アート・アーカイブ探求

狩野芳崖《悲母観音》──近代日本画の意志「古田 亮」

影山幸一

2012年10月15日号

個人的だが普遍的

 芳崖が常日頃「観音様」と呼んでいた妻よしが1887(明治20)年7月53歳で亡くなった年の春頃、平癒を祈願して《悲母観音》の制作に取りかかっていたと古田氏はみている。画家としての最後の仕事という自覚に、さまざまな思いを込めたいということから発して、個人的なものだが普遍的なものとしたい、という思いがあった。
 個人的なものとは、狩野派の伝統、西洋画の技法、そしてフェノロサの理論や妻のことなど。また母と子に焦点をあてて、これらをすべて昇華させて、見た人が感じられるように工夫した。結果として芳崖の目的はすべて“日本画はどうあるべきか”に作画意欲や目的意識があるように見える、と古田氏は述べている。
 愛や母の慈しみなど、抽象的な意味をいかに描くか、というところから構想をしたと考えるか、あるいは観音と子どもという今までになくはなかった観音像のひとつのパターンを、時代にふさわしい意味をもった観音像に変えようとしたところテーマとマッチしたか。おそらく後者だろうと古田氏は言う。初孫新治の誕生を祝った芳崖が、母性が発する人類愛を主題として、妊娠と出産という生のはじまりを絵画化した。「一人の画家として彼に見えていた『理想の母』は妻よし以外にはあり得なかった。私は、そこにこそ近代画家としての芳崖の身近な存在感と《悲母観音》の近代絵画としての立ち居地を思わずにはいられない」(古田亮『狩野芳崖・高橋由一』p.284より)。

近代と鉛筆の目

 近代とはいつ頃を指すのだろう。「もっとも曖昧だ。一般的には明治維新から1945(昭和20)年あたりが近代の範囲。明確に見えるが、近代は時代区分には馴染まない概念でもある。むしろ近代的なものというのが、日本においてとても大きなテーマ。少なくとも明治と元号が変わったあたりから近代というのは無理がある。ペリー来航、開港というような、西洋インパクトがあった時点から考えておくべきだと思う」。つかみどころのない近代であるが、取っ掛かりをつくり近代の違和感の解消を始める内に謎解きゲームをしている感覚になった。近くて見失いそうになる近代、《悲母観音》ではその魅力に少しふれた感じがした。
 近代の見え方とは、どのようなことなか。古田氏は、実物そのものをとらえる目と言う。実際の目がとらえている視覚。つまり自然な遠近法や陰影法。そのままの風景を描くということは狩野派にはなかった。逆に何かを見るときにはすでに知っている絵のように物を見ることもありうる。特に芳崖の場合は、スケッチで“鉛筆”を使っている。日本画家が鉛筆でスケッチすることはどうなんだろう。それが研究テーマになった。どうやらフェノロサの影響が大きく、鉛筆を使い出したようだ。鉛筆を手に入れたことで物の見え方が変わってくることはないだろうか。筆を持っていたならばこのようには描かなかったに違いない。それまで画家が鍛えてきた絵の手法を、筆から鉛筆に置き換えたときに、ある意味で物の見え方が変わってきていると思う。芳崖の手が鉛筆を握ったことから日本画の近代化が始まったとも言える。

日本画の誕生

 明治維新に入り、西洋文化の流入による刺激で誕生した「洋画」との対置概念として生まれた「日本画」は、明治二十年代に日本の伝統的な諸流派の絵画を総括する概念用語としてつくられた。「フェノロサによれば、「線〔圖線〕」「明暗〔濃淡〕」「色彩」「主題〔旨趣〕」の四要素と「美〔佳麗〕」「統一〔湊合〕」とを組み合わせて、繪が備えるべき八格が構成されるとする。これに「構想〔意匠〕力」と「技術力」を加えた十格を舉げて、これらの諸特質をすべて達成すれば理想的な日本畫が生まれると説くのである。フェノロサの言いたいことは、繪畫とは、主題と形式(線と明暗と色彩)との理想によって成り立つている、というものである」(古田 亮『國華』第1370号, p.22より)。
 「近代日本畫は、狩野派や圓山派をはじめとした傳統畫派の表現に寫實的な要素を加えたことにはじまつた。そして、フェノロサの理論から引き繼がれ、東京美術學校、日本繪畫協會(いわゆる新派)の畫家たちが實際に行つた表現の改良とは次のようなものである。まず、線については現實的でない強く太い線の制御。色彩については色數の獲得とグラデーション表現。そして陰影法や遠近法を取り入れた三次元表現。構圖においては、遠心的なあるいは多視點的なものから、一點透視法的な求心性のある表現。などである。これらによつて、西洋畫が前提としている客觀的な事物空閒表現、すなわち寫實的表現を日本畫で實現しようとしたのである」(古田亮『國華』第1,370号, p.27より)と、近代日本画の表現的な特徴がわかる。
 《悲母観音》は何か残したかったものである。たまたま好きで描きましたというのではなく、将来への遺産として自分ができる技術や内容的なもの、日本画として描き残したかった意志のある作品。《悲母観音》を作品に取り込む画家たちは昔も今も多く、日本を象徴する絵画としての意味を持ち始めている。

  • 狩野芳崖《悲母観音》──近代日本画の意志「古田 亮」