アート・アーカイブ探求

狩野芳崖《悲母観音》──近代日本画の意志「古田 亮」

影山幸一

2012年10月15日号

展覧会の可能性

 1964年東京都生まれの古田氏は、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業後、同大学大学院の美術研究科日本東洋美術史博士後期課程へ進み、1993年東京国立博物館美術課絵画室研究員となった。展覧会の手法を理解し、やりたいことが見えてきたという1998年、東京国立近代美術館へ転職、そして2006年から東京藝術大学大学美術館に勤務している。「琳派 RIMPA展」や「揺らぐ近代展」など、作品の新しい見方を提示する斬新な展覧会を企画してきた。
 日本最大の博物館から徐々に小さな美術館へと異動したのは、博物館と美術館との架け橋になれればとの思いもあったそうだ。何よりも古田氏は展覧会で何ができるのかという展覧会の可能性に関心がある。
 子どもの頃は普通に絵が好きで小学生の頃には漫画家になるつもりでいたが、画家になろうとは思わなかった。「直接絵を描く実技の方向ではなく、文章で美術との関わりを持つ美術史なのか理論なのかを学ぼうと思い、そうすると東大、藝大、早稲田ということになり、たまたま藝大に入った。常に客観視しており、作品がいかに歴史化されるのか、ということに興味があって、美術史になった。日本美術史にいったのは西洋美術に対するセンスと語学的な能力がないから」と笑った。

スケッチとは何か

 古田氏の卒業論文は岡倉天心であった。芳崖研究の出発点は古田氏が大学院生のとき藝大内に保存されている芳崖の“スケッチブック”との出会いである。「日本画は特にそうだが、完成作と同様に下図やスケッチブックのようなものには、ものすごく情報がある。それに気付いて、芳崖を取り上げたいと思い、丁度それを修士論文としてまとめることになった。つまり完成作以前の“スケッチというものの美術史的な位置付け”をまとめたいと思った。藝大には狩野芳崖や高橋由一のスケッチブックもあり、研究材料が揃っている。狩野派に受け継がれているスケッチとはどういうものか。視覚、物の見え方が変わってくるのが近代。目から変わっていくことについて、完成作よりもじかに風景を写す行為のなかに感じ取ることができると思った」と述べた。

美術愛好家フェノロサ

 狩野芳崖は、現在の山口県下関市長府に狩野晴皐(せいこう)の四子として1828(文政11)年に生まれた。代々御用絵師の家柄であったことから、長府藩の援助を受けて「皐隣(こうりん)」を名乗り、文化都市であった江戸の木挽町狩野家、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)へ1846(弘化3)年4月18日入門した。同日、橋本雅邦も入門。しかし晴川院が1カ月後に亡くなったため、その息子である狩野勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ)を師事することになった。
 1850(嘉永3)年には画塾の塾頭となり、その2年後に御用絵師として独立。儒学・兵学者の佐久間象山(1811-1864)と出会い世界観を広めていくのもこの頃である。芳崖という号の初出は、1864(元治元)年制作の絵馬が知られる。芳崖は長府狩野家の菩提寺である覚苑寺の住職霖龍如澤(りんりゅうじょたく, 1805-1883)から「禅の極致は法に入りて法の外に出ることだ」と教えられ、師匠勝川院雅信より一字拝領したそれまでの「勝海(しょうかい)」の号から脱皮する。1867年明治維新で元号が明治になると、徳川藩閥政治への批判が狩野派の画家たちにもおよび芳崖の生活は困窮していった。
 そして東京大学の哲学講師として1878(明治11)年に来日したアメリカ人青年アーネスト・F・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)が、1882(明治15)年、第一回内国絵画共進会で芳崖の作品を見て激賞。芳崖は浜町狩野家当主の狩野友信(1843-1912)の紹介で美術愛好家でもあったフェノロサ宅を初めて訪問する。友人の蒐集家フリーアに宛てたフェノロサの手紙には芳崖への思い入れが綴られていた。

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