キュレーターズノート
「MEDIA/ART KITCHEN YAMAGUCHI──地域に潜るアジア:参加するオープンラボラトリー」
阿部一直(山口情報芸術センター[YCAM])/井高久美子/渡邉朋也
2014年10月01日号
対象美術館
アートセンターと地域との関わり、その展望
渡邉──今日はまるで展覧会が終わったかのように話をしてしまいましたが、実際には9月28日(日)まで開催しています。イベントもまだまだありますし、今回展覧会に参加しているYCAM地域開発ラボは、会期終了後もかたちを変えて継続していくことでしょう。今後は、今回の展覧会が果たそうとした、あるいは実際に果たした役割をシステムや機能に落としこむことを考えていかなければならないと思うのですが、そのあたりの展望はいかがですか?
井高──われわれが頑張っている限りは駄目な気がしていて、いかに手を離すかだと思います。手の離れたところで、蒔いた種が発芽するか。そういうことは、すごく意識しています。そのためにはホストもゲストもない関係性を、ハブとしてつくって、維持していく必要があると思っています。
阿部──穿った見方をすると、日本のある公立の美術館やアートセンターは、スポンサーの地方自治体からは、ワールドワイドで普遍的な現代アートの追求よりも、できるだけ地元地域に根ざしたものをやれと言われがちであり、地域起こしのアート・フェスティバルなども、アートツーリズムと絡んで、同じ趣向に根ざしていることが多いのではないかと推測されるのですが、そういう傾向は得てしてポピュリズムに流される罠に陥る危険も大いにあるわけです。しかし、真に「地域に向かう」というのは極めて批評的かつアクチュアルな行為であり、地域からしか知見を起こせない普遍性の提案に到達しなくては、地域を題材とする意味がないと思うんですね。
今回、同時期に福岡アジア美術館で5年ぶりに開催された「福岡アジア美術トリエンナーレ」が行なわれたので、そこにも視察にうかがって来たのですが、そのタイトル通り、それらは普遍性があると想定されるアジアの美術館の中のアートが、美学として周到に研究され、収集されたものでした。挨拶文にも明記されていましたが、中心となるのは、メタファーとしてのアートです。それらは現代アートの主流かもしれない。しかし、YCAMが今回試みたのは、メディア・アートがアートのなかでのオルタナティブなモチーフを発動できるかどうかの自問自答として、アートのメタフォリカルな要素を一切使用せずに、直接地域に潜らせ対話させることが可能かどうか、そこから共有をつくり出すことは可能かということでした。これは現代アートの美術作品展や作家主義の文脈とはずいぶん違ったものになったわけです。
むしろアートのプロパーな文脈というより、地域自体が地域を発見し直すことにも通じると思えたのが面白かった。このアイデアが成功だったかどうか、観客の皆さんが楽しめたものを提供できたかはまだわからないですが、少なくとも対話のプロセスを生み出す渦中にいたわれわれは、非常にエキサイティングであったことは確かですね。新発見の連続です。そして、われわれのこうした姿勢に賛同してくれるアジアのアーティストが多数いるということです。彼らは、すでに美術館だけを活動の対象にしているわけではないのです。さらに、それを伝えるのが事後のアーカイブの重要な役割になりますが、これからの課題としては、特別なプロジェクトとして取り組むのではなく、恒常的なコミュニケーションのなかから生まれる創発性として常にアジアとも地域とも対話をキープしてトライアルを持続するというのが重要だと思います。アジアという切り口を取っても、わずかな地域としかコミュニケーションをとってないわけですが、総花的整理ではなく、そこは個別にディープにさらに潜っていく姿勢のほうがリアルだと感じています。
それと多少関係がありますが、YCAMの上映プログラムとの連動で、8月から空族の相澤虎之助監督による映画作品「バビロンシリーズ/アジア裏経済3部作」のうち、すでに完成している《花物語バビロン》《バビロン2──THE OZAWA》を、展覧会に隣接するかたちで、インスタレーションとして公開しました。これらの作品はものすごい量のリサーチをもとに、注付きの脚本をつくっているので、1回見ただけでは状況をすべて把握できない。だから、インスタレーションで鑑賞することで、それに深く潜れるという意図も含んでいます。
あと、今回のハンドメイドの竹デッキのような、オリジナルでホスピタリティのある空間が、市民や子どもさん連れのご家族の皆さんに、環境として開放されているのは、あらためてものすごく重要だと思います。このシステムが常設で、市役所の受付全体にあったらとかね。われわれは3カ月間、地域ラボの活動やワークショップの受け入れなどをこの場所で行なってきたのですが、あまりに快適で仕事がやりやすい、人とも接しやすいので、こんなすばらしいシステムを取り壊すのが心理的に難しい。
渡邉──「行政からやれ」ということで言うと、この展覧会ではそういう要素はまったくなく、むしろ行政に提案するパターンもありました。たとえば、さきほど紹介した機材を積んだバスは、いまは阿東文庫の明日香さんと市の経済産業部と協力しながら、市内のいろいろな施設で継続的にワークショップを展開しています。ようするに、YCAMで行なったことを適切なタイミングで地域や行政に手放す、あるいは地域と行政のなかだちのようなことをYCAMが行なったと言えるんだと思うのですが、そのあたりに公立のアートセンターのセンターとしての可能性が潜んでいるのかもしれません。
あと、いま阿部さんから、アジアのアーティストが企画趣旨に賛同してくれたという話がありましたが、今回の展覧会では「アジア」という問題系がかなりフィーチャーされていますよね。そのあたりの展望はどうですか?
井高──均質化されているものを、どうやって打ち破っていくか。どうやって多様性を確保するか。日本でそれを追求しようと思えば、必然的にアジアに目を向けることになるのかと思います。
阿部──日本には、見渡せば近現代の近代化の弊害のような課題が山積しているんだけど、それを直視せず、フィルターで薄められて世の中を生きてるんですよ。でも、ヴェンザの立ち上げたHONF Foundationは、そういう課題がリアルに突きつけられている状況を逐一可視化して、その問題に対して長期的視点からさまざまな実践を行なっている。
井高──アジアには参照すべき点が多いと思います。今回の展覧会を通じて、われわれの社会のなかで、東南アジア諸国に比べてかなり出遅れてしまっている部分が発見できたんじゃないかなと。
渡邉──展望ということで言うと、ここまでの座談会のなかでも、井高さんの気付きがいくつか披露されたわけですが、そういう経験をどのように開いていくかという問題もありますよね。この展覧会をどうアーカイブするかということとも言い換えられそうですが。
阿部──直接関わらなかった第三者に、それをどう伝えるかが、まさにメディアの役割だと思うので、それをやらないとメディア・アートセンターの役割を果たすことにならない。だからそのステップの課題は絶対あるんですね。ここから始まる部分というか、プロジェクトが終わって、初めて始まる部分もある。そこを、日常的な課題として、どこまで、それをちゃんと意識化できるかというのが課題ですね。
井高──今回、YCAMのスタッフではない、地域の人たち自身の手による展覧会活動のアーカイブと発信についても考えました。地域開発ラボのなかに「ライブラリー・ラジオ・コミッティ」に入っていただき、ライブラリー・ラジオのメンバーが、アーティストや建築家などの関係者にインタビューをして収録・編集を行ない、会場内で配信しています。YCAMが一方的に展覧会の活動記録を配信するのでなく、第三者が情報を発信していくことが必要なのではないかと思いました。
阿部──彼らはもともとは「meet the artist」というYCAMの長期ワークショップに参加していたメンバーで、そのワークショップが終了してからも、多忙ななか、自主的に活動を続けてこられた人たちです。そういうふうにYCAMから飛び出したプロジェクトがパラレルに動きつつ、どこかで交わっていくみたいなことが起きているということですよね。隣接したパラレルなラボ体験というのは、予想以上に楽しい空間ですよ。
渡邉──そんな感じで、オーラルヒストリーみたいなものが、あらためて注目を集めたところで、この座談会自体も、そういった側面がありますから、これをきっかけにそういう作業が始まっていくのでしょうか。
展覧会自体はまだもう少し続きますので、まだご覧になっていないという方はこれを機会に、ぜひ足を運んでいただきたいと思います。