キュレーターズノート
「MEDIA/ART KITCHEN YAMAGUCHI──地域に潜るアジア:参加するオープンラボラトリー」
阿部一直(山口情報芸術センター[YCAM])/井高久美子/渡邉朋也
2014年10月01日号
対象美術館
YCAMに生まれた創発的な空間
渡邉──今回の展覧会のビジョンをコンパクトに濃縮して展開したのが阿東での3週間だったとして、では山口市の中心部にあるここYCAMではどのようなことが行なわれていたのか、簡単に説明してもらえますか?
阿部──前回の座談会でも少し言及しましたが、まずはdot architectsによる空間設計と会場構成のユニークさですよね。これまで、メディア・アートにしても現代美術全般にしてもそうなのですけど、ホワイトキューブとかブラックアウトスペースで、ほとんどクリーンルームのような空間で何かを見せていくことが多かった。それを今回は完全に逸脱して、無菌質感を破壊して、一種のホスピタリティの奥行きを持った歓待の空間やレセプションの仕組みを出現させたことになった。しかもそれを人力で組み立てているわけですよね。ほぼ竹だけですべてが構成されていて、それなりに強度もあって、複雑な構造もある。建材となる竹も購入したものではなく、現地のコミュニティに知恵や力を借りながら竹林から一緒に切り出して調達を行ない、工法も山口のさまざまな地域とインドネシアの知恵を混ぜて導入している。これらはアーカイブ公開していきたいと思っていますが、ハードにおいてもソフトにおいても、とても異質なものがうまれたと思うんだよね。この空間に対する来場者の反応は全般的にどうだったんですか?
井高──ここで使われている竹は山口のもので、その背景には放置竹林問題があるという話をすると、そういう問題を知っている人とそうでない人とで二分されるんですよね。知らなかったという人は興味を持つし、知っているという人からは「うちの竹をなんとかしてくれ」とお願いされることもありました。
阿部──日本人の心の深層には、というかアジアの人にも通じるのかもしれませんが、やはり竹が持つ清潔さや浄化といったイメージに対する無意識のレベルでの親和性がありますよね。
井高──会場の中心に広い面積の竹デッキがあるのですが、そこの居心地が良いという意見はよくいただきますね。実際に、よく人がたむろしていて、その流れで地域開発ラボのワークショップやミーティングが行なわれたりする。8月に行なわれた、この場所全体を使った大友良英さんのライブに参加した中国のヤン・ジュンが、インタラクティブな音の仕組みを組み込んだり。そういう感じで、展覧会という突き放した対象ではなく、会場自体が空間コミュニケーションの媒介みたいになっているのは間違いなくあると思うので、素材と機能がうまく結びつく、非常に良い選択だったと思います。
渡邉──個人的には前回も話したとおり、もともとのYCAMの建物が持っている透明性や軽やかさに共鳴する部分があらためて面白いと感じますし、あと、この展覧会のハードウェア部分の工法というか、成り立ちの文法がむき出しであることが面白いなとも感じます。
阿部──素材が、ナチュラルに生えた竹なので、どうしても細かな段差があるし、一定の強度を保つために、いろんなところの木製の梁がかなり飛び出ている。ふつうにスチールだったらこういう突起物は危険だからダメという話になるんだけど、来場者のほとんどが不思議とそれを読み取ってヒョイヒョイと避けていく。トラブルはゼロ。それはそこで、やはり生の文法がむき出しということが関係していると思う。意匠的な効果も抜群でしたしね。
渡邉──そうですね。前回の座談会で、この会場を構成するしつらえは竹で出来ているから軽い。だから、いざとなれば動かすこともできるという話をしました。結果的には、会期中それほど大きく動かしてはいないのですが、部材をカットしたり、継ぎ足したりしてレイアウトを変えています。それと、文法があらわになっていることで、どんどん展覧会のかたちが変わっていくんじゃないかという、そういう予感といいますか、雰囲気は強く伝わってきました。
それで、こういう空間の中で毎週のようにイベントが行なわれてきたわけですよね? 大友良英FENオーケストラのコンサートもあったし、アジアのさまざまなオルタナティブスペースの中心人物を招いてシンポジウムもあったし、子どもと遊びをつくるワークショップもあった。
井高──そうですね。8月までに20ほどのイベントを開催したので、おそらく最終的に30近くのイベントを開催することになると思います。毎週二つか三つずつイベントがある計算でしょうか。
渡邉──この空間で行なわれたイベントで印象に残るものはありますか?
井高──個人的にはワークショップが特徴的だったなと思っていて、今回この展覧会でやったワークショップって、これまでYCAMが「オリジナルワークショップ」として行なってきたものと真逆の構造だと思うんですね。
たとえば「ケータイ・スパイ・大作戦」とか「walking around surround」といったオリジナル・ワークショップというのは、事前に目標値が明確に設計されています。参加者にどういう経験や知識を持って帰ってもらうかという部分ですね。それはそれで重要なことだし、実際に参加者の満足度も高いのですが、今回やったワークショップの多くがそれとは逆で、出発点だけ決まっていて、着地するポイントが参加者によってバラバラでした。それでもワークショップとして成立させることが可能なのだということに気付かされました。
渡邉──具体的にはどういうワークショップなんですか?
井高──例としてマレーシアでアート・フェスティバルのディレクターをしているスージー・スレイマンが、元YCAMエデュケーターの会田大也と一緒にやった「ピクニック・ワークショップ」という子ども向けのワークショップを取り上げたいと思います。
そのワークショップでは、まず参加者を2〜3人にグループ分けして、オーディオレコーダーやカメラといった記録装置と紙を渡して、彼らの目線で、商店街を取材してもらうんです。それで、最終的には取材内容をもとにディスカッションを行なって、店舗やそこで働く人の過去、現在、未来について自由な形式でプレゼンテーションをしてもらいました。
渡邉──なにか印象に残った発表はありますか?
井高──8月10日のシンポジウムでもスージーが紹介していましたが、参加者にものすごいシャイな男の子がいて、他の参加者やファシリテーターとコミュニケーションが円滑にできなかったんですね。その子のお母さんからも「内気なのでよろしくお願いします」みたいなことを言われたんですけど、取材の過程で、商店街にある包丁屋さんに行って、ミニ包丁セットの写真を撮ってきてくれてたんです。どうやら、包丁屋さんの取材に行ったことで、その子のなかにどうしても表現したいものがでてきた様子で、「こういう包丁の模型をつくりたい」と言って、周囲に説明をし、大人を使って、とうとう「地域開発ラボ」にあるレーザーカッターで木製の包丁の模型をつくっていました。普通の包丁とミニ包丁を、両方とも実寸大でつくって、みんなに説明しようとしたんですね。発表がとてもよく出来ていたし、面白かった。
スージーがとにかく注力していたのは、参加者一人ひとりの能力をどうやってファシリテーターが引き出していくかということでした。ワークショップには3人のファシリテーターが付いていたのですが、スージーは、ワークショップ前に、ファシリテーターたちに子どもたちの感想を想像してメモするように言いました。メモをワークショップ後に開き、子どもの感想と照らし合わせると、ほぼ一致しました。これは、ファシリテーターたちが子どもに与える影響の大きさを実感させるための仕掛けです。ワークショップ前に、個々のファリシリテーターの能力を引き出すために、ファリシリテーターのためのワークショップというかマインドセットからきっちりやっていましたね。ちょっとした事前の一言で、ファシリテーションがまったく違うものになっていきました。
阿部──目標にあったファシリテーションの技法を、その都度ファシリテーターにインストールすることが重要だということだよね。子どもに何かを教えるということは、まずはファシリテーターに教えるということでもある。
井高──それと、スージーのワークショップに関していうと、メディアテクノロジーが、ひとつの誘引剤のような働きをしているのかなと思います。さきほどの子とは別の参加者の男の子は、家でほとんどコンピュータを使ったことがなかったらしいんですけど、ファシリテーターがコンピュータでのプレゼンテーションボードのつくり方を少しやって見せたら、そこからものすごく器用にプレゼンテーションボードをつくって、発表してくれたんです。写真と文章、あと、録音してきた音を組み合わせたりして。レーザーカッターもそうなのですが、技術の可能性に触れることで、子どもたちが、やりたいことを発見し、能力が開花しているという印象を受けました。
阿部──スージーの狙いというのは、当たり前だと思っていた地元が違うように見えてくるということだけなんでしょうか?
井高──いや、彼女の狙いは他にもあります。YCAMでワークショップを行なったあと、マレーシアのペナン島でも、同様のワークショップをやったそうで、それを例に取るとわかりやすいかもしれません。
ペナン島という場所は、イギリス領だったこともあるし、人種も多様で、宗教も多様で、かなりコミュニティが分断されている場所なんです。だから、親が子どもに「あそこの家の子と付き合っちゃ駄目」とか、そういう意識が自然に伝承されてしまっているような場所です。そういう状況下で子どもたちを集めてさきほど説明したようなワークショップをすると、子どもが媒介になって、お互いのコミュニティの情報を引き出してきて共有する、相互理解に繋がると。正直、よその大人が来て、「何か教えてください」と聞いても、心を開かせるのは大変です。でもそのコミュニティ出身の子どもなら、大概の人は進んで話をしてくれる。ようするに社会にとって、子どもとは接着材のような存在であり、スージーは、子どもには共同体間の分断を取り去る機能があるのではないかと考えているんです。山口でのワークショップでも、このような機能が発揮された場面がありました。