Dialogue Tour 2010

第8回(最終回):これは〈作品〉なのか? 〈作者〉はだれか?@梅香堂[プレゼンテーション]

鷲田めるろ/後々田寿徳2011年05月01日号

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小さな都市での振る舞い方

鷲田──今回は最終回なので、ダイアローグ・ツアーの監修者の立場から全体を振り返りたいと考えています。今日特別ゲストとしてお越しいただいた辻憲行さんには、このツアーを始めたころに、Twitterで的確なご意見をいただいていました。辻さんは以前、山口の秋吉台国際芸術村でアーティスト・イン・レジデンスに携わっておられました。そのときの辻さんの活動を見ていて、普通のキュレーターとかなり違うという印象を持っていました。個々のプログラムもそうですが、記録冊子を自分でデザインしたり、秋吉台で展示をした作家が金沢でもプロジェクトをするということで車を走らせて金沢まで一緒に来たりとか、普通のキュレーターがやる仕事の範疇を超えて自分の活動範囲をとらえていて、理論だけではなく、自分でも動いているところを見て、信頼できる方だと思っていました。
 今回のダイアローグ・ツアーのなかで、山口の会田大也さんや青森の服部浩之さんの話などを聞いていると、山口に突然MACが現われたわけではなくて、脈々と続く前史というか、市民が関わって場をつくることが継続されていて、それが複数あって互いに影響を与えながら活動してきた結果、いまのMACがあるという流れが見えてきました。それが飛び火するように秋吉台国際芸術村のスタッフだった服部さんが青森でMACを始めたり、青森にはもともとあった空間実験室などと合同の企画もしたりしていて、知れば知るほど、きちんと歴史を踏まえてとらえるべきだと思うようになりました。今回のツアーに参加してもらった服部さんや会田さんからすれば、辻さんは少し上の世代ですが、辻さんがいらしたときといまの山口がどう関係しているのか、そのあたりからお話を聞かせていただけますか。

辻憲行──僕は大学時代から山口にいました。当時、山口には「ギャラリー・シマダ」という現代美術のギャラリーがありました。そのギャラリーのオーナーと僕が大学で教わっていた奥津聖先生が懇意にしていて、勉強会をやっていました。山口市は当時人口12万くらいのすごく小さな都市で、1980年代にそういうコアなアートシーンがあるのは信じられないほどの規模です。そこには山口県立美術館の学芸員の方も参加していて、ギャラリーと大学と美術館のつながりができて、やがて、1990年の山口県立美術館でのダン・グレアムの展覧会の開催などへつながっていきました。
 そんなふうに、大学と企業(ギャラリー)と公立の文化施設とが良い関係性を築くことができて、それが3年ほど続きました。ですが、公立の施設が同じギャラリーから3年間も作品を買い続けるわけにはいかないとか、ずっとはうまくいかないわけです。そうなると、それぞれがもう少し自立的に活動しなければいけないということになって、美術館とは違うオルタナティブな活動をするために、山口現代藝術研究所(YICA)という団体をつくって、僕はその事務局をやりました。ロンドンにICA(Institute of Contemporary Arts)というアートセンターがありますが、その山口版というイメージです。
 その後、おもに音楽のための施設ですが、現代美術のレジデンスもやる秋吉台国際芸術村という施設が1998年にできました。僕はYICAの事務局をやりながら、嶋田さんが当時副社長だった建設会社でも働いていたのですが、そちらは辞めて、芸術村のスタッフになりました。それで、YICAで培ったネットワークを駆使して、秋吉台が招へいしたアーティストと交流できる機会をつくっていました。

鷲田──YICAが、エジンバラとの繋がりを持っていたり、秋吉台では、アーティスト・イン・レジデンスをやっていたりして、山口が直接海外と繋がっていたのもおもしろいですね。

辻──ギャラリー・シマダのおかげで、山口にいながら、ダン・グレアムやトーマス・シュトゥルートといった著名作家と、学生のころから関係を持つことができました。エッジの効いた活動をしている人たちに東京を経由しなくても直接コンタクトをとれることを実感しました。その経験が、秋吉台でもいい方向に働きましたね。

鷲田──ギャラリー・シマダのオーナーの嶋田さんは、1980年代の初め、デュッセルドルフに留学されていましたよね。ヨーロッパのなかでもパリとかロンドンのような大都市ではなく小さな都市なのに非常に濃いアートシーンがつくられていて、デュッセルドルフ美術アカデミーでは、ヨーゼフ・ボイス、ゲルハルト・リヒター、ベッヒャー夫妻などが教鞭を執っていました。ローカルな場所でそういうアートシーンに触れたことが、山口での活動の背景にあるのでしょうか。

辻──統一前のドイツの地方都市で嶋田さんが学んだというのは大きな意味を持っていて、彼が山口で活動をはじめたというのは理解できます。僕らの世代にもそういう空気は伝わっていました。


5──ダン・グレアムを招聘した際のアーティストトーク後の打ち上げ
6──秋吉台国際芸術村の招聘アーティスト

社会システムを利用する

後々田寿徳──それがいまのMACみたいなものに接続するんですか。

辻──必ずしも個々の活動が連続していたり直接の影響関係にあるわけではなかったのですが、芸術村やYCAMといった施設がシーンの連続性を保証していたのだと思います。どちらが優位ということではなく、お互いにフィードバックはあるけれど、持続性という点では公立の施設が重要な役割をはたしてきたのではないかと思います。鷲田さんの話を聞いていて、金沢でもそうだと思ったし、青森もそうなるのかな。

鷲田──水戸もそうですね。水戸芸術館が有馬かおるさんという作家を招へいして、有馬さんがそこに住みつくようになって、中崎透さんらが引き継いで……。

辻──強調したいのは、メンバーが──全員ではなくても──実際に公立機関で働いていて、そこでサラリーや身分が保証されているという点です。サステナビリティを保つものとして、思想的な連続性よりも非常に重要で効果的です。「現代美術2.0宣言」で鷲田さんが述べていた、「対抗ではなく寄生・相互補完的」はそういう文脈で理解できる。
 ただ、ギャラリーと大学と美術館を繋げて新しい物語をつくろうとした人がいたことは重要です。美術史とか、表現とは無関係なレベルで、経済や政治の原理に従って制度や施設ができるわけだけれど、そういう仕組みを利用して相互にうまい関係性を築くことで全体が機能する。それは金沢もそうだし、青森もそうなんだと思います。理念的には美術館は続いていくものじゃないですか。そういうずっと続いていくものがある一方で、僕らの生活は変化していって、その持続的なものをアレンジして変化する日常に適応するような物語をつくることは、持続性を担保するほうにはできないわけです。だからといって、その軸から離れたら駄目なんですね。そこを往復できる学芸員がいたことが重要で、硬直してしまがちな連続性からちょっと離れて外でもなにかを紡いでいく、そういう二重構造を組むことは効果的ですよね。

つじ・のりゆき
1970年生。「芸術係数」の中の人。ニコラ・ブリオー『関係性の美学』を翻訳中。1998年より2006年まで秋吉台国際芸術村にてアーティスト・イン・レジデンスや展覧会、教育プログラムなどの企画・運営に携わる。 2009年より2010年3月まで東京都写真美術館に勤務。おもな企画展=古郷卓司(*CANDY FACTORY)との企画「BOOGIE WOOGIE WONDERLAND」、「CHANNEL_0」展、「TRANSFORMER」展ほか。http://gjks.org/

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  • Dialogue Tour 2010とは

鷲田めるろ

1973年生まれ。キュレーター。元金沢21世紀美術館キュレーター(1999年〜2018年)。第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館...

後々田寿徳

1962年生まれ。梅香堂主。名古屋芸術大学非常勤講師。法政大学大学院修了(社会学)。福井県立美術館、NTTインターコミュニケー ション・セン...