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アート・アーカイブ探求

菅井 汲《SOLEIL BLEU(青い太陽)》──50メートルの意志「角田 新」

影山幸一

2013年10月15日号

最大規模のSUGAÏコレクション

 広島県立美術館と静岡県立美術館は、規模の同じ美術館として、2012年2月28日相互協力協定を締結した。内容は①展覧会の共同開催、共同研究、②所蔵作品および資料の相互活用、③学芸員等の相互交流、そして災害対策という点でも、地域の離れた館と提携しておくことによって、共倒れしない相互協力体制の構築を目指している。
 角田氏は、1963年広島市生まれ。子どもの頃は大工になりたかったと言う。ものをつくるのが好きだったが、絵の方へ関心が移り、表現者になりたいと京都精華大学で油絵を学んだ。「表現者としてのメディアは何か」を決めあぐねていた就職時、教員を目指して教員採用試験を受け、受かったものの採用枠はなかった。後日「教員を希望のところ申しわけないが美術館の枠があるから受けてみる気はあるか」という電話がかかってきた。その頃の広島県立美術館は学校の先生を学芸職にあてるケースも少なくなかった。角田氏は学芸員という仕事も知らなかったが「美術館であればさまざまな人の表現を見て、これと思うものが見つかるかもしれない」。そして面接試験を受けて主事として採用された。後に学芸員資格を取得し、学芸員となり、日本の洋画を専門として、地元ゆかりの作家を中心に調査・研究を進めている。
 広島県立美術館は、菅井光子夫人の出身地が広島という縁で、2004年6月菅井の遺族から菅井の作品や関係資料224件が寄贈され、国内外で最大規模となる菅井コレクションを所蔵する美術館となった。寄贈される前年の2003年、角田氏は広島から静岡の熱海市にある菅井のアトリエへ調査に行った。そこに《SOLEIL BLEU(青い太陽)》もあった。そして菅井汲の調査が進められている。角田氏は最近菅井にとって、偶然と制御、質感と形、その両極性の間で揺れ動くことが大事だったと分析している。遠くない将来本格的な回顧展が開催されるだろう。

紙と鉛筆

 菅井は、1919年兵庫県、現在の神戸市東灘区に生まれた。本名は貞三。5人兄弟の長男で、父重五郎は漢薬の卸問屋を営み、山田耕筰らと宝塚歌劇団で指導していたこともある音楽人でもあった。母賤子(しづこ)は、女子医大に通っていた才媛で、谷崎潤一郎や横山大観とも親交をもっていた。文化人の家庭であったが、菅井は生後間もなく里子に出され小学校就学まで大阪河内で過ごした。家の中で遊ぶことをしつけられた菅井は、紙と鉛筆を与えられ絵を描くことに目覚めていった。小学校4年生の時、両親が別居、親戚の家に預けられた菅井は、油絵具一式を買ってもらい画家のところへ通い始めた。小学校6年生の秋、心臓弁膜症になってしまい病床生活を余儀なくされる。中学進学は遅れたが、大阪美術学校へ通うようになり、18歳で阪急電鉄に就職した。
 そして戦前、戦中グラフィック・デザイナーとして活躍していた菅井は、22歳のとき「汲(くみ)」と名乗り、日本画家の中村貞似(ていい)に1年ほど学ぶ。その後前衛美術集団「具体美術協会」を立ち上げる直前の吉原治良にも油絵の指導を受け、吉原が審査員を務める二科展に出品したが落選。団体展を重視する日本より、作品本位のヨーロッパへ留学することを決心した。1952年菅井33歳、パリのアート・シーンへ身を投じた。
 それから40年以上パリを拠点に制作を続けてきた菅井は、ヴェネチアやサンパウロ・ビエンナーレ、ドクメンタなど、数多くの国際展に出品し、受賞を重ねた。菅井は、国際的に最も高く評価された戦後の日本人画家のひとりとなった。

【SOLEIL BLEU(青い太陽)の見方】

(1)タイトル

SOLEIL BLEU(青い太陽)。ソレイユ・ブルー(あおいたいよう)。菅井には同名の作品が複数ある。

(2)サイズ

縦235.5×横236.0cm。大きな正方形。

(3)モチーフ

半円、斜線、四角形。

(4)構図

左右対象で正面性の強い構図。

(5)画材

キャンバス、アクリル。

(6)色

白、青、赤、黒。白色ひとつにも色見本をつくって研究していた(図参照)。地塗りの白は何回、絵に使う白は何回と、同じ色を指定回数重ね塗りしている。


絵具の研究資料(撮影:角田新)

(7)技法

筆跡を残さず半光沢の絵具を全面平坦に塗る。コンパスで円を描き、線の間隔も比率も一つひとつメモを取り設計図のようなスケッチ(図参照)をしている。制作は菅井の発注によりアシスタントがしたとみられる。青の曲線に沿わせた赤い半円は、曲線から少し飛び出しており、普通の感覚に微妙に逆らっている。


《SOLEIL BLEU(青い太陽)》のスケッチ(撮影:角田新)

(8)サイン

右下斜線模様の上部に、赤い文字で小さく「SUGAÏ」と署名。

(9)制作年

1969(昭和44)年。この年50歳の菅井は東京国立近代美術館ロビー壁面に作品《フェスティバル・ド・トウキョウ》を設置するため、17年ぶりに日本に帰国した。

(10)鑑賞のポイント

絵画というより図形に見える。しかし菅井が「屋外に置き、50メートル先から見て目を刺激し、パッとわかるようにしたいと考えた時から、いまのような絵を描くようになった」(「毎日新聞」夕刊1969.1.9)と言うように、視覚効果の高い標識作品として見ることができる。高速道路や標識のイメージは、スピード時代を乗り越えていくとき、絵画も速度に耐えられるよう絵画による絵画の克服として、絵画を一種のサインと化した。造形力による純粋な表現は、色面の形やバランス、余白の取り方など、あらゆる部分が徹底的に検討され簡略化されている。絵具の質感を極力抑え、青の広い色面に赤の半円、画面下部には左右から攻めぎ合う斜線が目にチカチカとコミュニケーションを誘発する。大らかで張りのある画面に向かって、ある子どもが「山椒魚が口を開いたところ」と言ったという。

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