Dialogue Tour 2010
学内の研究施設として、「朱い実保育園」設立
須川──運動のなかで三つの柱を立てたんですよね。
坂東──「京大に保育所をつくれ」ということで、私たちはその運動の目的として三つの柱を立てました。「1──働く女性のための保育所である、2──子どもが健全に発達するための保育所である、3──共働きの生活を保証する保育所である」。この三つです。それがだんだん労働組合に広がっていきましたが、当初、組合はこれに反対でした。一緒に運動はするけど、三番目の「共働きの生活を保証するための保育所」というのはわかるから、「子どもの発達を保証する」なんてことまで言わないで一本に絞れと言われたんです。でも、私たちは「それでは女性は安心して働けない。未来のことを考えたらそれはダメだ」いうことでだいぶ喧嘩しました。
当時は、1960年代で、安保反対を掲げて大学でも学生運動が盛んで、大学の協議会に持ち込まれるのは政治に関わる大きい方針ばかりでした。だから「保育所つくれって、なんなんこれ?」と言われたんですね(笑)。大学院生協議会の議長(男性)は、カルチャーショックを受けたと言ってました。安保はたしかに政治の問題だけれども、われわれの日常生活を改善していくいう運動と一緒になってはじめて、新しい社会が生まれるんだということを示したひとつの例だと思いますね。
そのなかで署名運動などをして、京大のなかの全階層が賛成してくれて、大学のなかで運動が大きくなっていったわけです。そういうことが効いたと思うんですけど、京大はたった一年で保育所をつくってくれました。でも、当初は「保育所」という名前ではなかったんですよ。教育学部に鰺坂二夫先生という方がおられて、乳幼児観察施設という名目で「朱い実保育園」(1965-)をつくってくださったのです。そこは、教育学部の研究施設で、子どもを見るかわりうちで研究をさせてくれという話になってですね。それはこちらも願ってもない話で、集団保育の理論をきちんとつくっていかなければいけないと思っていましたから素晴らしいことで、それは京大の保育所だからできたことだと思います。
須川──共同保育所を坂東さんの家でされていた二年間はどんな暮らしだったのですか。
坂東──大変ですよね。私らの仕事というのは、夜遅くまで仕事が伸びたりすることもあるでしょ。でも、朝は絶対に起きないといけない。そんななかで、母親たちは、自分の子どもも人の子どもも等しく叱ったりできるようになっていきました。はじめは自分の子しかみえないんですよ。だけど、みんなの子どもを叱れるようになっていって、みんなが家族みたいな感じになりました。このときのネットワークはいまでも続いてます。そんなことで、子どもたちと同時に親のほうのネットワークもできたのが大きかったですね。
須川──この共同保育を坂東さんの家でやられていたときは法的な認可は受けていなかったのですか。
坂東──無認可です。自分たちで経費をまかなっていたので大変でした。ときどき私のことを「保育所の経営者やろ」という人がいるんですよ。「なに言うてますの。一銭ももろてませんよ」と言うんだけど、私らはみんながこうやって「Social Kitchen」を使うみたいに、みんなで使ってもらったらええんやということです。
「修学院保育園」設立──地域の保育施設をめざして
須川──その後、共同保育所から京大保育所(第一号は共同保育所の名前を引き継いで「朱い実保育園」と名付けられた)ができて、そこでは三つの柱がどのように実践されたのですか。
坂東──当時は保育所運動が全国でたくさんありましたが、女性研究者が関わってできた保育所、そして研究機関としての保育所という点がほかとの違いでした。その意味で、三つの柱の存在が大きくて、「集団保育のなかで子どもがすこやかに育つ」ということをきちんと研究・実践する場が京大にできたということです。集団保育のいろいろな実践をとおしてノウハウを蓄積していきました。そこで生まれた著書は、全国の大学の保育科で使われる教科書にもなったのです(『子どもが育つおとなも育つ──四苦八苦、朱い実の日々』[朱い実保育園職員会、かもがわ出版、2002])。
須川──共同保育をはじめて、その1年後に京大の保育所ができて、もうひとつ「修学院保育園」(1965-)ができるまで共同保育所を継続されましたが、それはなぜですか。
坂東──共同保育所の保護者の半分くらいは京大の職員でしが、あとの半分はその地域の人たちで、この保育所に入るために、近所に引越してきた人もいたんです。乳幼児から預けられる保育所はほかにありませんでしたから。京大の保育所ができて、京大の人はみんなそちらへ行くことになりましたが、「あとの人、どうするんねん」という話になりますよね。「ほんなら、地域にできるまで頑張ろか」ということです。
でも、その一年後に地域にも保育所(修学院保育園)ができたので、けっこうはやかったですね。そのころは、〈ポストの数ほど保育所を〉が全国の母親のあいだでのスローガンだった時代で、そういう雰囲気が盛り上がってできたのです。もし研究者だけの運動だったら絶対に実現しなかったと思います。やっぱりネットワークです。1960年代の高度経済成長期に、一気に女性が働くようになった時代ですよね。
須川──運営の仕方は、日本や海外の事例を参考にしたのですか。
坂東──はっきりいって、こういった保育所運動は日本特有です。アメリカから女性研究者が来て、そこで保育所の話をしても通じないです。向こうはどうしてるかと言うと、みんなベビーシッターを雇います。13歳を過ぎたら子どもでもアルバイトでベビーシッターができますからね。では、集団保育をやってるのはどこかとなると、社会主義国といわれた中国やソ連です。1990年代になって日中女性研究者交流で中国に行く機会があって、「自主的な保育組織はないんですか?」と向こうの女性研究者に聞きましたが、官制のものしかないから、「自主的な組織ってなんですか?」と聞き返されるほどです。自らネットワークをつくろうと運動する方法なんて向こうの人は知りませんよ。そういう意味では日本はすごい国です。ですから、なにを参考にするでもなく試行錯誤しながらやっていましたね。