キュレーターズノート
それでも美術館から遠くにいる人たち
田中みゆき(キュレーター/プロデューサー)
2023年09月15日号
ICOM(国際博物館会議)の博物館の定義
にも「アクセシブル」や「インクルーシブ」という言葉が含まれ、多様性への認識は業界のなかでもますます高まっているように感じられる。しかし、その「多様性」にどこまでの人たちが含まれているかは、その言葉を使う人、受け取る人の想像力にしばしば委ねられる。それによって、これまで周縁に置かれてきた人たちのなかでも、その多様性のなかに含まれやすい人と、そうでない人が分かれるという現実がある。アクセシビリティは情報保障と混同されることが多いが、情報保障はその一部に過ぎない。本稿が、アクセシビリティが進むなかでも、現状の施策ではカバーされておらず、未だに美術館から遠くにいる人たちについて考えるきっかけになればと思う。美術館にいられる体
半年前から、わたしはとある福祉施設で週2日から3日ほど働いている。創作の時間はあるが、いわゆる「アート」の世界とは無縁の場所だ。アメリカに行って
から、福祉や施設というものを改めて考えたいと思うようになったことが大きなきっかけだった。わたしの働く施設には、ほかの施設では受け入れが難しい、重度の障害のある人が多い。身体障害、知的障害、発達障害、統合失調症など、さまざまな人たちがいる。また、一種類だけではなく、ほとんどの人が複数の障害を併せもつ、重複障害がある。手を使うことができる人、言葉をコミュニケーション手段とする人が少なく、創作の時間もその人ができることに合わせた工夫が必要とされる。そもそもほとんどの人はトイレや飲食の介助中だったりして、全員がその時間に揃うことのほうが珍しかったりする。しかし、好奇心旺盛な人やつくることに関心が高い人は少なからずいる。それにはできる限り応えたいと思うが、ほかの人の生命を維持するための介助でそれどころではないことも多い。彼らといると、彼らが美術館というもので過ごせる日は来るのだろうか、としばしば考える。多くの人にとって、美術館の解説は難しすぎるし、何をする場所なのかもわからないだろう。ある人は痰の吸引や発作の対応などの医療的ケアやトイレ介助などが頻繁に発生するため、フロアのアクセスしやすい場所に医務室や車椅子用トイレがないことは考えられないし、一度使うと20~30分は占拠することになる。ある人は感覚過敏のため、一定の音量以上の音に耐えられず、たとえそれが自分に向けられたものでなかったとしても、聞きたくないNGワードが多々ある。ある人は、常に唸るような声、ときには歌うような声を出しているため、一般の鑑賞者からクレームが出るのは想像に難くない。そんなふうに一人ひとり考えていくと、いまある美術館という場所に無理なく存在できる人が、誰もいないことに気づく。美術館というのは、自分の体や健康・精神状態を、望ましいと設定されたある規定の範囲内に意識的に収めることができる人のための場所なのだ。
情報でなく体験を保障するためのアクセシビリティ
この数年、美術館や博物館などにおいて、これまで来場者に含まれづらかった人たちに向けた取り組みが少しずつ見られ始めている。特に目が見えない人との鑑賞ワークショップや手話通訳付きのツアー、やさしい日本語のガイドなど、情報保障に関する取り組みを見かける機会が増えている。それらの情報保障は、それぞれの障害特性への配慮が必要ではあるが、すでに展示のために準備された作品やテキストをもとにできるため、(まだまだ十分とは言えない状況だが)比較的取り組みやすい方法だと言える。
一方、発達障害者や知的障害者、精神障害者などに向けた取り組みは、環境そのものからつくっていく必要があるため、実践の例はまだごくわずかだ。例えば2017年にスパイラルで開催された日本財団DIVERSITY IN THE ARTS企画展「ミュージアム・オブ・トゥギャザー」では、会場の一角に「クワイエット・ルーム」として、展覧会から離れて静かに心を落ち着けられる場所が設けられた。昨年のドクメンタ15でも、照明が落とされ、クッションが設置されたクワイエット・ルームが用意されていた 。これは、聴覚、視覚、触覚や嗅覚などの感覚が過敏な感覚過敏の人たちや精神障害のある人たちにとってのアジールであるとともに、美術展という長時間ほぼ立った状態で集中を強いられる場所において、こうした場所を潜在的に必要とする人はほかにも少なからずいるだろう。
一般的に発達障害の人たちに向けた取り組みは、「Sensory Friendly 〜」(または、「Autism Friendly 〜」「Relaxed 〜」)と呼ばれ、海外では美術館よりも劇場でのダンスや音楽公演において積極的に実施されている。例えばニューヨークで見たあるダンス公演では、アクセシビリティの一環として必要な人にバッグが配られ、そのなかには視覚の刺激が強い人に向けたサングラスやアイマスク、聴覚の刺激が強い人に向けた耳栓、そして不安からくる落ち着きのなさを解消するために握っていられるフィジェット2種類がセットとなり入っていた。一般の人にとっては、「アイマスクや耳栓をしてまで公演を見るなんて」と思うかもしれないが、視覚や聴覚からの強すぎる刺激を遮断することで、落ち着いてほかの感覚で公演を楽しめる人もいるのだ。博物館においても、感覚過敏の人たちに向けてヘッドフォンを貸し出す施設や、感覚特性に応じたアプリを提供する施設もある。
一方、日本の美術館においても、施設を訪れるまでにハードルがある人への取り組みが始まっている。今年5月、国立アートリサーチセンターは、ラーニンググループが企画・制作した「ソーシャルストーリー はじめて美術館にいきます」という、発達障害のある人をはじめ、美術館にはじめて訪問する人、利用することに不安を感じる人などに向けた冊子を発行した。
ソーシャルストーリーは、海外では「ソーシャルナラティブ」と言われることも多く、その施設での滞在がどのようなものになるのかを、主に自閉症など発達障害のある人に向けてわかりやすいビジュアルをメインに紹介するものである。それは、初めて訪れる場所や予想外の出来事、音や光に混乱してしまう、といった発達障害の特性に配慮されている。例えばニューヨークのルービン美術館のソーシャルナラティブは、こども向け、大人向け、家族向けの3種類に分けられ、主語を「I」として、自分が美術館に足を踏み入れてから帰るまでに施設内で何が起こりうるか、どんな選択肢があるかを時系列で記載している。
現在、東京都現代美術館で開催中の「あ、共感とかじゃなくて。」展では、NPO法人全国不登校新聞社の協力により不登校児のための、そして一般社団法人ひきこもりUX会議の協力でひきこもりや生きづらさを抱える当事者を対象に、参加アーティストの渡辺篤によるツアーが休館日に行なわれている。情報保障という問題以前に、不特定多数の視線に晒される美術館という環境にハードルを感じている人たちにとっては、自分のペースで見ることも見ないことも選べる、そしてそれによって誰かに批判や評価をされたりしない安全な環境を整える、ということがまず重要になってくるだろう。
「インクルージョン」で描かれるイメージは、多様な人たちが同じ場に一堂に会するものかもしれないが、わたしは必ずしもそうではないと思う。例えば昨年ニューヨークで「ライオン・キング」の「Autism Friendly Performance」を見た時のことだ。ニューヨーク市中の特別支援学校との連携で開催された公演は、発達障害当事者とその家族たちで埋め尽くされた。その結果、上演中も忙しなく立ったり歩いたりする人、叫ぶ人、椅子を揺らす人たちで、客席中もジャングルのような状態だった。しかし驚くことにほとんどの当事者たちは、最後まで立ち去ることなく上演を楽しんでいた。一方、たまたま同席した障害のない友人は、「悪いけどとても落ち着いて見られなかった」と不満を漏らした。「Autism Friendly Performance」がなぜ通常の公演の鑑賞サポートではなく、単独のパフォーマンスとして行なわれているのかがよくわかる上演だった。「一般来場者に支障のない範囲で鑑賞サポートを行なう」という考え方ではカバーできない人たちは、多くのアクセシブルとされる鑑賞のなかでもさらに排除されているのだ。
コンテンツではなく、インフラとしてのケアへ
これまで美術館に出かけづらかった人たちに対する施策は、施設側というよりも作家が主体となって例外的にかたちになる例のほうがより多く見かけられる。例えば、昨年森美術館で開催された「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」で会場内に託児所が設置されたり、ドクメンタ15でもフリデリアチヌム美術館の一階の半分が、ルアンルパが行なっている子どものためのスペース「RURUKIDS」(デイケアスペース含む)に割かれたりといったことが起こっていた。水戸芸術館の「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」展では、展覧会内に作家の碓井ゆいが制作した授乳室として機能するテントが設置された。女性や労働の視点から社会や制度からこぼれ落ちるものに焦点を当ててきた碓井は、さいたま国際芸術祭2020でも授乳室を制作しているが、本作も水戸芸術館に常設の授乳室がないという問題に応答したものだった。
障害に関するものでは、歩行に障害のあるアーティストであるシャノン・フィネガンが、美術館で休める場所の少なさに対して「Do you want us here or not(私たちにここにいて欲しいのか、欲しくないのか)」という、実際に鑑賞者が座れるベンチの作品シリーズを制作し、好評を博してアメリカ各地で展示されている。また、わたしもトークで参加させて頂いた中谷優希の個展「ふわふわの毛をむしる」は、併設するカフェからコーヒーの香りが漂う開放的な展示空間にゴザやクッション、フィジェットが用意され、精神障害と発達障害のある作家自身が一番辛い時でも居心地良くいられる環境を意識してつくられていた。当事者/非当事者の区別なく同じ場にたたずむことのできる風通しの良い空間は、ケアの倫理でも言われる多孔性を体現しているようだった。
そのような従来の美術館の仕組みのなかではいづらい人たちのためのケアは、作家による作品の範疇であれば成立しやすいのだろう。しかし、「施設」あるいは「設備」として分けられた途端、費用などのリソース、あるいは運営の問題から却下されてしまうのがまだまだ現実かもしれない。一方で、それが作品として捉えられた途端に、ケアが作家性に回収されて終わってしまうことも懸念される。それは、あらゆる当事者が関わる作品やプログラムにおいても当てはまる。「コンテンツ」としてなら受け入れられるが、「インフラ」としてのリスクは回避される場合、その展覧会やプログラムが終われば、美術館はまた元の場所に戻ってしまう。例えば、こんなにアクセシビリティが盛んに言われるようになっても、美術館の企画や運営側に障害当事者が雇用されていないこともそれを表わしている。コロナ禍に行なわれていたリモートでの鑑賞プログラムやワークショップも、国内ではあっという間に少なくなってしまった。美術界に含まれてこなかった人たちを作品で扱ったり、展示したりすることは、多くのマジョリティにとって普段想像が及ばない人たちの存在を知ることにはなるだろう。しかしその鑑賞や議論は、美術館に足を運ぶことができる人たちのあいだで行なわれるものであるという非対称性を美術館は抱えたままである。情報保障や表象の問題とは別に、美術館から最も遠くにいる人たちに届けるために美術館という環境がどのように変わっていけるのかも、いま検討されるべき課題ではないだろうか。
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