2022年08月01日号
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キュレーターズノート

2つの民衆版画運動と戦争の傷跡、平和運動──「彫刻刀が刻む戦後日本展」出品作から

町村悠香(町田市立国際版画美術館)

2022年04月01日号

2月末にウクライナで戦闘が始まり、世界情勢が大きく変わるただなかにあるいま、筆者は現在「彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動展 工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった」を準備している。この展覧会では、戦後日本で展開した2つの民衆版画運動を紹介する。ひとつは社会運動を版画で伝え、アマチュアに版画を広めた「戦後版画運動」(1947~50年代後半)。もうひとつは戦後版画運動から派生し、全国の小中学校の教員が学校教育のなかへ版画を広めた「教育版画運動」(1951-90年代後半)だ。
展覧会準備に追われるなかでも、メディアを通して知る戦闘と、ウクライナ、ロシア両国で戦争に翻弄され苦しむ人々のことが気になって頭を離れない。また、ニュースを見ていると日本がかつて経験した第二次世界大戦はどのようにして始まり、その時代を生きた人々の人生を変えていったのか思いを馳せてしまう。このような状況下で展覧会を開催するにあたり、「戦後版画運動」と「教育版画運動」に関わった人々に戦争体験はどのように影響を与えたのか、いま一度立ち止まって考える必要があると感じた。


青森県八戸市立湊中学校養護学級生徒(指導:坂本小九郎)『虹の上をとぶ船・総集編(2)』より《天馬と牛と鳥が夜空をかけていく》(1976)、木版、900×1820mm、五所川原市教育委員会蔵[写真提供:青森県立美術館]


戦争の傷跡と中国版画

2つの民衆版画運動の原点には、1947年に日本で紹介された中国木刻(木版画)の存在があった。日本で初めて本格的に中国版画が紹介されたのは1947年2月だった。同じ月に神戸と東京でそれぞれ別に中国版画展が開催されている。銀座三越で開催された「中国木刻画展」(主催:中日文化研究所主催、後援:朝日新聞社)を見た内山嘉吉(1900-84)は「魯迅さんと中国の版画 中国最初の創作版画講習会の思ひ出」『中国文学』(華光社、1948年3月1日)で以下のように語っている。


あの戦火に見る影もなくなったままの銀座三越の三階、焼け落ちたままの壁をやっと蔽った黒い幕、よせ集めの苦労のみえるとりどりの額縁、ガラスもない塗もない白木のままの額などに入れられた僅か三十点ばかりの作品は、魯迅先生のいぶきに育てられた作家の個性を通して、はっきりと先生の指導力の偉大な結実を確にしめしていた。


内山は内山書店を経営する兄の完造を訪ねて1931年夏に上海に滞在した。勤務先の成城学園小学部で版画を教えていたことから魯迅に頼まれて木刻講習会で講師を務めた。その講習会が中国の木刻運動に繋がっていく。1930年代から魯迅が提唱して起こった中国の「木刻運動」は「抗日戦争」や帝国主義・封建制度に対抗する過酷な現実をえぐり出した。木版画でこれらのテーマを描いたのには、文字が読めない人々にも絵を通して伝えようとする意図があったからだ。中国木刻のリアリズムは、戦争の傷や苦しい生活に悩む当時の日本の人々に強いインパクトを与えた。敗戦から2年足らず、戦後の美術界の本格的な復興はまだ果たされていなかった。明治の近代化以降、西洋美術を学んできた日本の美術界にとって、中国美術を手本とするのは画期的なことだった。そこには長年の交戦国に対する複雑な思いもあったのではないだろうか。彼らはこれにインスパイアされて「民衆のための美術」を目指すようになる。

滝平二郎と「裸の王様」

戦後版画運動の中心のひとりに、後に「切り絵」の絵本や新聞連載で有名になった滝平二郎(1921-2009)がいる。滝平がこの運動に加わっている最中に、初めての絵本『裸の王様』を私家版で刊行した。



滝平二郎『裸の王様』より(1951)当館蔵[© JIRO TAKIDAIRA OFFICE Inc.]


滝平はこの絵本を作った時期について『子どもの本の学校』(ほるぷ出版、1986)でこのように振り返っている。


その頃の私は、苛烈な戦争から辛うじて生還し得たというよろこびよりも、敗戦の無惨な結果を見るまで侵略戦争の本質に目が開かず、ただ指示通りに従順であった自分自身の愚かさが、いかにも口惜しかったのと、それにも増して、われわれをそこまで暗愚に育て上げてくれた戦争指導者どもに、ありとあらゆる悪罵を浴びせないことには、胸がおさまらぬ思いがあった。


そうした気持ちは、沸き立つような戦後民主主義の昂揚の中で、「さあ、これからは気がねなく権力者の化けの皮をひんむくこともできるのだ」という、かつて味わうことのなかった解放感と、おそらく一体を成していたのであろう。


滝平は召集され沖縄戦に参加し捕虜となり、九死に一生を得て復員した。戦前の学生時代から手がけていた風刺漫画の腕が冴え、初の絵本ながら非常に高い完成度を誇る。童話の世界にことよせて戦争指導者を風刺する木版とガリ版による絵本は好評を得て、1953年に中国で翻訳され、1972年には金の星社から刊行された。

ケロイドの傷に触れて 上野誠

実際の「傷」に触れたことがきっかけとなり、作家として進べき道を定めた者もいる。生涯に渡って被爆者を描き続けた上野誠(1909-80)だ。上野は1954年に東京・上野駅で、原水爆禁止を訴える被爆者の男性に出会う。



上野誠《ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え》(1955)ひとミュージアム上野誠版画館蔵


本作はそのシーンを描いた作品で、戦後版画運動に携わった時期の上野の代表作だ。被爆者の痛々しいケロイドの傷跡に直に触れたことが、上野の方向性を決定づけた。被爆者に関する作品を制作し続け、1961年には実際に長崎を訪れ、被爆者に作品を見てもらう。その後は彼らと交流しながら制作を続けていく。上野は戦前には中学校教員を務め、教師の立場として子どもたちを戦争に送り出さざるをえなかったことに自責の念を感じていた。その反省から戦後は教師を辞め、戦後版画運動を経てこうした版画作品を通じて平和を訴えていく。

「平和美術展」、「ニッポン展」と美術界の平和運動

戦後版画運動のなかで平和の訴えが大きなテーマとなったのは、同時代の社会情勢や、美術界でも盛んになった平和運動を反映している。美術界での平和運動の盛り上がりから生まれた展覧会に「平和美術展」と「ニッポン展」がある。どちらも制作スタイルや政治的主張を超えて集った試みで、日本版画運動協会の作家もこれらの展覧会に積極的に参加した。

1950年代前半は日本では冷戦構造が固定化していったが、隣国の朝鮮半島では朝鮮戦争が起こり、熱い戦争が続いた。朝鮮戦争をきっかけに日本の再軍備が始まる。戦争が終わってから10年も経たない時にあって、朝鮮戦争で原爆が使われる恐れや、戦争が日本にも飛び火するのでないかという切実な危惧を抱えた人が多く、平和運動が盛り上がっていく。

1952年から現在まで開催されている「平和美術展」は「美術家平和懇談会(後の美術家平和会議)」が「平和のための美術展」として東京都美術館で開催し始めたものだ。1950年代から60年代の事務局長は中谷泰、朝倉摂、西常雄、佐藤忠良が務め、日本美術会のメンバーが中心だった。しかし当初は棟方志功など政治的主張や制作スタイルを超えた美術家も参加している。日本版画運動協会のメンバーは後に運営に参加し、この展覧会に長年関わっていった。第1回展が東京で開かれた後、各地で賛同する作家グループが地方独自で平和展を開催していく。そのなかのひとつである「平和をまもる美術展(通称・大阪平和展、後の関西平和美術展)」は「平和擁護美術家協会(後の美術家平和会議)」によって1953年から大阪市立美術館で開催され、関西に住む日本版画運動協会の会員が参加した。

1953年から1959年の第7回まで開催された「ニッポン展」は「前衛美術会」の若手メンバー・桂川寛、尾藤豊、勅使河原宏らルポルタージュ絵画の作家が中心となった。正式名称は「課題をもった美術展“ニッポン” 美術家のみた日本のすがた」。明確な主題を伝えるリアリズムを重視する作家が出品した。この展覧会の開催の意図には平和を願うと同時に、主権を回復したにもかかわらず、米軍基地が広がっていく現状に対する違和感もあった。

日本版画運動協会のメンバーは1954年の第2回展から参加している。この展覧会では1953年度国際平和賞を受賞した丸木位里・赤松俊子(丸木俊)「原爆の図」の第4〜6部が展示された。その隣室に日本版画運動協会から上野誠、中山正、新居広治、滝平二郎が参加して「原・水爆禁止のための群作版画」全7点を発表している。

第五福竜丸事件と女性アーティスト

1954年3月にアメリカが太平洋ビキニ環礁沖で水爆実験を行なった際、その事実を知らずにマグロ漁船・第五福竜丸事件が近くを航行していた。多くの乗組員が被爆しそのうちのひとり、久保山愛吉が亡くなる。広島・長崎に続く3度目の日本国民の被爆により放射能の恐ろしさが報道で広く知れ渡り、核兵器廃絶を求める「原水爆禁止署名」が起こった。

放射能で汚染された積荷のマグロの処置問題も大きなニュースとなり、生活に身近な問題としても捉えられ、平和運動に女性が積極的に参加するきっかけとなった。東京都杉並区の主婦のグループが署名運動の発端となり、「原水爆禁止署名」には1年程で約3400万筆が集まった。原水爆禁止を求める声は日本のみならず世界でも広がっており、1955年8月に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されることにつながった。



上野誠『生活版画』(明治図書出版、1956)より 小林喜巳子《メーデー》1954年


この平和運動は女性が声を上げたことから始まったため、女性作家が平和をテーマに積極的に描くきっかけにもなった。東京美術学校(東京藝術大学)を卒業して間もなかった小林喜巳子(1929年生まれ)は、第五福竜丸事件をきっかけに核実験に反対するメーデーの木版画を描き、第2回ニッポン展で発表。これが上野誠の目に留まり、戦後版画運動を進める日本版画運動協会に参加するきっかけとなる。このほか、上野誠と親しく交流した神戸の中国華僑の版画家で、中華同文学校の教師でもあった招瑞娟(1924-2020)もこの事件をきっかけに社会的なテーマを深める作品を発表していく。

大田の捕虜体験と教育版画運動

次に、教育版画運動には戦争体験はどのように反映されているだろうか。教育版画運動を率いた大田耕士(1909-1998)は、戦前は小学校教員を務めながら風刺漫画を発表していた。大田は1944年に召集され、中国の応城で終戦を迎える。そこで親しくしていた「程さん」という日本軍の兵団新聞を印刷する新聞社の経営者から、ドーデの『最後の授業』の話を聞かされる。この話はいまは中国の教科書に載っているが、今度は敗戦国の日本の教科書に必要になるというのだ。このことが強く心に残り、大田は半年ほどの捕虜生活の最中に以下のように考えていたと、『日本の版画教育の歩み』(日本教育版画協会、1984)で述べている。


日本、日本民族の将来、子どもたちのこと、新しい日本が次の世代にどんな責任をもたねばならないか、そのために、自分は何をしなければならないか。そのことを、自分に問い続けていました。魯迅の版画運動のことは戦前から知っていましたが、民族の解放運動と切りはなせない中国現代版画のことが、次第に意識の中にひろがっていきました。そして、かつて教えた子どもたちの感動的に版画に取り組んだ姿が鮮やかに浮かび上がってきました。


大田は帰国後、日本版画運動協会の結成に加わり、機関紙の編集も担当する。その後は学校教育のなかに版画を広めるため、1951年に「日本教育版画協会」を設立。生活に根ざした主題を描くことを通して地域性や民族性を重視する美術教育運動を展開した。

この会の全国組織化に成功し、現場の教員たちがユニークな教育実践を行なう。その後押しにより、1958年に改訂された学習指導要領で「版画をつくる」という項目が加わり、日本中の子どもたちが学校で版画を作る経験をしていく。引用したエピソードは大田が機関誌などで繰り返し語っているものだ。この捕虜体験が教育版画運動を進める原動力のひとつとなり、教育版画運動の方向性にも影響を与えたと考えられるだろう。

教育版画運動と平和

教育版画運動に加わった教員で平和教育を生涯のテーマとしたひとりに、細田和子(1936年生まれ)がいる。細田は島根県に生まれ、山口県阿武郡と東京都東久留米市の小学校で版画を指導した。終戦時には小学校3年生だったという細田は、幼少期の戦争経験を抱え続け、1960年代に教育版画運動に触れた時「世界を平和にする表現方法」だと感じたという。教育版画運動では生活や地域に根ざしたリアリズムを重視し、なかでも180×90cmの大型作品、版画文集などの共同制作の指導が盛んだった。共同制作を通して、地域を見つめ、相談しながら皆でひとつの作品を作り上げることは、自己表現と他者への理解に繋がる。そのため、版画制作を通じて子どもたちが成長することで、平和の実現の一歩になると考えたのだ。

細田は地域に根ざしてさまざまな社会問題にアプローチする版画文集を指導した。学校の隣にある滝山団地の生活排水で、公園の沼のドジョウが死滅したことをテーマに版画集にまとめた『子どものドキュメント 団地の中の自然』(東久留米市立第七小学校、1973)。近所で見つかった縄文遺跡の発掘現場から、過去の人々の生活を想像、体験して版画を制作する『東久留米の縄文の人々』(東久留米市立第七小学校、1980)。地域の従軍経験者の話を聞きにいき、版画カレンダーを制作する実践(東久留米市立本村小学校、1985)を行なってきた。



東京都東久留米市立神宝小学校卒業生有志23名(指導:細田和子)《森は生きている》(1999)[画像提供: キッズゲルニカ国際委員会]


《森は生きている》はそうした細田の指導実践のエッセンスに共鳴した東久留米市立神宝小学校の生徒の有志が、小学5年生から中学2年生にかけて約4年間かけて完成させたものだ。「Art Japan研究会」が1995年から始めた「キッズゲルニカ・プロジェクト」(ピカソの反戦絵画《ゲルニカ》と同じサイズ(3.5×7.8m)で子どもたちが平和をテーマに作品をつくるプロジェクト)に賛同して制作された。

画面右には学校近くの水子地蔵が描かれ、命を落とした昔の子どもたちに思いをはせる。中央には校庭の桜の木からイマジネーションを膨らませた「生命の木」が生えている。多様な花や葉が生える枝に生き物が集まり、木の下では子どもたちが遊び、版画を作る。左上には天使やペガサスが描かれ、魂を天国に連れていく。身近な場の生と死、過去と未来に想像を巡らせ、自然のなかで人や生きものが共生して平和に生きる幸せを表現した。

なお、細田と元教員らのグループ「日本子どもの版画研究会」では平和と相互理解のため、版画を通した中国の教員との交流を現在も続けている。「世界を平和にする表現方法」としての版画の夢は実現できるのか。こうした草の根の交流の展開を今後も追っていきたい。


本稿で紹介した作品の多くは展覧会で紹介するが、ここに載せきれなかった作品も数多く展示する。戦争の傷跡から出発した2つの民衆版画運動と平和を求める彼らの実践は現在の私たちに何を投げかけるのか、ぜひ展覧会に足を運んでみて欲しい。

彫刻刀が刻む戦後日本──2つの民衆版画運動 工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった

会期:2022年4月23日(土)~7月3日(日)
会場:町田市立国際版画美術館
(東京都町田市原町田4-28-1)

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