アート・アーカイブ探求
古賀春江《海》──空想のユートピアを超えるために「大谷省吾」
影山幸一
2012年02月15日号
シュルレアリスムとモダニズムの共存
今年東京国立近代美術館は60周年を迎える。2013年1月14日まで誕生日の来館者は無料で観覧できるほか、来月から本格的に始動する「60周年記念サイト」では今まで開催してきた展覧会のポスターをポスターアーカイブとして見ることができる。
「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」の開催を目前に控えた緊張感のある東京国立近代美術館の一室で話を伺うことができた。大谷氏は、シュルレアリスムを中心とした西洋の前衛美術が、昭和前期日本にどのように受容され展開したかという問題について研究しており、展覧会の図録や美術館ニュース『現代の眼』などに論考を発表している。
大谷氏は、子どものころから本と絵が好きだったが、特に美術にこだわってはいなかった。しかし今年18年目となる研究員生活を振り返ると、中学1年生のとき、地元の茨城県立県民文化センターで見た古賀春江の《窓外(そうがい)の化粧》(1930, 神奈川県立近代美術館蔵)の体験を思い出す。不思議な変わった絵柄で、画面が今よりニスで汚れており、暗い画面がレトロモダンな感じで印象深かったそうだ。また筑波大学へ進学した理由を「美術史が勉強できる、実技がない、決定的だったのは推薦入学があった」と笑った。大谷氏はサルバドール・ダリ(1904-1989)などの不思議な絵に関心があり、大学に入ってすぐ練馬区立美術館の靉光(あいみつ, 1907-1946)回顧展「靉光──青春の光と闇」(1988)で《眼のある風景》(1938, 東京国立近代美術館蔵)を見て「すごい絵を描く人がいるな」と感動、卒論は靉光を書いたと言う。「戦争の影が色濃い時代に、こんな絵を描いている人たちはどんなことを考えているのか」と、それ以来日本近代美術史を研究し続けている。
古賀の《海》の実物を大谷氏が初めて見たのは大学生時代だった。具体的に詳しく調べるようになったのは大学院に入り、シュルレアリスムの展開について修士論文を書いたときだと言う。《海》は「単純にかっこいい絵」と大谷氏は思ったが、調べれば調べるほど難しく、フランスでいう無意識の世界を探求する意味でのシュルレアリスムと、その正反対である合理主義を指す都会的モダニズムが共存していると読み解いた。
日本初のシュルレアリスム絵画
大正、昭和初期(1912〜1935)における美術運動は、「未来派」や「シュルレアリスム」「ロシア・アヴァンギャルド」「バウハウス」「ピュリスム」など、国内では古賀春江や神原泰(たい)、中川紀元(きげん)らが参加した「アクション」や、村山知義らの「マヴォ」、柳瀬正夢らの「三科」、岡本唐貴(とうき)らの「造形」、プロレタリア美術など活発だった。《海》は、揺れ動く時代をキャッチした作品ならではの複雑さを秘めている。「《海》は日本のシュルレアリスム絵画のスタート地点に置かざるをえない」と大谷氏は言う。
古賀春江は、1895年福岡県久留米市の善福寺の長男として生まれた。本名は亀雄(よしお)だったが、古賀が二十歳で僧籍に入ったとき「良昌(りょうしょう)」と改名した際、呼び名として「春江」とされた。これは、古賀が幼いころから神経質だったため、「春の海ひねもすのたりのたりかな」(与謝蕪村)という俳句で詠まれているような、大らかな性格になることを願って、父親から付けられたものである。太平洋画会研究所(1912)と日本水彩画会研究所(1913)とに所属し、1922年《埋葬》で二科賞を受賞。同年、美術団体「アクション」を共同で創立した。1929年の第16回二科展で発表した《海》は、阿部金剛、東郷青児、中川紀元らの作品とともに、日本における最初のシュルレアリスム絵画と評された。パウル・クレー(1879-1940)やフェルナン・レジェ(1881-1955)、マックス・エルンスト(1891-1976)、L・モホリ=ナギ(1895-1946)、フランスの詩人アンドレ・ブルトン(1896-1966)の「シュルレアリスム宣言」に影響を受け、多彩な作品を制作しているが一体には詩情と幻想性が流れている。前衛詩人竹中久七や作家川端康成と親交があり、詩でデッサンをしていたといわれるほど、古賀にとって詩と絵画は密接不可分であった。1933年梅毒による進行麻痺で、38歳で早世した。
分裂
古賀について大谷氏は、「古賀は本質的には引きこもりタイプの人。《海》は古賀にとっては例外的に外向きに制作されている。古賀作品のなかからこの絵だけを切り取ると、この時代の象徴でポジティブで、まさにモダンボーイ・モダンガールの時代のシンボルみたいだが、本人は相当無理して描いていると思う。そこを取り違えてしまうと、古賀春江という人が見えてこなくなる。《海》をよく見ると、画面の上は明るいが下は引きこもっていく様子が感じられる。また、当時の画壇の動きはプロレタリア美術が盛んになっており、一方で芸術至上主義の活動があった。芸術家たるもの美を追求しないでどうすると正反対に分かれたなかで、古賀自身も相当引き裂かれていった。もともと引きこもりながら自分にとっての美を追求していた古賀が、友達付き合いとか、社会のなかで、“社会についてやらなければ駄目かな”と思いながら無理して描いたのが《海》。これがこの時代を象徴するイメージになったのは皮肉といえば皮肉。でもそれだけのものをつくり上げてしまったわけで、分裂しているからこそ面白い。そういう分裂がまさに古賀春江の難しいところであり、魅力でもある」。