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「知らないこと」を起点に──竹田信平のマルチメディア・プロジェクト ALPHA DECAY α崩壊7

多田麻美

2012年11月01日号

個人史の再構成

 『ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード』では、さまざまな情況で通称「ピカドン」に遭遇した個人個人の経歴が率直に語られ、それらに接した竹田さんとその友人の当時の反応も、直接表現されている。
 そもそもこのプロジェクトには「個人史を探る」意味があったという。「個人が社会の記憶をつなげているはずだが、この二つはどう接しうるのか」。そんな疑問が、竹田さんが作品を生みだすエネルギーになった。
 証言はいずれも衝撃的で、これまでさまざまな情報を通じてすでに知っているはずの原爆の姿が、話者の心の痛みを感じ取るかたちで、新たに生々しく浮かび上がる。なかでも印象的なのは、母や妹を失ったうえ、父親まで放射能の被害で死に追いやられた男性の告白だ。死んだ家族の仇討ちをしたいという決意から、アメリカに渡るが、単なる食中毒を放射能によるものと勘違いされたうえ、言葉が通じなかったため、挙句の果ては強制的に精神病院へ送り込まれる。だが、最後に出会った看護婦の人間的温もりに感動し、「アメリカ人も皆が悪い人ばかりではない」と気づくのだ。もしかしたら、癒えがたい傷を負った人ほど、人間への信頼を回復するために寛容さを切望し、また「語る」ことによって周囲と心を通じ合わせようと、意識的あるいは無意識のうちに願うのかもしれない。

歴史を若者の手に取り戻す

 さらには、この男性の「体感でアメリカを知る過程」は、頭では知っているはずの「原爆」の影響が、「実感や自らの痛みとして感じられなかったこと」を動機にした竹田氏のアクションとオーバーラップする。被災者たちのそのような一つひとつの実感を通して、観る者たちは、作者いわく「子どもが一つひとつ物を覚えていくように」、原爆被災者の体験を共有していくのだ。竹田さんは語る。「原爆は人類にとって大きな出来事。その歴史を若い人に取り返したい、という気持ちがありました。では、どう歴史をわかり直すか。統計や数字などの情報の裏にある感情的な部分を感情的にわかろうと試みたのがこの作品です」。


インタビュー中の竹田信平さん[撮影:張全]

 それは、無数の情報の断片に囲まれつつも、「歴史との接点が断絶」しているがために、自分と社会との本当のつながりを見つけられないでいる現代人が、それらを取り戻そうとする「体験」の物語であるとも言える。かつて日本兵として中国大陸に渡った祖父の戦争体験と、広島と長崎の原爆体験の接点が「どうしてもわからなかった」と語る竹田さんは、「わからないというところからでないと始まらない」と考え、記録を開始した。
 だがその挑戦は、原爆体験という究極的に「当事者以外は理解しがたい」体験をテーマとしているがために、かなり絶望的で、目標に近づけば近づくほど、時に記録者=追体験者を狂気の瀬戸際まで追い詰める。作者自身も「記憶は危ないもの」と語っているように、そもそも記憶のトラウマは、本人を苦しめるだけでなく、それを生々しく聞いた次世代へも伝わっていくものだ。だが、痛々しい記憶や差別から逃れるなどの理由で単身海外に渡った者たちには、どんどんと孤立していく記憶の空間の中で、「語っても周囲は信じてくれない」という情況さえ生じてきた。そのため、記憶は時に、実に思いもかけない「鮮烈」な色をもって眼前に立ち上がる。

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