アート・アーカイブ探求
渡辺崋山《鷹見泉石像》和洋調和にみる気魄──「日比野秀男」
影山幸一
2013年06月15日号
勧善懲悪の笑顔
日比野氏は1947年5人兄弟の末っ子として、教育熱心な両親のもと静岡県島田市に生まれた。子どもの頃は化石や地質に関心を持ち、高校1年からは勉強をするため東京に暮らしたという。1973年慶應義塾大学大学院文学研究科を修了後、静岡県教育委員会に就職し、1986年静岡県立美術館主任学芸員、1990年以降は常葉学園の教授を務め、本年より常葉大学特任教授に着任している。
日比野氏の恩師は、慶應義塾大学教授を務めていた菅沼貞三氏であり、40年近く渡辺崋山の研究を行ない、崋山作品の真偽を厳しく発言してきた崋山研究の第一人者である。日比野氏とは同郷の静岡県出身であった。日比野氏は大学生時代に《鷹見泉石像》を見たが、そのときは表具も古く、ピンとくるものはなかったという。ところが、しばらくして鷹見泉石に酷似している素描《笑顔(しょうがん)武士像稿》(個人蔵)に出会い、款記に書いてあった制作年月日に目が留まった。《鷹見泉石像》の天保8年4月15日に対し、《笑顔武士像稿》はその前日の4月14日となっていた。泉石が残していた『鷹見泉石日記』には、肖像画のスケッチのために崋山が長年鷹見家を訪れている様子は記されているが、肖像画が完成したという記述はないのだという。
日比野氏は、「《笑顔武士像稿》を、国宝《鷹見泉石像》の画稿(スケッチ)であると考え、〔笑顔の鷹見泉石像稿〕と名づけた。たとえ《笑顔武士像稿》と《鷹見泉石像》の両者は別人であっても、両図の制作日が一日違いということに強く関心をもった。肖像画の素描(《笑顔武士像稿》)と正本(《鷹見泉石像》)を相前後して、あるいは並行して制作していたことが興味深い。正本では正装し、顔の皺も取れ、理想的人間像として描かれている。一方、笑顔の素描は皺がリアルに描かれ、どちらかと言えば醜貌(しゅうぼう)ですらある。善事をすすめ、悪事をこらしめる“勧善懲悪(かんぜんちょうあく)”で善悪の対比概念をもっていたという崋山は、肖像画を描くに際しても理想的な人物像を描くことに心を砕いていたように思う。滝沢馬琴の息子が亡くなり、死に顔を見て肖像画を描いたりと、崋山の肖像画には笑顔や死に顔の画稿もあり、いままでとは異なる別の視点から崋山を評価しなおす必要があるだろう」と述べた。笑っている顔は人間味があり、200年前の丁髷頭の泉石がいきいきと生動して感じられてくる。
対看写照と写実
渡辺崋山は、1793(寛政5)年江戸麹町半蔵門外の田原藩上屋敷内長屋に、父定通、母栄の長男として生まれた。三河(愛知県)田原藩三宅家の藩士で、幼名を源之助から虎之助に変え、8歳で若君のお伽(とぎ)役となり、後に藩主より登(のぼり)の名を賜わる。11人家族の渡辺家は貧しく、幼い弟や妹たちを奉公に出さなければならず、崋山も絵を描く内職をしながらも儒学者である鷹見星皐(せいこう)に付いて学んだ。もともと絵が好きな崋山は平山文鏡(ぶんきょう)、白川芝山(しざん)、金子金陵(きんりょう)らに絵を習い、関東画壇の巨匠・谷文晁の門下となった。人物を目の前に直接写生する対看写照(たいかんしゃしょう)や、西洋画の遠近法と陰影法を採り入れた鋭い写実力による肖像画によって、崋山は26歳頃には画家として有名になった。花鳥画や風景画もあるが、優れた画稿と肖像画が多い。
日本の肖像画の歴史を振り返ると、『万葉集』(755年〔天平勝宝7〕)には妻の肖像画を得て別離の悲しみを慰める歌もあるようだ。また鎌倉時代の似絵(にせえ)や禅僧の肖像である頂相(ちんぞう)など、《鷹見泉石像》の源流は思いのほか古い。
崋山の本業は藩士で、最後には家老となり藩政を支えた人物で、一般的に画家というより、見習うべき孝行の模範として戦前の学校の教科書に登場するなど、忠孝精神の体現者として高潔な人物として名を知る人が多い。戦前の軍国主義、あるいは天皇制のもとでの国粋主義の思想統一にも利用されたこともあり、謹厳で写実的な肖像画は、つくり上げられた崋山像と軌を一にするものととらえられたのかもしれない、と日比野氏は語った。
妖怪の「蛮社の獄」
江戸時代の武士は中国文化の吸収が当然であったが、崋山は32歳頃から外国事情に関心をもち、蘭学者高野長英(たかのちょうえい)や小関三英(こせきさんえい)らと交わって蘭学や兵学の研究を始めた。田原藩の隠居格であった三宅友信(とものぶ)に蘭学をすすめ、崋山は当時外国事情に精通する第一人者となった。海防問題に思いを馳せながらも、西洋諸国が強大な力をもって東洋に侵入するのに対し、それでも開国、交易をするよう強調した。崋山は34歳まで草冠の「華山」を使っていたが、35歳以降は「崋山」に改名している。
1839(天保10)年、蘭学者で医者の高野長英たち10数名とともに崋山は、妖怪と恐れられた鳥居耀蔵(ようぞう)ら江戸幕府が蘭学者に加えた言論弾圧事件「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」により、逮捕されてしまった。死罪は免れたものの、崋山が著した『慎機論(しんきろん)』が見つけられ、幕政批判という重罪となり、天保11年藩地渥美半島の田原での蟄居という判決を受けた。
崋山門人の福田半香(はんこう)らは、蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、崋山の絵を売る頒布会を始めた。崋山は作画に専念し、次々と名作を描いた。しかし、その活動も「罪人身を慎まず」などと悪評が起こり、武士の理想に固執した画家崋山は、藩主に災いが及ぶことをおそれ死を決意。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男の立(たつ)、弟子の椿椿山(つばきちんざん)のほか、遺書を5通残し、1841(天保12)年切腹、49年の生涯を閉じた。その後“極秘永訣”と記された遺書を受け取った椿山は、崋山の十三回忌に合わせるように肖像画《渡辺崋山像》(1853, 田原市博物館蔵)を描いたのである。