アート・アーカイブ探求

上村松園《春芳》──光明の香り「山崎妙子」

影山幸一

2013年04月15日号

絵描きの心がわかる館長に

 山種美術館は、1966(昭和41)年日本初の日本画専門美術館として東京・日本橋兜町に開館した。山崎氏の祖父で相場の神様と言われた山種証券(現・SMBCフレンド証券)の創業者、山崎種二氏(1893-1983)が個人で収集した竹内栖鳳(せいほう、1864-1942)や奥村土牛(とぎゅう 1889-1990)などの作品を核として設立された美術館である。種二氏は、日本画家・横山大観の「世の中のためになることをやったらどうか」という言葉をきっかけに、美術による社会貢献を理念に美術館を設立したという。山崎氏の父、山崎富治氏が二代目館長を引き継ぎ、速水御舟(ぎょしゅう 1894-1935)や東山魁夷(かいい 1908-1999)らの作品をコレクションに加え、より一層の充実を図った。
 美術館を創立した祖父を持ちながらも、山崎氏が美術館長となるのは決して平坦な道のりではなかった。「絵を見ることより、絵を描くことが好きだったので子どもの頃は画家になりたいと思っていた」と山崎氏は言う。ところが成長するにつれテニスに熱中し画家への夢は薄れた。交通事故を体験し、人の命を救う職業に感銘を受け、一時は医師を志したが、実業家の父親の影響もあって、次第に国際金融へ関心が移っていき、父の経営する証券会社か銀行で働くつもりだった、と言う。だが1984年慶應義塾大学経済学部を卒業前、子どもの頃の記憶が溢れ出してきて、好きだった日本画を勉強し直し、美術館を受け継ぐことを決意した。しかし、館長の父からは「修士号くらい持っていなくては美術館には入れない」と言われたという。1986年、東京藝術大学大学院へ二浪して入学、現代美術家の村上隆とは同期であった。当時学長だった故平山郁夫氏から日本画の指導も受け、「絵描きの心がわかる美術館長になってほしい」と言われたことが今も励みになっているそうだ。
 1991年山崎氏は大学院を修了後、山種美術館特別研究員となり、2007年より三代目館長を務めている。より多くの人に日本画を知ってもらうため、“上質のおもてなし”をコンセプトに2009年現在の渋谷区広尾に美術館を新築、移転した。日本画1,800点余を所蔵している。松園作品はそのなかでも人気の高い作品であり、松園の作品が好きだった祖母の意向を受けて祖父が収集したものであるという。一歳の頃から床の間に掛けられていた名作を、祖父のひざの上で眺めて育ったという山崎氏。松園の作品もそれと知らぬうちから見ていた。

三人の師

 上村松園は、1875(明治8)年京都市四条の葉茶屋「ちきり屋」に父上村太兵衛(たへえ)、母仲子(なかこ)の次女として誕生した。本名は津禰(つね)。父は松園が生まれる2カ月前に亡くなり、母ひとりの手で育てられた。母は、松園の画才を早くから見抜き、親類の反対を押し切って1887年小学校を卒業後、京都府画学校へ入学させた。当時、女性でありながら、絵描きを職業とした生き方は異例であったろう。
 画学校では、狩野派の画技を教える鈴木松年(しょうねん 1848-1918)に師事した。しかし南北折衷的画風で豪快な松年は、画学校の方針に反対して辞職してしまう。まもなく松園も退学して松年塾へ入門し、松年の松の一字と、松園の母の店で取引きしていた茶園に因み、雅号「松園」を授かった。1890年第三回内国勧業博覧会に《四季美人図》を出品し、一等褒状となりこの作品は英国皇子コンノート殿下に買い上げられた。このとき松園は15歳。人物画を志向していた松園は、1893年松年の許しを得て松年の画壇でのライバルであった、円山・四条派の流れを汲み厳格で教育熱心な幸野楳嶺(こうのばいれい 1844-1895)に師事する。しかし2年後に楳嶺は他界。その後は楳嶺門下であった厳しくも大らかな性格の竹内栖鳳に師事したが、三人の師はみな松園の目指した美人画家ではなかった。松園は「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」を目指し、ひとり美人画の道を開拓しなければならなかった。

真・善・美の極致

 1900年の第九回日本絵画協会・第四回日本美術院連合絵画共進会には《花ざかり》(現存せず)を出品し銀牌を受賞する。そのとき、かつての師であった松年が母同様に喜んだという。1902年、長男信太郎(のちの画家・上村松篁[しょうこう])が誕生し、松園の母は家業を閉じて家事と子育てに専念し、未婚の母松園を助けた。
 松園は、古画から着物や髪型などを縮図帖(スケッチ帳)に写し、漢文や漢詩を学びながら、男性に混じって研究を深めていった。松園が大切にしていた縮図帖には、東洋の名画が写され、人物画はもとより山水、花鳥に至るまで丹念にしかも迫真に模写していたという。縮図帖への写しは、古画の手法とその精神を会得する松園の勉強法でもあった。そして江戸時代の徳川風俗、謡曲もの、母を通した明治初年の追憶作と、失われていく美を主題に応じて描き、文展で受賞を重ねるなど、各種展覧会や画壇で着実に認められていった。しかし、その当時の美術界には、江戸時代の池大雅の妻、池玉瀾(いけのぎょくらん 1727-1784)や明治初年に特異な南画を描いた奥原晴湖(せいこ 1837-1913)、野口小蘋(しょうひん 1847-1917)を除いては、名を残している女流画家は少なく、松園は女性蔑視に悩んだこともあったと書き残している。
 近代的な日本画を模索する明治30(1897)年頃になると、日本的な美を象徴する主題として和装の美女が着目されていくようになる。1934(昭和9)年松園を支えた母仲子が亡くなる。「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれた」という母であった。
 「単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重じながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描き出したい」と松園は語り、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」を目指した。美人画ひと筋、不屈の精神で自らの意志に従って生きた松園は、帝国芸術院会員、帝室技芸員となり、1948(昭和23)年には女性として初めて文化勲章を受章する。1949(昭和24)年、松篁が使っていた奈良の平城にある画室「唳禽荘(れいきんそう)」で74歳の生涯を閉じた。松篁の息子の上村淳之(あつし)も日本画家となり、現在松伯美術館の館長を務めている。親子三代で活躍している日本画家は非常に珍しい。

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