アート・アーカイブ探求
小田野直武《不忍池図》 近代化の不完全な融合──「山本丈志」
影山幸一
2013年12月15日号
武塙林太郎先生
快晴の羽田を発った飛行機は、霧の状況によっては羽田に引き返すか、仙台空港へ向かうという意外なアナウンスがあったが、無事に秋田空港へ到着することができた。空港からバスで着いた秋田駅前は小雨で気温6度、東京との気温差は10度。電車に乗り1時間ほどで横手に着くと、一段と寒さは増して雪が道端に積み上げられていた。
山本氏は1961年、鉱山やマタギで知られる秋田県北秋田市阿仁(あに)に生まれた。子どもの頃より絵を描くのが好きでイラストレーターのような将来を描いていたというが、大学では小学校の教師を目指して、裁縫や体育、ピアノなど含めて全教科を学んだ。日本美術史の講義では、秋田蘭画研究の大家である武塙林太郎(たけはなりんたろう)先生が教えてくれたが、とある日、受講生が3人しかおらず、研究室でスライドを見ながら秋田蘭画の話を聞くことになった。山本氏はスライド3枚くらいで寝てしまい気が付いたら授業は終わっていたという。将来学芸員になるとはまったく考えていなかったと話す。
大学を卒業後は県立高校へ就職、秋田県立近代美術館がオープンするときに異動により、学芸員となった。仕事の領域は近世から現代までと幅広く、特に現在は秋田ゆかりの作家の掘り起こしや調査を続けている。1999年に前任者の異動で突然担当となった展覧会「開館5周年記念展 東北の洋風画──融合する東西の美意識」が、秋田蘭画を研究する契機となった。展覧会のオープニングに武塙先生と再会し恐縮したそうだ。
源内と玄白
小田野直武は、1749(寛延2)年に秋田県角館に生まれた。角館所預かりの佐竹北家・佐竹義躬(よしみ)の槍術指南役の父直賢(なおかた)の次男で、幼名を長治、通称武助(ぶすけ)、字(あざな)を子有、号は羽陽、玉川、玉泉、麓蛙亭、蘭慶堂などと呼ばれる秋田藩士である。生来画才に恵まれ、代々小田野家に伝わる《神農像図》は無落款であるが「十二才画之」と記してあり、着実な筆致が直武作と推定されている。秋田藩の御用絵師である武田円碩(えんせき)に狩野派を学び、浮世絵、琳派、南蘋(なんぴん)派とさまざまな画法に関心を示した。直武25歳の1773(安永2)年には、秋田藩の要請で阿仁銅山の検分に訪れた本草学
者の平賀源内(1728-1779)に出会い、西洋画法を知る。藩主佐竹義敦(号は曙山〔しょざん〕)は、殖産興業策のために「源内手銅山方産物他所取次役」の役目を直武に与える。源内のもとで本草学、博物学、西洋画法を学ぶため江戸詰めを命じた。しかし、主に源内の所持していた蘭書の挿絵によって西洋画技法を学んだため、技法の習熟は不完全だった。翌1774(安永3)年には、杉田玄白の訳した『解体新書』に挿絵を描き刊行された。1777(安永6)年秋田に戻ると、藩主義敦や佐竹北家の義躬の絵の相手役として重用され、1778(安永7)年義敦の参覲交代に従って再び江戸にのぼるが、翌年の冬に突如微罪のある武士に対する刑である遠慮を申し付けられ、角館の自宅に謹慎となってしまった。前衛の武士芸術
直武の洋風画制作期間は、1773(安永2)年から1780(安永9)年までの7年足らず。しかもその大半は江戸で過ごし、《不忍池図》《唐太宗・花鳥山水》《富嶽図》(3点とも秋田県立近代美術館蔵)を制作した。藩主や藩士田代忠国(1757-1830)・荻津勝孝(1746-1809)らに科学的な写実技法を伝え、秋田蘭画の基礎が築かれていった。鎖国化の日本において、日本在来の伝統的な画材を用いて本格的に西洋画に取り組んだ江戸時代の前衛的な武士芸術一派、秋田蘭画派の誕生である。
平賀源内の獄死や源内の後見であった幕府老中の田沼意次(おきつぐ。1719-1788)の失脚といった変革の時代のなか、1780(安永9)年直武は角館にて没した。享年32歳、死因は不明である。直武は絵師としてだけでなく、縁戚には家伝の目薬で有名な家があるなど本草学や医学の学徒ともとらえられるが、最後は武士であったのだろう。直武は角館の松庵寺に葬られ、戒名は「絶学源真信士」である。二つに折れた墓石は粗末なもので、後年修復してあるが「絶学」の下半分は判読不明だ(写真参照)。戒名の「絶学」とは「学問を超えた境地」あるいは「学問を極め尽くしたこと」の意味が込められているという。