Feb. 25, 1997 | Mar. 18, 1997 |
Art Watch Index - Mar. 11, 1997
【「よそおう」ということ ―スターダンサーズ・バレエ団/ フォーサイス「ステップテクスト」】 ………………●桜井圭介
【リメイクの栄光と悲哀『ラストマン・スタンディング』】
|
▼
「ステップテクスト」 (W・フォーサイス振付)
「ステップテクスト」
Forsythe http://www.ntticc.or.jp/ workshop/forsythe/ index_j.html
Paris Opera Ballet
|
「よそおう」ということ ●桜井圭介
(承前)ダンスは「硬い」のと「しなやか」なのでは「しなやか」のほうがよいと いうことは、いちおうは間違いないのだが、ここにきて「しなやかさをよそおう」と いう厄介な症候があることを思い出すことになった。 最近のグルーヴ事情 僕自身、以前なら「ゲージツ系ダンスはグルーヴがなさすぎる、ソウル・トレイン の再放送か、フォーサイスをみろ」と言っていればよかったのだが、今や東京のコン テンポラリー・ダンスには「フォーサイスもどき」が溢れかえっている。ではみんな 「しなやか」になったのかというと微妙に難しい。例えて言うと、音楽の、そうまさ に「グルーヴ問題」(と勝手に言ってるが)と同じだ。コンピュータ用の音楽ソフトには「グルーヴ」をつくる機能が付いている。ドラム・パターンをジャストで入力してもクリックひとつで色んな「もたり」方を選べるのだ。今では誰もが「グルーヴ」と言うが、それはもしかしたら、そうしたファジー機能(職人の手業をサンプリングして解析しました)的な「よそおわれたグルーヴ=しなやかさ」なのではないだろうか。話をダンスにもどすと、今では誰もがフォーサイスと言うが、それは「クールなダンス」のための便利な機能(あれこれの“フォーサイスちっく”なボキャブラリー=サンプル集)を指していて、とするとそれを使えばやはり「よそおわれたしなやかさ」にならざるを得ないのではないだろうか。要するに、トウ・シューズを履いて、グニャグニャとタコのように動く。これさえ押さえとけば、気のいい批評家が「器官なき身体」とか「脱=中心化」、あるいは「バレエをサンプリングしてエディット→リミックス」などと言ってくれるというわけ。しかしそりゃ、あまりにも「お約束」だろう。 重さという〈強度〉 さて、スターダンサーズ・バレエが日本のカンパニーとしては初めて、フォーサイ ス作品を上演した。それは巷の「フォーサイスもどき」、つまりはひとがイメージし がちな「フォーサイス的なるもの」とはかなり違ってみえた。最も大きな違いはそれ が「重たい」ということだ。たしかに作品じたいフォーサイスとしては初期のもの(1984年)で、例の「グニャグニャ」はまだ登場せず、むしろ“外見は”かなりバレエ的といえる。しかし、この作品は今日言われるような「バレエをデコンストラクトす ることによって生み出された、まったく新しいダンス言語」の出発点でもある。つまりここではバレエの制度としての「硬さ」=「こわばり」が問題とされている。バレエは「軽さ」の芸術、あるいは「バランス」の芸術と言われることが示す通り、「軽さ」は「バ ランス」によって「よそおわれた」詐術ではないのか? そのことを露呈させるために 、彼はバレエ的なるものを極限にまで押し進める。要するに、超ムズカシー「バレエ」をつくる、ただそれだけと言ってもよい。すると「バレエ」は重力や身体の 抵抗に出会うのだ。スターダンサーズの軋み、遅延感、身体という重さを持った舞台 は、そのことをきわめて正しく示してくれたし、そのことが、異例な〈強度〉となりえたといえる。 「硬さ」と「固さ」 ところが、例えばパリ・オペラ座(バレエ界の頂上!)によるフォーサイスをみる と、彼等の申し分なく「訓育」されたバレエ的身体は、なおもバランスを取ろうと「よ そおう」。そのため振付けには書かれていないものをこっそりと付け足す。それは「プ レパラシオン」という準備動作だが、同時にバレエの起源である宮廷舞踊、そのまた 元となった宮廷人の空虚な動作「しな」=「しなやかさ、優雅さのよそおい」に過ぎないものなのだ。ちなみに、そのバレエを超然と一蹴するような「フォーサイスもどき」な子供たちは、単にバランスが取れるところでわざわざバランスを崩してみせてるだけです。イキがって「カッコつけ」てるだけ。 そうしたイデオロギー(19世紀的?)やレトリック(ポスト・モダン?)の「よそ おわれたしなやかさ」に対して、スターダンサーズのフォーサイスをそれでもあえて 「硬い」と表現すべきだろうか? すでに答えは出ているようなものだが、これは別の意味で「硬い」と言っておく必要がある。「身体」が硬い、否「固い」のだ。 [さくらい けいすけ/ミュージシャン]
|
|
『ラストマン・スタンディング』
ブルース・ウィリス MOVIEWEB: Last Man Standing http://movieweb.com/ movie/lastman/index.html
Last Man Standing -- CINEMA ONE
Last Man Standing (1996/I)
Akira Kurosawa Database
Filmography for Akira Kurosawa
Akira Kurosawa
『用心棒』
『市民ケーン』
Filmography for Preston Sturges
『地獄の黙示録』
Apocalypse Now (1979)
Filmography for Orson Welles
Pretty Woman (1990)
Filmography for Jean-Luc Godard
Filmography for Bruce Willis
Filmography of John Ford (I)
The Unofficial Desperado/El Mariachi Home Page
Desperado (1995)
Ying Huang Boon Sik (1986)
Good Fellows, The (1943)
Casino (1995)
|
リメイクの栄光と悲哀 ●森田祐三
リメイクとともにしかあり得なかった映画 映画にはどういうわけかリメイクというものがあって、例えばウォルター・ヒルの『ラストマン・スタンディング』は 黒澤明の『用心棒』のリメイクである。そのほかにも、『市民ケーン』はプレストン・スタージェスの映画のリメイクだとか、『地獄の黙示録』はオーソン・ウェルズの企画の映画化だとか、あるいは『プリティ・ウーマン』は何かの再映画化だとか、すでに形を成したものが再び別の形を取ったり、フィルムに定着されなかった想像の残滓が、時代の風に煽られて時折思い出したように凝固したりということがあって、それは人々の欲望を刺激したりしなかったりしてきた。リメイク自体について言えば、ここ10年ほどの思潮の中で、単なる反復以上の評価の試みが為されてきたとはいえ、現象としては別に新しいことでも何でもなく、映画はリメイクとともにしかあり得なかったと言った方が正しい。
歴史的/歴史的であることを意識する それはなにも映画とは草創期から欲に動かされた模倣と剽窃の繰り返しだったと言うのではなく、フランスの「芸術映画」、あるいはワーナーの伝記物に見られる如く、市民権を得ようとする映画自体がすでに何かのリメイクだったのであって、そのオリジナルが小説であれば、身元のいかがわしい1ジャンルが、単に少し古いというだけの別のいかがわしいジャンルに依拠して権威付けを謀ろうというだけのことに過ぎない。なるほど、確かに脚色とリメイクは異なる。だが、ある映画をもとに別の映画を作ることは、すでに先行者の存在を意識しているという点で歴史的たらざるを得ないことも確かなのだから、リメイクには、単にクロノロジカルに歴史的であるだけでなく、歴史的であることを意識する歴史的振る舞いもあることになる。かつてスタジオ・システムが栄えていた頃、プロデューサー達は別にリメイクをするということもなく自在にリメイクを行なっていたが、それは彼らには歴史を意識する必然がなかったからに過ぎず、映画にも歴史があることを悟ったゴダールにそのような振る舞いが許されていなかったのは、彼の初期の映画がモノグラム、つまり率先してリメイクや時には剽窃まがいのことを行なっていた会社の映画に捧げられていたことを思えば明らかである。
リメイク すると、『用心棒』のリメイクである『ラストマン・スタンディング』はいかなる類のリメイクということになるだろうか。ジェリコの町に立ち寄ったブルース・ウィリスは蝿のたかった馬の死骸を目にする。いかにも撒かれたといった感じのペキンパー的物体だ。あるいはメキシコの軍隊が一斉射撃で車内のギャングを射殺する場面を見てペキンパーを思う向きもあるかもしれぬし、柵に脚を延ばして腰かけたウィリスを見てジョン・フォードの名を思い起こすこともあるかもしれない。だが、この映画はペキンパーの映画でもなければましてやフォードの映画でもなく、『用心棒』から設定を借りた単なる同時代映画に過ぎない。消費される弾の量で『デスペラード』や『男達の挽歌』につながり、モノローグ的ナレーションの多さで『グッド・フェローズ』や『カジノ』と手を結んだ『ラストマン・スタンディング』が、映像による語りという点で黒澤明以下なのは見れば明らかであり、黒澤明がトーキー以後に映画を撮り始めたことを考えれば、それは、現代映画と言うより、後退的同時代映画とでも言うべきものだ。いまどき「名作」の設定を反復するだけの「リメイク」ならば、何もそれが映画である必要などさらさらない。だが、反復とは同じものの反復ではなく、異なるものが繰り返されるからこそ反復なのだとは、それほど会得しがたいことなのだろうか。 [もりた ゆうぞう/映画批評]
|
|
Art Watch Back Number Index |
Feb. 25, 1997 | Mar. 18, 1997 |