芸術作品を前にして、わたしたちは何をみているのだろうか。マルティン・ハイデッガーがゴッホの描いた一足の靴に農婦の生活世界をみたように、ボリス・グロイスは、芸術が真にあきらかにするのは個々の作品の美ではなく、その背景にある人々の「生の形態(生活様式や文化)」であると指摘します。★1 招聘アーティスト・磯谷博史の作品は、まさにわたしたちの生きるなかで起きた、あるいは起きるかもしれない「名前のない出来事」を作品内にとどめ、生の形態を浮きあがらせます。本展では、芸術がどのようにしてわたしたちの営みや文化コード、ひいては生の形態そのものを内包し、鑑賞者へとひらくかを問いかけます。


名前のない出来事をスナップショットした《着彩された額》シリーズ。写真の色彩はセピア調へと脱色され、象徴的な色は額のフレームへと着色されています。この写真からフレームへの色の転移は、立体作品へと表現領域を拡張させるだけではなく、鑑賞者とのコミュニケーション、つまり社会への干渉の糸口となります。それは作品と対峙する人にたいして、フレームから写真へと色の復元をうながす過程で、記憶をスキャンさせるからです。
街でみかけた「越冬」という言葉に着想を得て展示に選ばれた《雪の冬、花の春》の連作は、冬の雪に春の花の影をかさねたイメージをもちます。わずか三十一文字から情景を編みだす短歌のように、フレームに施された白とブルーグレーという最小限の記号は雪と花の色を、そして雪原に映る野花のイメージは、どこか原風景や原体験を想起させてくれます。このイメージがはらむ出来事の余白は、記憶の追想をかきたて、わたしたちが生きてきたなかで蓄積した営みや社会コードを普段とは異なる回路で接続させます。★2 そしていつもは意識しない生の形態を独自のリアリティをもって顕在化させます。
それゆえ、本シリーズは単に過去をノスタルジックに回顧する作品ではありません。視覚の欲望――安直な理解――を遠ざけるかわりに、断片化された鑑賞者の個人史を能動的に「つなぎあわせる」可能性をひらきます。無秩序に散逸した記憶の断片から、あなた自身のある出来事を想起する行為。これこそがわたしたちを、時間の経過をながめる傍観者から歴史化の当事者へと変貌させ、「いま、ここ」から自らの未来を切り拓く投企の想像力をエンパワーするのです。


さらに本展では、《着彩された額》を街の掲示板やウィンドウの中に展示することで、都市というコンテクストへの介入を試みます。社会とのコミュニケーションの場であり、出来事の発生源であるこれらの場所は、道ゆく人と交感する公共的な額縁(フレーム)と言えるでしょう。そこでは、作品にある「名前のない出来事」と、場所をおとずれる「鑑賞者の出来事」とが静かに交錯します。
マルボロのタバコの箱が重なりあうイメージの《カップル》は、大衆演劇をおこなうオーエス劇場の掲示板に配置され、公演のポスターとともにフレームワークされています。この両者がもつ擬人化や演技というフレーミングは、わたしたちにどのようなことを呼び覚ます「歌枕」となりうるでしょうか。それは無意識に演じている日常の配役や社会的にまとわされたペルソナなのかもしれません。この街の片隅で思いをはせるための詩的な触媒は、あなたの出来事へとバトンをつなぎます。
歌碑のように、街の風景の中に追憶を働きかける作品を配置すること。過去が絶えず上書きされる都市の流れの中に、うたかたのヘテロトピア――現実でありながら日常とは異なる次元の空間――を発生させること。★3想起される過去、作品に企図された未来、そして点在する場所性が複雑に絡まりあうとき――この時間と場所の感覚が失調していくような出来事のもつれこそが、社会によって規定された生き方を一時的に引き剥がし、あらためて生の形態を明るみにさせてくれるのではないでしょうか。


芸術に生の形態をみるとき、「作る者」だけでなく「見守る者」の存在が決定的な意味をもちます。★4磯谷の作品に横たわる、鑑賞者の記憶や想像をたよりにした「出来事の不完全性」は、わたしたちの思考をより駆動させます。鑑賞者を「見守る者」へと変貌させ、無意識のコードや生の形態を想起させつづけるフレームワーク。すべてを語りつくさない短歌のように、作品がさしだす到達しえなさの内に身を置くこと――これこそが、わたしたちを単なる観客から、世界をあたらしく詠みなおす当事者へと引きいれるのです。




★1 Boris Groys, Diversity and Its Shadow, e-flux Notes, May 2024.
グロイスはハイデッガーの『芸術作品の根源』に着目し、現代における美的価値の所在が、個々の文化財(オブジェクト)そのものから、それが開示する「生の形態(life-form)」へと移転していると指摘しています。さらにヴァルター・ベンヤミンを参照しつつ、文化の本質とは美術館や図書館の内部ではなく、その外側にひろがる「現実の生活」の中で生起するものだと語ります。

★2 ノーマン・ブライソン『拡張された場における<眼差し>』(『視覚論』、ハル・フォスター編、榑沼 範久訳、平凡社、2000年、124-125頁参照)。
ブライソンはラカンの「眼差し」の概念を援用し、主体と世界とのあいだには常に社会的な意味のネットワーク――記号のスクリーン――が介在しており、わたしたちが「見ている」現実は社会的に構成されたものであると述べています。

★3 ミシェル・フーコー『ユートピア的身体/ヘテロトピア』、佐藤 嘉幸訳、水声社、2013年、34-44頁参照。
フーコーによれば、「ヘテロトピア」とは、日常のルールを無効化し、異なる次元の現実を立ちあがらせる「絶対的に他なる空間」を指します。彼は時間を蓄積させる「美術館や図書館」、異質な空間を並置する「庭園や劇場」などを例に挙げました。街の掲示板などに本来ない磯谷の作品を介入させる行為も、日常から離れた詩的な「異相空間」を発生させる試みなのです。

★4 マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』、関口 浩訳、平凡社、2008年、82-117頁参照。
ハイデッガーによれば、真理(新たな生のあり方の開示)は、作品の形態〔Gestalt〕へと整え入れられます。しかし、それが作品として完成するには、「作る者」のみならず「見守る者」を必要とします。鑑賞者は作品がもたらす衝撃によって日常性から連れだされ、その真理を引きうけ続けることで、自らの出来事を歴史化します。本展における「当事者への変貌」とは、この主体的な見守りの態度にほかなりません。


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SUCHSIZE (大阪市西成区山王1-6-20) 
会期:2026年9月18日(金)〜10月24日(土)のうちの金・土曜 13:00〜18:00
*日〜木はアポイント承ります


Event
磯谷博史×石田圭子 トークイベント
日時:9月19日(土)16:00〜17:30
会場:SUCHSIZE
料金:入場無料 
※先着15名様は椅子席あり(予約不要)



主催:SUCHSIZE
助成:大阪市
協力:オーエス劇場、喜久屋雑貨店、ヘアーサロンタカ
設営:霜野 真瑛
翻訳:和田太洋、Mary Lou DAVID
転載テキスト:黒沢聖覇




Hirofumi Isoya | 磯谷博史 (b.1978, Tokyo)

東京藝術大学建築科を卒業後、同大学大学院先端芸術表現科およびロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにて美術を学ぶ。見落とされた事物や、まだ名前を与えられていない出来事を手がかりに、写真、彫刻、インスタレーションを制作する。色や形、像とフレーム、過去と現在といった関係をずらすことで、私たちの知覚や時間感覚を静かに揺さぶり、作品を静止した記録ではなく、鑑賞者と共有される現在の出来事として立ち上げる。その実践は、何が認識され、何がこぼれ落ちているのかを問い直しながら、世界を再発見する視座を提示している 。

近年の主な展覧会に、『回復』(カスヤの森現代美術館、神奈川/2026)、『PRADA Mode Tokyo』(東京都庭園美術館、東京/2023)、『動詞を見つける』(小海町高原美術館、長野/2022)、『Constellations: Photographs in Dialogue』(サンフランシスコ近代美術館、サンフランシスコ/2021)、『L’image et son double』(ポンピドゥー・センター、パリ/2021)、「『さあ、もう行きなさい』鳥は言う『真実も度を越すと人間には耐えられないから』」(SCAI PIRAMIDE、東京/2021)、『シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート』(ポーラ美術館、神奈川/2019)、『六本木クロッシング2019 : つないでみる』(森美術館、東京/2019)、『アルル国際写真フェスティバル -Le spectre du surréalisme』(Les Forges、アルル/2017)など。主な作品の収蔵先に、ポンピドゥー・センター(パリ)、サンフランシスコ近代美術館(サンフランシスコ)などがある。