フォーカス
美術館館長の4割が女性に──スイス現代美術界のパワーウーマンたち
木村浩之
2011年05月01日号
マヤ・オエリ女史(Maja Oeri 1955〜)
マヤ・ホフマン女史(Maja Hoffmann)
コレクター、スポンサー
「シャウラーガー」とスイス女性史の文脈において、触れずにはいられない女性がもう二人いる。マヤ・オエリとマヤ・ホフマンである。
マヤ・オエリは、バーゼルの製薬会社ホフマン=ラ・ロシュ(ロシュ製薬)の役員でありコレクターであったエマニュエル・ホフマンとマヤ・ホフマン(後の再婚によりマヤ・ザッハー)夫妻の孫にあたる。美術史を専攻し、ドクメンタ7(1982年)、パリ・ポンピドゥーセンターなどでの勤務経験(「パリ・ベルリン展」1978年)のある彼女は、1995年よりエマニュエル・ホフマン財団コレクションの会長となる。より開かれたコレクションとするために尽力し、それが上記シャウラーガーとなっている。さらに2000年以降、イギリス人以外では初めてのテート・モダンの評議員会メンバーとなるだけでなく(すでに退任)、ニューヨークMoMA、DIAアート財団、ロサンゼルスMOCAなどでも評議員会に名を連ねている。2015年オープン予定のバーゼル市立美術館増築プロジェクト(クリスト&ガンテンバイン設計)に、美術館に隣接する敷地と予算の半分にあたる約50億円をバーゼル市に寄贈したり、また2011年3月に、彼女が保有する5%ものロシュ社株の売却により創業者一家による株保有率が過半数の50.01%から半分を下回る45.01%へ下落するというスキャンダルを起こしたりと、話題には事欠かない人物である一方で、インタビューを一切受けないなどメディア露出が極めて少なく、謎に包まれた人物である。
一方、エマニュエル・ホフマン財団コレクションの副会長となっているマヤ・ホフマン(1955年頃?生まれ)は彼女のいとこに当たる。自然保護活動など社会的活動の傍ら、2004年には芸術機関を支援するための財団(LUMA財団)を創立して、チューリヒ・クンストハレ、チューリヒ・クンストハウス、バーゼル・クンストハレ、ヴインタートゥール写真美術館、パリ・パレ・ド・トーキョー、ロンドン・サーペンタインギャラリー、ニューヨーク・スイスインスティテュートなどのサポートの他、フランク・O・ゲーリー設計による南仏アルルの国際写真祭の会場にもなっている「パルク・デザトリエ(Parc des Ateliers)」(2013年末第1期オープン予定)のプロジェクトに150億円投資すると伝えられている。これら以外にも、SANAA(妹島和世・西沢立衛)が設計したニューヨークのニューミュージアム(2007年)の3階は彼女の名前を冠したMaja Hoffmann/Luma Foundation Galleries となっているほか、ピピロッティ・リストの映像作品《ペパーミンタ》(2009年)のサポート、2010年よりテート・モダンの評議員など、活動の広さとその資金力はマヤ・オエリに引けをとらない。
この二人に共通するのは、また同じくマヤという名前の祖母であり、現代の二人のマヤに共通する芸術支援の志もまた祖母ゆずりのものである。
ビーチェ・クリガー女史(Bice Curiger 1948〜)
第54回(2011年)ヴェネツィア・ビエンナーレ芸術監督
チューリヒ生まれの彼女は、1984年にパルケット『Parkett』という雑誌を共同創刊・発行した人物である。この前衛的な雑誌は、アート界で起こっていることを追跡・報告するメディアというコンヴェンショナルな立場にとどまらず、アーティストらとコラボレーションして自らが作品制作の空間となることをもめざした画期的なメディアであった。それは後に「パルケット・エディションズ──美術誌パルケットと現代アーティストたちのコラボレーション 25年の歩み」として、金沢21世紀美術館(2009年)やニューヨーク・MoMA、ロンドン・ホワイトチャペル、ケルン・ルードヴィヒ美術館、パリ・ポンピドゥーセンターなどを巡回するまでに至った。1993年以降は、雑誌編集のチーフ・エディター職を継続する傍ら、チューリヒのクンストハウス美術館のキュレーターのひとりとして、同じく古株キュレーターのトビア・ベッツォーラ氏(ハラルド・ゼーマンのモノグラフィーの共著者)らと共に、安定して質の高い展覧会企画に貢献している。1996年にターナー賞の審査員も務めている。
さらに出版関連では、2004年より、ロンドン・テートギャラリーの出版誌『Tate etc.』のチーフ・エディターにもなっており、本人があるインタビューで「いくつもの職を持っている」と述べているとおり、さまざまなことに従事しているマルチタレントである。
一方で、美術館・キュレーター職おいてはトップの座につくチャンスに恵まれてこなかった。そんな彼女が、2011年のヴェネツィア・ビエンナーレの芸術監督に抜擢された。女性としては、2005年の共同芸術監督に選ばれた2人の女性が初であったが、単独での起用としては女性初という快挙である(ちなみに建築版ビエンナーレでは2010年に妹島和世が初の女性ディレクターであった)。