来日前に打ち合わされた大雑把なテーマは、こどもと教育をめぐる問題(これは世界共通の問題として)とのことだが、あくまでも来日後に行う地域住民とのディスカッションから問題点を抽出し、改めて協議を行う予定という。彼らの活動には、「リサーチ、コミュニケーション、問題解決に向けてのコンセプトづくり(提案)、実現」の4つの段階がある。現在は小、中、高等学校やフリースクールを訪ねたり、教育・社会学等の専門家や関係者と話し合いの最中で、いじめや登校拒否といった誰もが思い浮かべる教育問題などから、大上段ではない彼らなりの視点でテーマを見つけだすことが、まず大きな課題である。
また、外でのリサーチ以外に、旧御供所小学校の木造校舎内にフリーカフェ“タンネ”(彼らがウィーンから運んできた飾り物で彩られた本物のもみの木のツリーなど、オーストリアのクリスマス風にアレンジされている)を設け、常に(月曜定休)メンバーの何名かが居て、コーヒーを飲みながらプロジェクトをめぐる話し合いが誰でも自由に行える場も運営している。
さて、すべてにわたってコミュニケーションを重視する彼らにとって、日本でのプロジェクトはまず言葉の壁が大きいのでは、と懸念される。カフェに地元をはじめとする多くの人たちが気楽に立ち寄り、議論し慣れない日本人が教育問題について語りだすには、また日本の教育問題から彼らなりのテーマを見つけだすには、かなり時間と人手がいりそうだ。2ヶ月という会期はいかんせん短かすぎる。
2ヶ月後に、達成できたことと課題として残ったこと(当然抱え込まざるをえないもの)、そしてその後も地域が引き続けて行う実践(アフターケア)、これらすべてをもってでなくては彼らのプロジェクトの意義はわからないだろうと推測されるし、むしろ「その後」こそがプロジェクトの重要な部分だという気がする(そう考えると、大変なことが始まってしまった)。
また、彼らにどこでも、いつでも、誰からも、何回でも出される「これがアートなのか」という質問について。この問いを巡っては、彼らのコンセプトやこれまでのレポートを読んだだけでは、やはりまだ腑に落ちない。キリスト教思想を背景としたボランティア精神やモラルに則ったように見える活動内容や、既存の市民運動との差異(「Art and Concrete Intervention(アートと具体的な介入)」と彼らは表題に掲げているが、文字通りお節介の面はないのか)などなど、やはり彼らのプロジェクトの今後、その後を実見しながら、繰り返し問い続けてみなくてはならないだろう。そう考えると、これはアートと社会の関係について考え続けさせるプロジェクトでもあると思うのだが、いかがだろうか。
追記:ヴォッヘンクラウズールは、最近の協議の結果、学校の授業支援を行うエイジェントの設立を、今回のプロジェクトのテーマに絞りこみつつある。
とりあえずエイジェントと呼ばれている組織というか機構は、子どもたちが自分で考え、学び、行動することを目標に、今後学校や教師(「総合的学習の時間」にも関連させて)、学外の専門家と連動して、「行動することで学習する」ための新しい授業を提案し、実践していくらしい。12月14日現在、関係者のヒヤリングやイメージづくり、企画書作成、体制づくりに取りかかり始めたところ。エイジェントの組織づくり、学習テーマ(例:新聞プロジェクト)の設定・企画、さまざまな職種の協力エキスパートの登録なども、同時に模索中とのこと。
こうした最新動向については、“WochenKlausur in Fukuoka”でぜひご確認を。
ヴォッヘンクラウズールも参加した、子どもたちのためにワークショップ「アート・ピクニック'99」(11月28日)終了後、ヴォッヘンクラウズールの今回のプロジェクトのネット掲示板“WochenKlausur in Fukuoka”上で、ワークショップをめぐる意見や批判が展開された。
交流ばやりの昨今、ワークショップは頻繁に行われているが、悪くいえばやりっぱなしの場合が多く、終了後の反省や問題提起を耳にすることはあまりないように思う。今回のやりとりは、ワークショップの参加作家と参加者の保護者という実体験者からの建設的な批判で、ワークショップばやりの美術館事情に問題(作家まかせで終わっていないかなど)を置き換えても有効で、興味深く身につまされる点が多かった。
単なるサービスではなく、地域の人や子どもと一緒だからつくりあげられる、再考できるアートの在り方を求めるために、ワークショップをめぐるマネジメントの問題はもっと深めなくてはならない。