Dialogue Tour 2010
展示が滞在制作の最終目的ではない
会場──artscapeのブログを拝見すると、MACのような活動をいろいろご存じのようですが、そのなかでも青森での活動への具体的なモデルになっている取り組みはありますか。
服部──どこもそれぞれのいいところがありますが、たとえば、長崎県の波佐見町の「モンネポルト」。波佐見町は焼き物の街ですが、窯業を営む社長さんが若者がいなくなっているから、自分が持っている場所を若い人にプロデュースさせて違う場所に変えたいということで始めたところで、そこにカフェをやりたい人やギャラリーをやりたい人が集まってきています。窯業の工場を再利用した施設です。スズキジュンコさんというアーティストがそこを運営しています。彼女が作家として独自の強いキャラクターを持っていて、作家同士の信頼関係で作家を呼んでいることもあって、運営している人のキャラクターがよく出ているいいスペースだなと思います。作家との関係の築き方という点では参考になりました。
2009年の11月に僕が行ったときは岩井優さんというアーティストが滞在制作をしていました。岩井さんは「クリーナーズ・ハイ」というテーマで日常のなかにある人々の清潔への欲望を表象するような作品を制作しているアーティストで、ここではその変形バージョンとして、ギャラリー内に家を建てて、それを1カ月かけて磨いて、無に還すということをやっていました。ひたすらグラインダーで削って、ガラスは研磨剤で削る。施設内が粉塵まみれになっていて、こんなプロジェクトは美術館では難しいですよね。でもそういうことを許容できるのは、ここが陶器を扱っていた場所だからです。ホコリとか煙の立つことが前提となってつくられた場所なんです。その場所でしかできないことをやっていて、そこに惹かれました。
会場──それは、公立の美術館ではできないことや場所の特性を活かした活動という点で、服部さんが青森でやっていることと繋がっているように見えます。たとえば、チャボを飼って、展示が変化していくことをドキュメントで見せるとか、多田さんが当初は滞在2カ月の予定だったはずが、年明けまでいるとか。ブログを見てると、彼は毎日毎日写真を撮ったりしていて、街の出来事を作品にフィードバックするかたちで、いつ終わるともいえない滞在制作をずっと続けている。こんな終わりが見えない設定はACACではつくれないと思うんです。
服部──その場所だからこそできること、場所の可能性とか文脈を素直に読み込んでやっているところは魅力的だなと思います。その場所が持っている能力、そこのポテンシャルが読み込まれて継続しているプロジェクトはおもしろいです。公立と私設のどちらがいいというわけではなくて、同じ街にあってもそれぞれ違う読み込まれ方がされるということだと思います。
会場──呼ぼうとする作家となにができるかアイデア出しするときに、MACでしかできないことを目指しているのですか。
服部──それがお互いにとって意味があるかどうかは話しますが、あまり細かくは決めないですね。MACの状況を理解して各々の読み込み方に応じて使ってくれることを期待して話すことはあります。
会場──作家から提案されたアイデアやプランをどう判断しているのですか。
服部──たとえば、今回滞在していた多田さんはペインターですが、MACで絵を描くこと以外にプランはそんなにないんです。滞在中、彼がただドローイングをしていることが大切で、絵の内容への要求などはまったくしません。MACに来たら彼は勝手に制作するだろうと思っていましたし、はじめに話すのは、滞在してなにかしようということくらいですね。展示に向かってつくっていくのではなくて、そこに滞在してなにが起こるかということのほうが大きなポイントだと思っています。つまり、展示が最終目的ではない。展示が目的なら、展示が終わったらプロジェクトも終わりのはずなんですけど、彼がいるから終わっていないという状況になっています。ブログでもおもしろいことを紹介してくれるし、まわりの人も楽しんでいるしいいかなと。次のなにかをやるまで、そこにいても大丈夫ですよという、それくらいの意識です。こういう意識のほうが継続的にいろいろ考えることができるし、その作家がどういうことを考えているのかをゆっくりと知っていくことができるので、関係の築き方としてもおもしろいし、生活の延長線上で展開していくというMACのあり方としっくりくるなと思っています。僕の場合、その人が持っている価値観や思考そのものへの興味が、そのアウトプットとしての作品への関心を上回っているのかもしれないです。つまりプロセスや関係をつくることへの欲望ですよね。そのあたりが建築的と言えるような展開につながっていけばいいなと思います。