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兵庫  山本淳夫
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exhibition維新派 ヂャンヂャン☆オペラ「水街」

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 演劇にさほど興味があるほうではないので、特にアンテナをはっていたわけではない。今回の公演をみる気になったのは、ある人に「山本さん、あれ、オモロイ!」とすすめられたからだ。なんでもかんでもそういう人ではないので、「これはなんかあるな」と思った次第。
 結論からいうと、ほんまにオモロかった。世の中にはえらいもんがあるねんなぁ、という感じである。今回だけで「維新派」の特徴を一般化していいのかどうか分からないが、文明開化以降、物質文明以前の近過去、現在よりもはるかにリアリティを持っていたであろう共同体としての人間の在り方、それが生み出すパワー等への強い志向性を感じた。しかも、それが劇の内容にとどまらないところがハンパではない。
 この劇団は野外に巨大な仮設劇場を建て、公演後は釘一本残さず撤収してしまう。舞台脇には「飯場」と呼ばれる空間があり、スタッフはそこで寝泊まりしながら稽古するのだという。公演中は劇場前に屋台村が出現し、熱燗片手にミニ・ライヴに耳を傾けながら開幕までの時間を過ごすことができる。これがなんともいい感じで、一種の連帯感が自然と育まれる。戦後のバラックは知らないけれど、震災後の炊き出しや仮設店舗をちょっと思い出してしまった。虚構の共同体の一員に、我々も巻き込まれてしまうのである。
 本物の打上げ花火(野外劇場ならでは!)の大音響とともに、舞台は幕を開ける。一面に水が張られていて(一日約30トンを使用するという)、役者はその中を駆けずり回る(最前列だったので、かなりトバッチリを受けた)。ケチャを思わせる複雑なリズムでかけ声が絡み合うなか、巨大なセットは全て人力で移動し、場面はどんどん展開する。情報量の多さは圧倒的で、ちょっと人間の許容量を超えているのではないか、と思われるほどである。
 劇そのものはリアリズムと幻想を交互させながら進行する。ストーリー性は、比較的少人数の会話が中心となる場面に、主に委ねられている。一方、全編の大部分を占める強烈なリズムとエキセントリックな群舞の洪水は、一個人が抗いがたい時代の大きな流れや自然の猛威といったものを象徴している。その印象がとにかく強烈で、ストーリーは演劇としての骨格をかろうじて保つことと、群舞の圧倒的な力とのコントラストを際立たせるために機能しているに過ぎないようにさえ感じられた。
 この公演のために費やされたエネルギーの総体を思うと、気が遠くなる。美術の世界を振り返ると一見オシャレで賢そうなのが多くて、爪の垢でも煎じて飲みなさい! などと短絡する気はさらさら無いが、「やるんやったらこれくらいトコトンやらんと!」という手応えにホクホクした一夜ではあった。
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-維新派 ヂャンヂャン☆オペラ「水街」
アーティスト名:維新派
会場:大阪・南港ふれあい港館広場野外特設劇場
会期:1999年10月22日(金)〜11月8日(月)開演=19:30(11/1休演)
問い合わせ先:Tel. 06-6763-2634
維新派 http://www.ishinha.com/

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exhibition元永定正舞台空間展

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元永定正《煙》
元永定正《煙》
1957(1999)初出
=舞台を使用する具体美術

元永定正《のびる》
元永定正《のびる》
1958(1999)初出
=舞台を使用する具体美術 第2回発表会

元永定正《スパンコール人間》
元永定正《スパンコール人間》
1970(1999)初出
=具体美術まつり(EXPO'70)
撮影=横山幾子(リハーサル風景)

 1957、58年の「舞台を使用する具体美術」の再演も含む、元永定正の舞台を使った一日だけの個展である。オリジナルをみた経験のないものにとっては、写真でしか知らない《煙》や《のびる》の実物がみられる、というだけで期待がふくらむ。
 舞台からは極力身体性が排除されている。主役はオブジェや映像であり、いずれも元永らしい有機的なフォルムが特徴的である。通常の演劇では脇役視される舞台美術に主役の座を与える、という「具体」時代のコンセプトはしっかり踏襲されていた。
 「舞台を使用する具体美術」の演目を分析すると、舞台を絵画空間と同一視する造形思考を読み取ることができる。今回、少なくとも元永に関してはそのことを再確認できた。作品は矩形のフレーム(=観客席からみた舞台空間)と、個々のオブジェとの緊張関係によって成立する。本来的には立体物であるオブジェは、正面観のみを切り取られた在り方、つまり3次元と2次元とのあいだで常に振動することにより、スリリングな輝きを放つのである。例えば《スパンコール人間》では、照明を乱反射することでオブジェの物質性は半ばはぎ取られ、光そのものが動めくような効果を生み出していた。さらに反射光がホール内部に映り込むことで、環境全体へ意識の拡大をうながすのである。一方、単にオブジェが舞台上を動き回る作品は、明らかに緊張感を欠いていた。
 《煙》《のびる》はやはり作品としてねれている。立体作品《水》にも共通していえることだが、重力や気流など自然の力で形作られるフォルムの面白さを、極めてシンプルなやり方で提示するところが元永芸術の心髄であろう。創作が(自然現象の面白さの)発見と密接に結びついているのである。さらに両者の重要なところは、舞台=絵画空間の表面を越境し、観客席にまで働きかけてくるという意外性にある。
 さて全体の印象だが、正直いって「もったいない」の一語につきる。閃きと可能性が含まれているにもかかわらず、タイム・コンポジションの甘さがしばしばそれを殺してしまっていた。幕開けからしばらく、モノクロームの世界が続くあたりは緊張感があった。元永ならではの鮮烈な色彩がいつ開花するのか、と期待に息を潜めていたのだが、結局は作品間のコントラストが不明瞭なまま進行してしまう。スポットのあたるタイミングがちぐはぐだったり、裏の仕掛けがまるみえだったり、ちょっとしたことで作品のドラマ性が減殺される、そういう場面も散見した。作品数も多すぎるし、個々の上演時間も少しづつ長い。音楽についても疑問が残る。舞台との連携が終始曖昧で、前時代的なピアノのアルペジオが全編をモノクロームに塗りつぶしていた。これは根本的な相性の問題であり、演奏者というよりむしろ選者の責任であろう。
 もっとリハーサルに時間を割くことができ、複数公演であったなら、あるいは軌道修正が可能なことも多々あっただろう。とにかく、元永定正の舞台作品を「90年代に」やることの意味がより厳しく問われるべきであった。はるかに素晴らしいものになる可能性が感じられるだけに、残念である。
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アーティスト:元永定正(作・演出)、上原和夫(音楽)、ボイコ・ストヤノフ(演奏)、藤田佳代舞踊研究所(出演)ほか
会場:神戸新聞松方ホール(神戸ハーバーランド)
会期:1999年11月27日(土)15:30〜17:30
問い合わせ先(事務局):Tel. 078-331-2467
〒650-0022神戸市中央区元町通3-5-10海文堂ギャラリー内

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report学芸員レポート[芦屋市立美術博物館]

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 「舞台空間展」前後の神戸は、関連イヴェントや展覧会が複数行われ、さながら「元永定正ウィーク」の様相を呈していた。海文堂ギャラリーの個展に足を運ぶと、結構なにぎわいである。しかも、どうやら現代美術コチコチの人種ではなさそうな家族連れが、「モーヤンのあれ、松方ホールてどこや。場所わかるか」とか口々にいっている。ちなみに「モーヤン」とは元永さんの愛称。
 このところ、「具体」というものがどのように継承されているのか、と考えることがある。オフィシャルな美術史の記述としては、そんなもんとうの昔に終わっていて、流れを汲む美術のムーヴメントも特に存在しない、ということになるだろう。そういえば、むかし立ち読みした本に「東京で『具体』を語ると殉教者あつかいされる」みたいなことが書いてあってびっくりしたことがある。もちろんその本は買わなかった。
 筆者の勤務する芦屋市立美術博物館は「具体」の情報センターを目差して日々努力しているわけで、どうしても感情移入というか、惚れ込みすぎる傾向がないではない。でも、そういう話を聞くにつけ「ちょっと待ったらんかい!」と思うのである。
 ずいぶん乱暴な物いいだが、もし仮に「美術の本質」があるとしよう(うおお、乱暴)。こいつと美術館、あるいは美術業界はもちろん深く関わりあっているのだけれど、全くイコールではない部分も絶対あるはずだと思うのだ。なんだか、このズレをいつも意識していないと、業界の中でくるくるまわされるハツカネズミになってしまうような気がしてならない。
 こんなことを考えてしまうのは、先月にも触れたこどもの絵のせいである。「童美展」に登場する作品は、いわゆる作家性が問われるような性質のものではない。日常的な美術館業務で取り扱う対象からはみ出してしまう。しかし、紛れもなく「いい」のである。たまらんぐらい面白い。そして人間が裸一貫になったとき、表現行為とはいかなる意味を持ってくるのかという、ものすごく根本的な問題を突きつけてくる。つまり、先に述べた「ズレ」を告発してくるのだ。
 ここで気を付けなければいけないのは、「現代美術」が行き詰まっているから次は「児童美術」みたいな回路である。これは「ズレ」のことを真剣に考えないで、美術館や業界のテリトリーになんでも無神経に飲み込んでしまう傲慢さにつながる。
 さて「具体」の話だが、「童美展」を軸とする繋がりの中には、「具体」の精神がそれこそ神経細胞のように張りめぐらされていることを感じる時がある。浮田要三に心酔する元小学校教師(これがまたスゴイ人物である)は、「ぼくにとって美術とは、人間のことを一生懸命考えることです。だから子供と関わる行為が、美術と全く無関係だとは考えていません。」と語ってくれた。そこまで直伝でなくても、あるお絵描き教室の先生は、子供の「ぬたくり」を指して「『具体』の絵ぇみたいやろ。」というのだ。よく知らないのだが、こどもの絵をみながら「ほら、ギューちゃんのボクシング・ペインティングみたいでしょ!」とニッコリほほ笑む保母さんが東京におられるのだろうか。いたらスゴイと思う。
 つまり、こういう現象もひとつの文化の在り方として、とても尊いものだと思うし、そういう事実が存在することをもっと知ってもらいたい。「具体」は運よく海外から評価されたけれど、実は今日もなお「草の根運動」的な側面を持ち続けていて、そこがカッコイイと思うからだ。

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