キュレーターズノート
「知覚の扉」/「知覚の扉II」
能勢陽子(豊田市美術館)
2010年03月01日号
対象美術館
美術館での「知覚の扉」は、感覚に直接訴えかける刺激的で巨大な作品が多いのに対し、市内にある料亭跡地・喜楽亭での「知覚の扉II」のほうは、大正時代の古建築に呼応するような、ささやかで繊細な作品が多い。
美術館での「知覚の扉」は、感覚に直接訴えかける刺激的で巨大な作品が多いのに対し、市内にある料亭跡地・喜楽亭での「知覚の扉II」のほうは、大正時代の古建築に呼応するような、ささやかで繊細な作品が多く展示されている。
美術館の1室でも「Layer Drawing」のシリーズを展示している中西信洋は、喜楽亭の1室と廊下や階段下などのスペースに、「Layer Drawing」の行灯や回り灯籠を思わせる作品[図6]を設置した。また岩崎貴宏は、和室の中央に敷かれた布団に白い糸による塔を、枕に髪の毛でできた塔を立て、生活用品である布団を広大な風景に見立て、和室のスケール感を転倒させた[図7]。部屋の片隅のビワ台にも、吹けば飛びそうな埃でできた塔がこっそりと置かれている。荒神明香は、どこにでもありそうな部屋の照明の内部に、欄間の模様や破れた障子を補修する花型の紙もそのままに、その部屋そのものを再現した[図8]。それはなんということのない和室の照明の内部を、どこまでも収縮を繰り返す入れ子構造にして、どこかしらおかしみのある、それでいて宇宙的な広がりさえ感じさせる空間に仕立て上げている。小島久弥は、外部の光を取り込むピンホールカメラと映像により、1日の光の変化を、120分の1で再現している。床の間に置かれた島には、12分間の間に日が昇って朝を向かえ、また日が落ちて夜となるのである。また山極満博は、喜楽亭の一室の天井からつららを下げ、複数のバケツの上に小さな家を置くことでそこを雪山に見立て、また外の庭の川に小さな橋を渡し、灯篭の内部に小さなテントを張って、日常に極小の視点を持ち込むことで、その場のスケール感を詩的に、ユーモラスに転換させた[図9]。
また梅田哲也は、わずかな動きが響きや振動を伝え、それが他のものにも作用し、さらに繋がっていくような、宇宙の成り立ちの不思議を凝縮したような作品を、茶室の3間に展示した[図10]。この作品には「ぬ間」というタイトルが付けられているが、体言止め、否定、また断定でもある「ぬ」の不可思議な響きとともに、私たちはその空間の静と動の狭間で宙吊りになるような気にさせられる。その部屋の周囲には、美術館でピンクのフィルムを用いた和田が、今度は黄色のフィルムを使って空間を覆っている。黄色のフィルムは、その場を一日中夕暮れのような光で満たして、そこをどこかノスタルジックで異質な空間にしている。そしてそれは、それを取り囲んだ形になる梅田の作品とも、アンビヴァレンツな形で調和をみせているのである。銅金裕司は、装飾的なタイルが貼られた風呂場に、生きたランチュウを展示した[図11]。風呂場の天井には、左手の鏡に幾層にも映り込んだ金魚のアナログによる過去と現在が、そして右手にはカメラに録画された金魚の過去と現在が投影されている。アインシュタインによれば、「いま、ここに、過去、現在、未来さえ並行的に存在する」という。右側の壁には、水の波紋により分裂する金魚の像が浮かび上がるのだが、期せずしてここで量子化された金魚は、未来を示すことになる。人の手によりフナから急激に変化させられた金魚の過去と現在と未来。ここで、「いま金魚が首をもたげて水面に頭を出してひと息さえすれば、陸上化できる時刻がもうすぐ到来する、と思うのはぼくだけだろうか」という銅金の夢想が形になって現れてくるのである。
ほかにも、石田尚志は和室を囲む障子やガラス戸をスクリーンとして見立てて古建築の空間を浮かび上がらせ、名知聡子は失恋による恋やアルコール依存のため、いまにも美しく朽ちていきそうな自画像を床の間一杯に描き、そこを妖しい空間へと変えた。
今回、市内の歴史ある古建築を会場にするにあたり、地域おこしの展覧会やイベントにありがちな、場の歴史性との関わりから作品のプランを依頼することはしなかった。作家たちは、欄間や床の間にも細かな装飾が施された大正期の町屋建築の中で、その空間と対話し、その場と調和しつつ、それとは異質な独自の世界を、それぞれ作り上げてくれてくれた。