2019年09月15日号
次回10月1日更新予定

キュレーターズノート

「見えない映像を観ることについて」
──『ナイトクルージング』試写会レポート

田中みゆき(インディペンデント・キュレーター)

2019年04月01日号

生まれながらの全盲者を監督として映画をつくる制作プロセスを追うドキュメンタリー『ナイトクルージング』の経緯については、過去の記事ですでに紹介してきた。その一般公開がついに3月30日から始まった。公開前に東京藝術大学で行なった試写会では、『ナイトクルージング』の監督・佐々木誠、全盲であり『ゴーストヴィジョン』の監督・加藤秀幸に、映像を通して歴史を構造的に批評し、再解釈を試みる美術家・映像作家の藤井光をゲストに招いたトークを併催。見えない監督と見えるスタッフが“イメージ”を交換・共有しながら映画をつくりあげるプロセスや映画の構造、当事者性について、本作が投げかける問いに深く切り込む内容となったので、ここにレポートしたい。


共振する二つの映画


田中みゆき(以下、田中)──この映画は、加藤さんが視覚の経験や記憶がないため、最終的に出来上がった映画を自身で視覚的に確認することはありません。加藤さんが持っているイメージを、観客に見える形でどのように翻訳するか、再現するかという点で、それぞれのチームの作家性が現れています。と同時に、そのなかに加藤さんの監督としての作家性を見て取れるし、曖昧になっている部分もある。今日は、この作品のもつ特異な再現/再構築の方法を、構造的・批評的に話す場にしたいと思い、藤井さんをお招きしました。

藤井光(以下、藤井)──まずこの作品を観る前に、見えない人がつくった映画というものを想像してみました。おそらく、視覚というものが如何に特権化され、社会の支配的な感覚として重要視されてきたかという長い歴史のなかに私たちはいる、ということを突き付けられるのではないかと思いました。どうでしょうか、監督。両方の監督に聞きましょう。

佐々木誠(以下、佐々木)──では加藤くんから(笑)。

加藤秀幸(以下、加藤)──視覚情報は、人間が得ている情報の中で8割を占めていると言われています。しかし、私は先天の全盲なので、見たということがない。その自分が映像をつくるということに挑戦する。視覚情報にも映画の知識にも乏しい自分がどこまでできるのか、はっきり言って自信もなかったし、やっていいものなのかどうか、戸惑いもありました。ただ、始めてみると、「できると思うよ」とみなさん言ってくれるので、それならできるんじゃないかなと。質問何でしたっけ?(笑)


左から、田中みゆき、藤井光氏、加藤秀幸氏、佐々木誠氏

藤井──もう既に質問には答えて頂いています。まさに、視覚情報が80%なのです。その他の、聴力だったり、味覚だったり、残り20%をフルに使って、周りの方々もおっしゃってくださったのでやろう、という話をしてくださいました。しかし、その前にやりたいという欲求、欲望があったがゆえに周りが応援してくれたのだと思うのです。『ナイトクルージング』では伏せられていますが、そもそもの動機についてはどちらに聞けばいいでしょうか(笑)。

加藤──では、これは佐々木監督から(笑)。

佐々木──動機については伏せているのではなく、語る必要はないと感じました。その部分に触れると144分どころか256分ぐらいになってしまうので(笑)。この作品の前作『インナーヴィジョン』は、ある視覚障害者団体から「視覚障害者を題材にした面白い映画をつくってください」という依頼があって撮りました。でも、「面白い視覚障害者の映画」って何でしょう。それを考えている時に、団体のメンバーの方々に会うことになって、そのなかに加藤くんがいました。
20人ぐらいいらっしゃったなかで、加藤くんが一番面白いと思いました。同い年ということもあるのですが、子どもの頃に観たテレビの話、音楽や映画の話でとても盛り上がった。よくある話ですよね、ドリフ派? ひょうきん族派? とか。ちなみに、僕らはドリフ派だったのですが(笑)、その時にあれ? と思って。
僕は生まれつき見えるけど、加藤くんは生まれつき見えない。でも、すごく話が合うんです。好きな映画はジャッキー・チェンや『トップガン』。『トップガン』の声優だったら誰が好き? とか。
その頃、僕自身が「映画をつくる映画」というのに興味があったこともあり、加藤くんが映画をつくる様子を撮ったら面白いのではと思い始めました。それで、映画をつくる? と誘ってみたら、「面白そうじゃん」と。スタートはそういうノリでした。



『ナイトクルージング』より
写真:大森克己


藤井──なるほど。つまり加藤さんの映画と佐々木さんの映画が共振しながら同時に出来上がっていったということですね。なので、この映画は構造的に2つの映画を同時に観ることができる。

佐々木──そうですね。対になっています。『ナイトクルージング』と映画内映画の『ゴーストヴィジョン』は呼応しながら進むところがあって面白いと思っています。狙った部分もあるし、勝手にそうなっていった部分もある。
例えば、『ゴーストヴィジョン』にはエディフとレスクというキャラクターが出てきます。この人物たちは前作『インナーヴィジョン』でも登場しますが、エディフは加藤秀幸という名前のアナグラム、そしてレスク・オトクァムは佐々木誠のアナグラムです。また、「ゴースト」はドキュメンタリーのなかで何を指しているのか、というのもいろいろあります。そうした事柄が映画のなかで対になっている。

洞窟の中の囚人と光を見る特権


藤井──プラトンの『国家論』に、囚人たちが洞窟の中で、洞窟の奥の壁に写っている何かの影を見続けて生きている、というよく知られた話があります。囚人たちは生まれた時から楔に繋がれて後ろを振り向くことができない。なので、その影が実体であり、この世界のすべてであると思っている。私たちが実体だと思って見ているものは影にしか過ぎない、それを見て私たちは一喜一憂している、ということを比喩的に言っているのですが、全盲であればその後ろの影をつくっているものの存在にすぐ気づきますよね。実は影は火でつくられていて、パチパチと音がするので、感覚的に火の存在に気付き、その奥にある外の世界に音でもって導かれることもできるのです。
ただ、プラトンの考えは、優れた感覚器官を持った者が後ろの存在に気付いて、最終的には地上に上がってそこで初めて太陽の光を見るというものでした。結局は光を見て、そこに写し出されている地上の世界、そこに本物の世界、イデアの世界がある、という言い方をします。
つまり、「光」そのものの体験までできるのは、ある種のリーダーたちで、形而上学のわかったリーダーたちだけがそういった世界を生きる。その光の、視覚至上主義の長い歴史がずっとあって、20世紀ではそれを壊そうとしてきました。そして今のお話を聞いていると、お二人は視覚を支配する長い歴史、考え方を破壊・脱構築しようとする、と同時に、映画をつくるというとても視覚的なことをしようとしている。その一種のパラドクスについてはどうお考えでしょうか。

佐々木──そのパラドクス、矛盾があるからこそ面白いのでこういうことをやってみよう、ということになったのだと思います。映画は映写機に光を通してつくるという、120年程前にリュミエール兄弟がつくった新しい形態の娯楽でありアートなのですが、たかだか120年しかない映画の歴史の中で、「映画は〜でなければならない」「ドキュメンタリーは〜であるべきだ」という論理、つまり、さまざまな人によって「こういうものだ」と決めて語られている。では、そもそも見えない監督が映画をつくるとなったら、出来上がったもの自体も面白いと思うのですが、その過程を描いたら何か見えてくるものがあるのではないか、と思いました。
この映画を撮ることで、自分はすごく視覚に囚われていたことに気づいたんです。加藤くんとは知り合って何年も一緒にいて、前作から映画をつくる作業をずっとやっている。そこで身に沁みて感じることは、自分たちはまったく違う感覚を持っているんだなということなんです。音の感覚だけでなく、その他にも言葉にできないモヤモヤしたものがドキュメンタリーに映りこんでいると思います。



佐々木誠氏

加藤──そもそも自分が映画をどうやって楽しんでいたか、遡って話してみましょう。小さい頃は両親が映画を観ながら、画面の情報を教えてくれていました。あとはサウンドですね。映画は古ければ古いほど、セリフも多くていろいろ試行錯誤してつくられたのだと思います。目の見えない私にとっては、今、こういう動きをしているんだろうなという想像がつきやすいんです。ところが、最近の映画は表情などで表現されているものが多いようです。これはどうやら画質がよくなってきたせいなんじゃないかなと思っています。ゲームもそうなのですが、3D化することによって、プレーしにくくなっている。
映画をつくってみようと言われた時は、「なに訳わかんないこと言ってんだよ」という気持ちになりました。でも話してるうちに、「映画」と呼ばれているものは音と映像の組み合わせだと考えるならば、こういう音がしている時にこういう映像、というようにお互いの持っている言語で語り合えば、その組み合わせからつくっていけるかもしれないと思いました。



加藤秀幸氏

田中──『インナーヴィジョン』は「映画をつくろう」という趣旨の企画ではありましたが、実際にはつくられていません。それは始めからそういう意図でした。
今回の『ナイトクルージング』で実際に映画をつくろうと考えたのは、「目の見えない人のつくる映画」というものに対する観客の期待というのはとても大きく、ある意味とてもきわどい企画だとは思いますが、本当につくってしまうことで、より生々しい期待と現実の食い違いのようなものや、藤井さんがおっしゃっていた矛盾みたいなものが浮かび上がってくるんじゃないか、と思ったからです。
加藤さんとは見えない人によるダンスを一緒につくったことがありました。先ほど情報の80%と視覚という話が出ましたが、では加藤さんが感じている世界は、残りの20%の部分なのかというと、私はまったくそうは思いません。
見えている人は勝手に視覚優位に考えがちですが、五感は切り分けられないものだし、視覚によらない方法でも共有の仕方はあります。もともと視覚を使わない加藤さんが核となることで、新しいつくり方やアプローチも可能になるのではないかと思いました。

佐々木──『インナーヴィジョン』で、意図的に映画をつくらなかったのは、加藤くんの考えている映画を実際につくってしまうと、ある種のギャグになってしまうのではないか、と思ったからです。それよりも、断片を見せてお客さんとの想像力でひとつの作品を完成させよう、と。しかし、実際に上映すると、「なぜつくらなかったのか」と言われました。
『ナイトクルージング』は『インナーヴィジョン』の頃から実際に映画をつくったらこうなるだろうな、と想像していたものでした。結末も加藤くんだったらこう言うだろうな、というものでしたし。わざわざわかっているものをつくるのか、めちゃくちゃ面倒くさいだろうな、とも思っていました。予想通りの作品になりましたが、予想を超えていたのはものすごくめちゃくちゃ面倒くさかった、ということです(笑)。
視覚障害者が映画をつくるという面倒臭さと、加藤秀幸という面倒臭い人と映画をつくるという二重の面倒臭さがありましたね(笑)。でも面倒臭くて頑固者だったからこそ、監督としての才能があったのではないか。全視覚障害者が映画監督になれるのかというと、それはすべての見える人が映画監督になれるのかというのと同じ話です。



会場風景

人に委ねるつくり方とスペクトラム


藤井──頑固ということでは、七三分けが絶対に嫌だ、というようなこだわりのシーンがいくつかありましたね。そのようなこだわりに対して、スタッフの手足が動き、監督の元に結集する。ただ、この作品のなかには、これからの映画をイメージさせるような事柄がありました。
かつて盲目の写真家という人がいました。それを可能にしたのはテクノロジー、オートフォーカスであり、カメラ技術の進展でした。今回の映画のなかでも、AIだったり認知科学などの知を集合させて映画をつくろうとしている。つまり、それは監督が美の頂点に立ち、スタッフの技能をファシズム的に束ねていくというつくり方ではなく、さまざまな人々の意見を聞きながら、編みながらつくっていく、というつくり方ですよね。そもそも監督が二人というところからして複数なのですが。
こだわりのある監督として、自分が判断できない視覚の美的なところを人に委ねるとことに、葛藤はありませんでしたか? 加藤さんは音の部分の作業がわかっている分、リスクは承知のうえだったと思いますが。

加藤──ずっと葛藤していました。でも結局、これはバディムービーなのです。佐々木さんと一緒につくる、田中さんが説明してくれる、もっと言ってしまえば、CGをつくってくださっている方々が言葉にして、あるいは触ってわかるようにして表現してくれる。視覚的に物事を捉えるということを、私は完璧には理解していない、ということに過ぎない。結局そこは信頼なのかなと思います。そんないい加減な状態でつくり続けていいのかな、とも思ったのですが、色の話を伺いに行った時に、同じ色を見ていても、人によって色の感じ方が同じとは限らないという話があって、じゃあそういうちょっと無責任な映像をつくって発信しても間違いにはならないのかな、と思いました。



『ナイトクルージング』より

藤井──面白いですね。ヴィトゲンシュタインの『色彩について』で、「青い色」というのはそれぞれに違う、でもその青という色を何となく共有する文化なりスペクトラム、領域がある。そもそも、緩いんだという話を思い出しました。その緩さに賭けるというか、それで良しとするという感じですね。

加藤──まさにそうです。

田中──『ゴーストヴィジョン』の制作をいくつかのチームを分けた理由は、加藤さんの思い描いている世界を完璧に視覚化できるチームが存在するのか、それを誰が確かめるのか、という疑問があったからです。加藤さんが思い描くSFは私たちが見ているようなCGでつくられた高精彩なものなのか。加藤さんの捉えるSFにも触覚であったり言葉によって構築されるものもあったり、グラデーションやスペクトラムがあると思うのです。それを創作するうえで専門分野の異なるチームにお願いしました。
例えば冒頭の金氏徹平さんとつくったシーンでは、金氏さんは視覚的に、加藤さんは触覚的に構成したものを撮影してつくりました。結果、おそらく加藤さんが抱いているイメージと私たちが見ているものはそれほど変わりはないように感じています。一方でCGのチームでは、フレームの話など、やはり視覚的な映像にするうえでの独特の表現方法も出てきます。そういうチームを敢えて選んでいました。

当事者性とは何か


田中──この映画について話すと、「加藤さんにはぜひ視覚に縛られないで映画をつくって欲しい」とみなさん期待されるんですよね。でも、私たちはそれほどその点について過剰に意識はしていませんでした。
例えば加藤さんの映画の主人公を演じているのは、普通の俳優さんです。加藤さんは触ったり話したりして感じた人柄などを総合して選んでいるので、わざと格好良くない人を選ぶということはしなかった。見えない人がつくる映画だと、顔って音や触覚ではわからないので、顔の造作がない人が出てきたりする方が差別化できるし、見えない人がつくった映画とわかりやすいと思います。ですが、敢えてそういうこともしませんでした。それに対して、見える人のなかにはがっかりする人もいると思います。そういうことも含めてコピーには「見えない監督の映画にあなたは何を“観る”か?」としました。そういう想像や期待、それは搾取でもあると思うのですが、そういったものも投影する映画なんじゃないかなと思っています。



『ナイトクルージング』より

藤井──目が見える人が目の見えない人を題材とする、または撮影をするというのは20世紀からたくさんありました。障害のある人を撮影する、映像化するなかで、どういった関係性で撮るか、当事者性の問題というところは、これまでいろいろ挑戦されてきたことですが、この映画はすっと抜けた感じの目線ですよね。
つまり、「搾取する」ということをすごく意識しているなかで、搾取が消えるなんてナイーブなことは言えないんだけれども、この緊張関係が映画の構成ともいえる。そこは加藤さんにとってはどうだったのでしょうか。

加藤──佐々木さんは、俯瞰し過ぎず、介入し過ぎず、という関係を常に保っている。意図的にやっているのか、気を遣っているのかいないのかわからないような、そういう彼が好きで、信頼しているというか。そういう関係で一緒にやってきたので、だからこそ完成できたのではと思っています。


藤井光氏

藤井──プロデューサーとして、こうしたテーマを扱うことについての倫理的な問題についてはどう思いますか?

田中──障害のある人の表現を扱う時にいつもモヤモヤするのは、当事者に主体性を持たせないものが多いことです。本人が必ずしも作品と思っていないものを周りが作品として世に出す、その時に周りはどこかで、彼ら自身では判断できない、と良かれと思って代弁している部分もあるのではないでしょうか。
今回も加藤さんに見えない世界のことを教えてもらって、見える人が見えない人の世界を想像してつくる、というのはいくらでもできると思います。けれど、見えない加藤さんにインスピレーションを受けた作品には絶対したくなかった。今回、見えない監督というのは匿名の人ではなく、加藤秀幸さんだからです。なので、加藤さんの視覚以外の要素である人柄や周りとの信頼関係を元につくろうと、さらに面倒臭くして申し訳ないですが、すべて加藤さんに確認してもらいながらつくりました。加藤さんに主体性を持ってもらうというやり方にしたのは、そういう思いからです。そして、加藤さんが当事者であるという絶対的な事実があるが故に、みんなが期待する「当事者性」を強調することはしていないですね。



田中みゆき

藤井──この作品がこれからどう受容されていくのか、どう言葉にしていくのか、どういうふうに観るかは人それぞれでかなり違うと思うんです。
僕は常に当事者性の問題を考えているのですが、この作品ではそれに対して監督、プロデューサー、本人自身もとても意識的だ、ということは感じました。最初のハードルはクリアしているので、その次の今日最初に話したような問題に素直に行けた。その手前で止まってしまう作品もたくさんあるので。ただ、これを社会に出した時にどう捉えられるのか、どう観られていくのか、その点についてはわからないですよね。世の中にはさまざまな人がいますから。


トークを終えて


『ナイトクルージング』と『ゴーストヴィジョン』は映画としての構造だけでなく、同時に制作を進めた背景もあり、互いに影響を与え/受けあいながら発展していった。そして、助成金の都合で完成の締め切りは決まっていたため、『ゴーストヴィジョン』を加藤とともに制作した4つのチームは、ほぼ同時期に制作するという過酷な状況だった。そして、佐々木監督は『ナイトクルージング』の監督であり『ゴーストヴィジョン』の監督助手と制作、私は『ナイトクルージング』のプロデューサーであり『ゴーストヴィジョン』のプロデューサーと制作を担っている。

今回4つのチームは佐々木監督と私で分担し、私は冒頭(シーン1)と最後(シーン6)のチームを担当した。加藤さんの思い描くSF映画のスペクトラムを表すには、既存の映画業界のつくり方にのっとる必要はないのではという考えから、何もないところから表現や文脈をつくったり読み替えたりすることを得意とするアーティストの力が必要だと感じた。佐々木監督のつながりですでにお願いすることになっていたのが、CG制作会社と実写の撮影チームということを踏まえ、それらと異なるアプローチや作風を持った金氏徹平さんと山内祥太さんに依頼した。そして、新しいつくり方を模索するうえで、人工知能研究者の三宅陽一郎さんをはじめとする株式会社スクウェア・エニックスの皆さんにもご協力頂いた。

恐らくアート業界の知人がこの映画を観たらどの部分に私が関わっているかはよくわかると思うが、私自身、映画の素材という意識ではなく、普通にアートプロジェクトとして加藤さんとクリエイターの共同制作を実現するために動いていた部分は大きい。以前『「アール・ブリュット」を通して考えるアートと人と社会の関係性』でも書いた通り、私は作品になる手前の表現の状態に興味があるため、加藤さんとクリエイターたちのコミュニケーションがそれぞれ絶妙なバランスで映像になっていく過程はとてもスリリングで、別の形でドキュメントをまとめたいと思ったほどだった。

『ゴーストヴィジョン』については、「これは本当に加藤さんの作品と言えるのか」と思う人が少なからずいるであろう。この映画は『ナイトクルージング』と対になっているがゆえに、プロセスの特異性や関わったスタッフの協力を抜きに語ることは難しい。しかしそれは、どんな映画にも多かれ少なかれ共通の問題とも言える。つまり、ここで考える重要な問題は、「監督」とはいったい何なのか、ということなのだと思う。藤井さんとの対話でも話題になったように、監督のあり方にもさまざまあり、何に作家性を見出すかもさまざまな観点がある。それを役割と捉えるか、作家と捉えるかで見方も異なってくるだろう。

また、何かに「委ねる」というつくり方は、決して障害のある人特有の問題ではない。藤井さんも指摘する通り、テクノロジーは私たちの協働を後押しすると同時に、すでにメディアアートやバイオアートにも見られるように、作家のあり方をも変え始めている。もはや手を動かしその作品に関わるすべてを束ねる存在が作家の唯一のあり方ではなく、複数人の作家による協働や関係性によりつくられるものも少なくない。今回は見えない加藤が監督をすることで、必ずしも見た目に現れるものだけが監督の作家性ではないということが浮き彫りになったともいえるのだ。そういった作家性や作品の自律性を考えながら観ていただくことをこの作品の見方のひとつとして提案したいと思う。

※このイヴェントは東京藝術大学大学院映像研究科主催のノンディグリープログラムgeidai RAM2 Open Lecture #05として、2019年3月16日、東京藝術大学上野校地で開催された。

協力:熊野雅恵
ナイトクルージング

上映期間:2018年3月30日(土)〜
劇場情報:https://nightcruising.net/ja/screenings/

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