アート・アーカイブ探求
酒井抱一《夏秋草図屏風》江戸の風趣──「岡野智子」
影山幸一
2012年08月15日号
植物のいちばん美しい姿
岡野氏は子どもの頃から美術に関わることを職業にしたかったそうだ。絵を描くのが好きだったが、プロを目指すほどの実力はなく、高校生のときからよく山種美術館などに行っていたことから、美術館で仕事する分野があるのを発見したと言う。一方でガーデニングが好きで、植物、生物の自然な営みにも興味を持っていた。そして意外なことにロック少女でもあった。「クイーンのフレディ・マーキュリーの追っかけだった」と言う。フレディの美へのこだわり、日本美術が好きだったことに共感しており、ロンドンオリンピックの開会式や閉会式にクイーンが登場したときには涙々だったと言う。
東京・世田谷に生まれた岡野氏は、美術史家の泰斗、故秋山光和(てるかず)氏の自宅が近所だったこともあり、美術史に関心を抱くようになった。1981年学習院大学文学部哲学科へ入学し、日本美術史を専攻。大学2年のときに山種美術館で見た抱一の《秋草鶉図屏風》に一目惚れし、同じ年の夏、東京国立博物館の東洋館地下で《夏秋草図屏風》に出会い、強く惹かれた。それが《秋草鶉図屏風》と同じ作家だとは思わなかった。のちに抱一とわかり、《鳥獣人物戯画》か青木繁を研究する予定だった卒業論文のテーマを変更し、抱一に決めた。その年に近世絵画、特に浮世絵や江戸琳派研究の第一人者、小林忠氏が同大学に教授に赴任し、小林氏の熱い指導のもと、研究者の道に進むこととなる。1989年同大学大学院の博士課程を中途退学し、東京都江戸東京博物館の開設準備室学芸員として就職、1995年より細見美術館の学芸業務を支えている。
《夏秋草図屏風》を見た第一印象を「一つひとつの植物のいちばん美しい姿をこれほど的確にとらえている作品はない。作品からは夏の夕暮れの空気とサワサワとした秋口の野分けの風、ひんやりとした大気みたいものを感じた」と岡野氏は述べた。岡野氏は雑誌『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』や生誕250年記念展図録『酒井抱一と江戸琳派の全貌』などに《夏秋草図屏風》の解説を平明な文章で書いている。
江戸琳派の祖
酒井抱一は、1761(宝暦11)年江戸神田小川町に生まれた。姫路城主酒井忠恭(ただずみ)の長男である忠仰(ただもち)の次男で、幼名を善次、のちに栄八。実名は忠因(ただなお)。兄の忠以(ただざね)は十六代当主として、茶人宗雅(そうが)としても知られている風流人。抱一は兄の影響のもと、能、茶、俳諧、狂歌などを嗜み、俳文日記『軽挙館句藻(けいきょかんくそう)』(10冊, 静嘉堂文庫蔵)を記しながら、遊里吉原での遊びにも長けていた多芸多才な人だった。
抱一数え年25歳時とわかる歌川豊春風の浮世絵《松風村雨図》が残っているが、絵は狩野派、南蘋(なんぴん)派、円山派など広く学び、浮世絵から仏画までと画域は広い。1797(寛政9)年、37歳に出家して、号を抱一と称した前後から、かつて酒井家が支援していたこともある尾形光琳を知り、その画風に私淑する。光琳画継承だけでなく、1815(文化12)年の光琳百回忌には遺墨展を開催し、のちに『光琳百図』を刊行するなど、光琳顕彰にも努めた。
抱一は酒井家の上屋敷を出た以降、数回の転居の後、最終的に閑静な地であった根岸の「雨華庵(うげあん)」に身請けした遊女である小鸞(しょうらん)女史と落ち着き、聖と俗の世界を自由に行き来し、機知に富んだ粋な江戸の絵を生み出していった。自然環境を鋭敏に観察した詩情性を特徴とする“江戸琳派の祖”と呼ばれ、鈴木蠣潭(れいたん)や鈴木其一、池田孤邨(こそん)などの弟子を養成した。1828(文政11)年、68歳で没。東京・築地本願寺に眠る。
【夏秋草図屏風の見方】
(1)モチーフ
草花。右隻には、穂の出る前の青薄(あおすすき)、昼顔、白百合、節黒仙翁(ふしぐろせんのう)、女郎花(おみなえし)、水流。左隻には、穂をつけた花薄、葛(くず)、藤袴、野葡萄。
(2)題名
夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)。
(3)構図
右隻に夏草、左隻に秋草。各隻の草花は対角線に沿うようにV字型に伸びている。屏風の表に当初描かれていた尾形光琳の《風神雷神図屏風》の金に対し、その裏側として「銀」、天の神に対し「地の草」、風神に対し「風になびく秋草」、雷神に対し「雷雨に打たれる夏草」を呼応するように描いた(図参照)。この両作品は1974年に損傷から守るため、屏風の表裏を分離してそれぞれの一双屏風に改められた。
(4)色彩
死の予感を伴う月光のような静粛な輝きの銀色。右隻に見える薄の葉の緑や百合の花の白、水流の青、左隻の野葡萄の紅葉や実の青が鮮烈。色の濃淡を避け、面的で明快な色彩効果をねらっている。女郎花は黄色の上から緑を点で描き、咲き初めであることを示す。
(5)描法
写実、装飾、抽象の調和を考慮している。晩夏から初秋の限られた短い時間に草花を観察し、平安時代以来の秋草図の伝統を引く細く長い曲線で表わす葉や蔓を、琳派の色面と叙情味ある線で優美に表わした。
(6)サイズ
右隻、左隻ともに縦164.5×横181.8cm。
(7)制作年
1821(文政4)年頃。1991年この絵の下絵が発見され、付随していた書付により十一代将軍家斉(いえなり)の実父、一橋治濟(はるさだ)の注文により1821年頃に描いたことがほぼ確実となった。
(8)画材
紙本銀地著色。将軍家の注文のため上質の画材が用いられた。
(9)音
風の吹く音が聞こえる。
(10)落款
右隻・左隻ともに署名「抱一筆」、印章「文詮(もんせん)」(朱文円印)が控えめに入っているが、その位置が一般的ではないとの見方がある。
(11)鑑賞のポイント
線描の美しさが発揮されている。繊細な筆触によるリズミカルな曲線が特徴で、連続した弧を描く草の背後には清潔な白百合が透けて見える。美しいものは奥に配置する江戸好み。無駄な線がないということは、無駄な余白がないということ。鮮明な色彩と明確な形のみで表わされた装飾的な左隻の葛の葉と、写実的な右隻の昼顔などの花、また雨や風を示唆する描写が工夫され重なり合っている。渋いいぶし銀地に鮮やかな青、緑、朱、黄、白をセンスよく画面に配し、夕立に翻弄される夏草と強風になびく秋草を二つに分けて自然の風物詩を空間的に表現。制作の動機は、一橋治濟の従一位昇進への祝いか、将軍家斉の息女喜代姫と酒井忠実(ただみつ)の子、忠学(ただのり)との婚約祝いか定かではないが、政治色の強い制作背景もあったようだ。《風神雷神図屏風》の所有者や、屏風の裏に夏秋草という画題を発案した者についてはわかっていない。俵屋宗達の《風神雷神図屏風》を光琳が模写して制作した《風神雷神図屏風》。その裏面に光琳へ捧げるオマージュとして抱一はこの《夏秋草図屏風》を描いた。琳派の系譜を象徴的に表わす屏風絵である。重要文化財。61歳を迎えた抱一畢生の大作。