アート・アーカイブ探求
中村正義《舞妓》──反逆するプリミティブな日本画「大野俊治」
影山幸一
2011年11月15日号
未知の笑い
1963年9月ロンドンのキャセイ画廊で開催された個展「中村正義 MADE IN JAPAN展」のために《舞妓》は制作された。正義は淡い緑やかわいい色彩が、どうして好きなのか自問し、たいした理由のないことに気付き、それなら敢えて嫌いな色を使ってみようと、原色への挑戦を始めた。
現在開催中の正義の回顧展を企画した名古屋市美術館学芸員の山田諭氏は、《舞妓》が以前《女》というタイトルだった理由を次のように述べている。「《舞妓》と《ピエロ》のシリーズは、《男と女》のシリーズのバリエーションである。《女》を《舞妓》に、《男》を《ピエロ》に変換することで、化粧と衣装によって化けた者としての側面を強調している。色彩的には、比較的に無個性の原色の対比によって描かれていた《男と女》のシリーズに対して、海外での日本画の発表を意識して、日本の伝統的な色彩、とはいっても上流階級の渋好みの上品な色彩ではなく、お祭りの露店に並べられた安物のプラスチック玩具のような庶民に身近な色彩が意図的に選択されている。キッチュでポップな色彩に溢れた作品《舞妓》や《ピエロ》は、ポップ・アートの本場であるロンドンでも好評を博した」(図録『日本画壇の風雲児 中村正義 新たなる全貌』より)。
また、美術評論家の針生一郎によると、正義は美術評論家の藤森淳三らとヨーロッパ旅行へ行ったときにキャセイ画廊と契約し、個展が決まったようだ。作品30点を展示したこの展覧会を『アーツ・レヴュー』誌のオズウェル・ブレイクストンは次のように批評したという。「主題はたいてい、ポップ・アートと日本の伝統の交叉点にたつ、人形や魔物たちだ。ここには西洋起源よりはむしろ、こどもたちが龍やお化けをたのしみ、それらにおびえないならわしの、陽気な東洋の儀式である祭がある。生きものたちの頭部には歯車、色紙の山、星の眼がついており、顔の輪郭はしばしばおどろくべき仮面を思わせるように引裂かれているが、またうれしげな叫びや親しみをこめた弥次にみちた明確な輪郭もある……。全体の効果は途方もなく陽気で、さざめきが形式化されているので、日本や中国の通常の名作に遊戯的精神をみる訓練のない、西洋人の人びとにもその未知の笑いは理解されうるだろう」(図録『中村正義展』神奈川県立近代美術館より)。
舞妓という装置
「この《舞妓》は正義が手元に置いて、加筆、修正、進展させていった作品なのだ」と、「中村正義の美術館」館長で正義の長女である中村倫子氏は教えてくれた。《舞妓》の以前に制作された舞妓三部作と呼ばれている作品がある。通称赤い舞妓といわれる《女》(1957)、白い舞妓といわれる《舞妓》(1958)、黒い舞妓といわれる《舞子》(1959)の3点である(図参照)。ポップな黄色い《舞妓》を加えると、赤・白・黒・黄の美しくも醜くい舞妓四部作となるが、その共通点や差異はどこにあるのだろうか。黄色い《舞妓》とは真逆の舞妓三部作の特徴を見てみよう。
写実的に描かれた白い《舞妓》を中心に舞妓について大野氏は「この頃の正義は、日展の古い殻を打ち破ろうと試行錯誤を重ね、画面上でさまざまな実験を行なっていた。例えば《女》では、目の覚めるような朱色の長襦袢を纏った豊満な女を登場させ、《舞子》では、着物の前をはだけて裸体を晒(さら)した少女を描いた。現在の時代感覚では、それほど奇抜にみえない色彩や構図も、当時の日展ではタブーを犯した問題作であったのだ。正義はすでにこの年の日展に《舞子》を発表するつもりで、師匠の中村岳陵に下絵を見せた。しかし岳陵に、皇室が御覧になる展覧会に出品するのは、不謹慎であると咎(とが)められたという。一旦は《舞子》の制作を断念し、この《舞妓》を出品したのである。(…中略…)そこには、隠された部分にさりげなく贅を尽くすという伝統的でありながら、粋で洒脱な日本人特有の美学が横たわっている。この《舞妓》の因子は、その薄い膜を剥ぎ取り、鮮烈な色彩を露出した1962年の《舞妓》や《女人》の代わりに日本芸術院に納めようとした《妓女》など三頭身や四頭身のデフォルメされた人物像に受け継がれていく」と『豊橋市美術博物館研究紀要(第15号)』に記している。
正義が第13回日展に出品した《女》は、宗教的な聖性も漂わせた大胆なポーズや赤い色彩に、すでに反骨の兆しが認められ、新しい日本画を創造しようとする意志が反映されている。この作品を起点として、正義の反骨精神が表面化して行った。《女》も第1回新日展に出品した《舞妓》も、第2回新日展に出品した《舞子》も、すべて委嘱出品だった。霊的な存在の《舞妓》、白痴的なエロチシズムの漂う白眼の《舞子》。生活実感のないきれい事だけの日本画を否定して、社会の現実に立った日本画の在り方を追求して行った。古典的なモチーフである“舞妓”という装置を通して、正義の反逆芸術は続いた。