アート・アーカイブ探求

谷 文晁《富士山図屏風》折衷様式の“写意”──「上野憲示」

影山幸一

2012年12月15日号

《鳥獣戯画》が原点

 JR宇都宮駅から3kmほどの上野記念館は、栃木県庁の近くに位置し、郷土ゆかりの作家や歴史資料を中心に江戸時代後期の美術作品を所蔵、文星芸術大学を含む学校法人宇都宮学園の教職員や学生の教育研修のほか、一般にも公開されている博物館相当の記念館で、1976年の開設当初より上野氏が館長を務めている。
 上野氏は、1948年大阪府尼崎市に生まれたが3歳から東京に暮らし、小学生の頃は水彩画を描いて賞をもらい、将来は絵描きになりたいという気持ちもあったそうだ。しかし親から発破を掛けられ、東京大学へ入学。夢は漫画へと移り、東大漫画クラブの二代目部長となる。政治漫画や学習漫画、医学関係の挿絵など、一コマや四コマ漫画を描きながら漫画評論も書いていたという。ところが《源氏物語絵巻》の研究で著名な恩師の秋山光和(てるかず)先生から、漫画評論はあとからできるので、研究論文をしっかりと書きなさいと言われ、そこで漫画の原点といわれる京都高山寺に伝わる《鳥獣戯画》から美術史の研究へ入って行った。1972年文学部美術史学科卒業後、栃木県立美術館に学芸員として就職し、美術館の開館記念展の準備に携わった。1983年に退職後、父親が理事長を務めている宇都宮学園に入り学校経営に参加。1989年に宇都宮文星短期大学を、そして1999年に文星芸術大学を開校した。専門は日本美術史、特にやまと絵、文晁・崋山・椿山らの江戸の南画と近代の日本画家たちを研究している。
 谷文晁との出会いは、県立美術館の開館記念展のときに展示した文晁作品が最初である。空間表現が抜群に上手いと思った。西洋画と同じく前にあるものを画面の前に、遠くにある島や山などは後ろに引いて見えるように描いており心に残った。

江戸画壇の総帥

 谷文晁は、1763年田安徳川家の家臣で詩人の谷麓谷(ろこく)の長男として江戸下谷根岸に生まれた。12歳で狩野派の加藤文麗(ぶんれい)について画業を習い、18歳のとき長崎からの新知識を持って江戸に来た渡辺玄対(げんたい)に中国の浙派と呉派を折衷した南北合法を学んだ。さらに馬道良(まどうりょう)とその息子の馬孟煕(まもうき。日本名:北山寒巌〔かんがん〕)にも北宗画など教えを乞い、北宗画に南宗画を調和させて独自の江戸南画様式を確立していった。何人もの師に付いたが最初の文麗の一字を取り「文晁」と名乗った。通称は文五郎、号を写山楼(しゃざんろう)、画学斎、無二、一恕(いちじょ)など多数。狩野派や土佐派の名画や、中国宋元明清の諸家の法、洋画の法など各種の手法を学び、現実を的確に把握する画力をつけて山水画、花鳥画、人物画、仏画など画域を広めて“八宗兼学”と言われるほど、当時のほぼすべての画法を学んだ。
 幕府老中松平定信(1758〜1829)の御側付を務めていた文晁は、沿岸防備の地勢調査のために相模・伊豆を定信と共に巡視し、絵図面取りを行ない《公余(こうよ)探勝図》をまとめた。西洋的リアリズムを取り込んだ科学的な実景写生、いわゆる真景図★1だ。また文晁は全国の文化財を10種類に分類し、模写した図譜『集古十種』の編纂を行なった。
 そして特別に許され、富士山の眺望がよい下谷に二階建てで二十畳大の画塾「写山楼」を開く。写山の“山”は富士山を表わし、文晁にとって思い入れのある特別な山だった。そこから、立原杏所(たちはらきょうしょ)、渡辺崋山、高久靄厓(たかくあいがい)、椿椿山(つばきちんざん)らの門弟が育ち、文晁は江戸画壇の総帥というべき存在となった。

★1──主に江戸時代の南画などで特定の場所を写生を用いて描いた図。

「寛政文晁」「烏文晁」

 文晁の作品は、二つの時代に大別できると洋画家の萬鉄五郎が提唱した。27歳から38歳の寛政年間(1789〜1801)に制作された作品は、南宗画と北宗画を折衷させ、瑞々しい色彩を特色として評価が高く「寛政文晁(かんせいぶんじょう)」と呼ばれる。これに対し落款の「文」のはらいが烏の形に似てくる文化年間の後半以降(1811〜1840)の作品は「烏文晁(からすぶんちょう)」として区別される。「烏文晁」の時期は濫作期(らんさくき)とも言われるが、豪快な墨絵の優品も多いと、上野氏は語る。
 「ながき世を化けおほせたる古狸 尾さきな見せそ山の端の月」と、文晁はとぼけた辞世の句を詠む。狩野探幽を尊敬してきた文晁だったが、自身は「絵描きとして大したことはない」という実感があったのかもしれないと上野氏。酒井抱一、木村蒹葭堂、柴野栗山(りつざん)、亀田鵬斎(ぼうさい)、市河米庵(べいあん)などの学者や文人たちとの幅広い交友があったが、法眼となった3年後の1840(天保11)年12月14日、78歳で没した。江戸粋人の代表的な人物であった。

【富士山図屏風の見方】

(1)モチーフ

富士山。

(2)タイトル

富士山図屏風(ふじさんずびょうぶ)。富士山を富岳や富嶽と表わす場合もある。

(3)制作年

1835(天保6)年。文晁73歳の作。狩野探幽の《百富士》や葛飾北斎の《富嶽三十六景》、歌川広重の《東海道五十三次》など、江戸の富士山ブームピーク時に制作された作品。

(4)画材

紙本墨画。

(5)サイズ

163.1×363.2cm。総丈170 cm前後の本間屏風より少し背が高い。数ある文晁の富士山図だが屏風に描かれた作品は少ないという。

(6)構図

近景、中景、遠景へ、下から上へと積み上げて遠近感を出している。

(7)色彩

白、黒、青。

(8)描法

南画とやまと絵技法の組合わせ。余白を大事にし、筆数を減らし形象を略して表現。

(9)落款

「文晁筆」の署名、「天保乙未文晁畫印」と「畫學斎印」の印章。「文晁」のサイン文字が曲がっているのは、文晁の手に支障が出ていたのかもしれない。

(10)鑑賞のポイント

手前の小山と奥の富士山、その間を雲烟(うんえん)がつなぐ、ゆったりとした空間表現である。文晁は雲烟が得意で、烏文晁時代の雲烟の特徴は鷹揚(おうよう)さが見られる点である。東洋人のフィルターを通した西洋的透視図法。富士の左辺はゆっくりとなよやかな細い線、右辺はぐいと雄渾な太い線、稜線付近に一部群青(ぐんじょう)を加え、画面にアクセントを付けている。胡粉(ごふん)を薄く膠(にかわ)で溶いて紙全体に塗布した具引き紙を用いており、下地の白色と墨の濃淡のバランス、コントラストが近代的だ。余白を有効に使い雲烟から立ち上がる壮麗な富士の威容を堂々と描いている。文晁の富士山図のなかでも、心象を表現した代表作。

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