Feb. 18, 1997 | Mar. 11, 1997 |
Art Watch Index - Feb. 25, 1997
【現象する身体 −《デ-ジェンダリズム》展】 ………………●多木浩二
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《デ-ジェンダリズム〜回帰する身体〜》
草間彌生
ジャニーヌ・アントーニ
レベッカ・ホーン
ロバート・ゴーバー 『デ・ジェンダリズム−回帰する身体』世田谷美術館より
世田谷美術館 http://www.setagayaart museum.or.jp/
Eva Hesse - Reference Page
Profile: Matthew Barney
Yayoi Kusama
Yayoi Kusama - Reference Page
Mona Hatoum
MONA HATOUM
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BABY / Marie-Ange Guilleminot & Fabrice Hybert
Profile: Janine Antoni
FASHIONTELEVISIONGALLERY - ART
Janine Antoni - Reference Page
Rebecca Horn
Abramovic
Marina Abramovic - Reference Page
Robert Gober
ArtistGuide: Robert Gober
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八谷和彦
Mattress Factory Past Works: Vito Acconci
Explorers: Vito Acconci
Vito Acconci - Reference Page
世田谷の馬六明
馬六明パフォーマンスの記録
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現象する身体 ●多木浩二
世田谷美術館が今開いている展覧会は、充分に刺激的な環境に観客を引きずり込む点では、最近の美術館の気だるい回顧的な展覧会に比べると出色である。内外から選んだ15人の作家(エヴァ・ヘス、マシュー・バーニー、草間彌生、モナ・ハトゥーム、マリー=アンジェ・ギルミノ、ジャニーヌ・アントーニ、レベッカ・ホーン、マリーナ・アブラモヴィッチ、馬六明、キム・スジャ、加藤豪、ロバート・ゴーバー、西山美なコ、八谷和彦、ヴィト・アコンチ)の作品や行為は、身体とのかかわりは共有していても、本来的に多様で、ひとつの言葉で要約することは出来ない。たとえばエヴァ・ヘスひとりとっても、彼女自身がさまざまな手段を用いる。この多様さが、実は身体という厄介なものを見せることにともなっているのだ。観客はそのなかを彷徨すればいい。そして気になる刺激に出会ったら、ゆっくりひとりひとりの方法を、多少の不快感とともによく見てみるといい。それは自分自身にも無縁でない筈だ。 身体を提示する可能性 この展覧会がある明確で大胆な意図のもとに企画されたことを見逃す人はいまい。われわれは、身体とか、性とか、決して理性的な言語では解きがたい領域に頭を突っ込んだら、容易な解答なり、これでいいと断言できるような方法は簡単には見つからないのだ。そのときあらためて思うのだ。性的な身体についてわれわれはなにを知っているだろうか。ほんとうに身体そのものの提示ができるのか。破綻を孕んだもっとも厄介な領域に入り込むことの困難さに立ち向かう芸術家によっても、性的身体は、なんらかの「方法」によって提示されているのである。この方法が身体を現象させ、知覚させるのだ。円満な両性関係も、明確な性差も、最初から論外である。芸術は分かり切ったことを再現してみせるものではない。芸術が投げかける視線、あるいは作りだしてみる行為は、われわれ人間にとってもっとも重要かも知れないが、まだ分からないままに留まっている領域を、なんの保証もなく探る思考に他ならない。性的身体、いや身体そのものも作家の数だけ多様にあって不思議ではないのだ。彼または彼女の方法だけから、身体はひとつの得体の知れない現象として出現しているのだ。われわれは、ひとりひとりの芸術家がどんな想像力を展開して、人びとを身体という謎に誘うかを経験するのである。その試みが失敗しても不思議ではない。芸術家も哲学者も性と身体については、これまで失敗を繰り返してきた。この辺で思い切って身体を提示する可能性への無謀な試みを見てもらいたい、そんな衝動が伝わってくる。しかもそれさえ繰り返しでないと断言できるのか。はちゃめちゃな混沌に陥ってもいいほど大胆さにわれわれは飢えているのだ。 人間の謎への問いの形象化 『デ・ジェンダリズム』というタイトルが目に止まる。ジェンダーという社会文化的に形成される性差をあらわす概念は、確実にこれまでの男性優位の社会にたいする女性側からの攻撃という政治的な意図を含んでいる。それは既存の文化を脱構築するものに違いないし、その上で性とはなにかの議論が試みられてもいい筈である。しかし現実になにひとつ解決されていない社会では、常に政治的な「友/敵」関係を生みだしてしまうのも否めない。そこでははたして性を孕んだ身体への問いが可能であろうか。『デ・ジェンダリズム』は、ジェンダー概念の政治的文化的重要性を否定しているわけではないが、芸術の探究するものは、ジェンダー概念の先にあるという、至極まっとうな主張から生じている。性の複雑さ、奇怪さ、そもそもの破綻や侵犯などを孕んだ身体をそのまま提示できるかできないかを、芸術固有の方法に見てみようとしているのである。身体そのままというが、それでもなお、なんらかの媒介、方法、物質を経由するのである。身体そのままとは言え、結局は芸術家の探究には、いろいろな手段がある。それを承知の上で、一切の理論的言説の彼方を目指すのだと言うなら『デ・ジェンダリズム』の主張には賛意を表明できる。ひょっとするとジェンダー概念が破壊していく世界の破片も、それらが見逃した肉体の屑も使いながら、人間の謎への問いを形象化することを言い表しているのかもしれない。 [たき こうじ/美術批評家]
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