仮設のイントレが、観客にもむき出しになっていて、そこに各4個ずつ設置された大型の振動子(バッドキッカー)が反応して、イントレだけでなくステージ全体を、轟音を発しながら地震のように揺らすという仕組みである。実は筋電センサー自体はそう新しくもない仕掛けであるが、これは動く筋肉に反応するのでなく、脳から筋肉へ「動け」と指示する微弱な電気的神経反応をセンシングするものなのだが、従来のものはセンシング精度や解析が荒く、実際の神経反応に対して、かなりのディレイが出てしまうため、あまり使い物にならなかったのである。しかし、今回採用した照岡正樹氏の開発によるセンサーは極めて精度が高いため、脳が神経に対して動けと送信した信号に対して、ほぼ同時に筋肉とイントレが併行反応するといった、文字通りリアルタイムインタラクションが実現できていたのである。これによって本来の「本当のこと」のコンセプトの根幹である、リアルタイム性とは何にとってのリアルタイムか、を問いただすことが可能になるわけだ。
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さらに、この筋電センサーの利用によって導入されたリアルタイム性という課題は、別のテーマに発展させることもできるだろう。それは、ダンスなどの身体パフォーマンスにおいての局所性と映像知覚という問題だ。ダンスは、現状では旧来的な劇場制度の中で上演されるのが常なため、プロセニアムアーチの作るおおざっぱな画像フレームのなかでの、引きの全体の絵画映像的構築しか観客の目には入らないようになっている。しかしコンテンポラリーダンスにおいての身体は、トリシャ・ブラウンの脱力的アキュムレーション、勅使川原三郎の局所的身体のもたらす距離化など、事例に枚挙のいとまがないほど、局所的身体からうまれる散逸的構築性、局所と身体全体との相関性は、重要な意味を持っており、関節や各筋肉の動き自体が、本来は観客の視覚(知覚)に交差すべきものとして提案されているはずである。にもかかわらず、実際の舞台ではそれはほとんど視覚(知覚)あるいは知覚表現としてスポイルされてしまうというジレンマが起こる。その意味で、カットバックによるズームアップを利用できる、映画的技術を応用した「ダンス映像アート」というジャンルが、にわかにリアリティを帯びてくることになる。ヴィル・フォーサイスを始め、エドワード・ロック、アンヌ・テレサ・デゥ・ケースマイケルなどがこぞって、舞台記録ではない、オリジナルの映像作品としてのダンス作品を作り出す理由はそこにあるといってよい。しかし今後の舞台芸術が、リアルタイムの視覚(知覚)表現としての局所身体を、舞台上に拡張的(あるいは拡散的)に存在させることを実現できれば、身体のコレオグラフの論理だけでなくダンス自体の美学的意味と観客との関係性が変動してくる可能性は大いにある。その視点から言えば、今回、ダンサーとして白井剛と川口隆夫の向けた眼差しの方向(リスクをともなうインタラクションへのこれでもかというチャレンジ)は、きわめて重大な領野を引き寄せたといってもよいのではないか。
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「true/本当のこと」の公演後の概評では、2人の登場人物たちのドッペルゲンガー的な関係を、自我の分裂や閉塞感といった印象に見立てた反応・感想が多かったように見受けられるが、それは旧来的な舞台フレームのフィルターから見た風景であり、文学的ストーリーテリングが優先された批評なのではないかと思えてしまうのである。ダンスは、身体テリングが優先されるべきであり、集団の個ではなく、個、さらに局所の作る個のボトムアップとしての全体がようやく把握されるべきではないか。批評も、分析に対して局所的に進化し続けないといけない。 |
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