アート・アーカイブ探求
小田野直武《不忍池図》 近代化の不完全な融合──「山本丈志」
影山幸一
2013年12月15日号
【不忍池図の見方】
(1)モチーフ
池、草花、鉢、木、鳥、蟻、弁天島、上野寛永寺、建物。
(2)タイトル
不忍池図(しのばずのいけず)。
(3)制作年
1770年代。直武が江戸に滞在の頃、神田にあった平賀源内宅か、下谷三味線堀(現在の台東区小島付近)の秋田藩邸からか、不忍池のほとりに通い、その実景をとどめて構成したのであろう。
(4)画材
絹本着色。墨と岩絵具、化学合成された舶来の青色顔料プルシャンブルーの絵具。戦後の1948年、秋田県内(一説では山形県加茂町)で作品が発見された当時は掛軸装だったが、個人所蔵を経て秋田銀行が所有し、1959年に県庁舎の新築に合わせて作品を寄贈する際に額装された。県知事室に数十年間掛けられ、1994年に秋田県立近代美術館の開館に合わせて所蔵された。
(5)サイズ
縦98.5×横132.5cm。秋田蘭画のなかで最も大きな作品。贈るべき相手と飾る場所が想定されていたのだろう。
(6)構図
前景を大きく、中景を欠いて遠景を水平視し俯瞰する“近像型構図”。画面右側にモチーフを寄せ、左側を広く開放している。
(7)色彩
白、青、赤、黄、オレンジ、緑、紫、茶、グレー、黒。
(8)技法
近景は光源を画面右に設定して立体表現を試みた陰影法、遠景は透視図法による遠近法、さらに色彩の濃淡による近景と遠景を描き分ける空気遠近法とを統合。植物は南蘋派の精緻な写実描写、背景の風景は西洋銅版画の刻線の影響が見られる。
(9)落款
「小田野直武畫」の署名、「羽陽之印」の白文方印(22×23mm)と「字日子有」の朱文方印(24×25mm)の印章。
(10)鑑賞のポイント
実物との対面ではまず作品の大きさが体感できる。画面手前に草花の鉢植えが置かれ、背景には上野の不忍池の水面と空が大きく広がりすがすがしい。近景の博物画を思わせるリアルな植物は色彩豊かに陰影をつけて立体感を出し、遠景は銅版画のように細かい線で薄く水平線のある山水的風景を描き、近景と遠景のコラージュによって遠近感を表わしている。空の左に4羽と右に1羽の鳥、シャクヤクの蕾に3匹の蟻(写真参照)が見え、直武の観察眼が窺われる。また円筒に紙を丸めて絵を覗くと、遠近感が増した精妙な画像が浮かんできて楽しい。単眼鏡で蟻を探すのも面白いかもしれない。日本絵画のなかに南蘋風と洋画技法を取り込む創意がみられる。1968年に重要文化財。
甦った秋田蘭画
「秋田蘭画」は、オランダから伝えられた珍しい絵という意味である「阿蘭陀画」がやがて「蘭画」となり、その蘭画を秋田藩の武士らが描いたことに因んで“秋田蘭画”と呼ばれるようになった。1934(昭和9)年東京銀座の松坂屋で開催された展覧会目録『徳川時代初期日本洋画展覧会』の副題に秋田蘭画と表記されたことが最も早い呼称の例だと山本氏。また命名したのは角館出身の小説家・評論家の田口掬汀(きくてい, 1875-1943)ではないかと推測する。田口と思われる人物が雑誌『中央美術』(1935年1月発行)にこの展覧会評として、「タイトルを秋田蘭画とすべきではなかつたか」と気炎を上げて書いているそうだ。
1720(享保5)年に8代将軍徳川吉宗(1684-1751)が、洋書の輸入規制を緩和させ、オランダから油彩画を購入すると西洋美術への関心が高まり、また、オランダ語によって学術を研究しようとする蘭学が興り、眼鏡絵や南蘋派の作風とも密接に関わりながら秋田蘭画は生まれた。ネーミングから秋田地方で描かれた一様式のように受け取られがちだが、直武は江戸で陰影法と遠近法を用いた新画法を開発していた。花鳥を大きく写実的に描写し、バックに風景を入れる独特な秋田蘭画は、司馬江漢(1747-1818)ら秋田藩士以外にも伝えられたが、直武に続いて佐竹曙山が1785(天明5)年に38歳で亡くなったことで急速に衰退し、歴史のなかに埋もれていってしまった。当時蘭画は珍しい贈答品で、依頼に応じて描いており、小田野直武の絵はほとんど平賀源内と秋田藩のなかで消化され、一般の人は見る機会がなかったのである。
明治に入った1903(明治36)年、直武と同郷の日本画家、平福百穂(ひゃくすい, 1877-1933)が雑誌『美術新報』へ「江漢以前の洋画家〈小田野直武〉」を寄稿したのをはじめ、『日本洋画曙光』(1930[昭和5]年)と題した秋田蘭画に関する大著が刊行され、秋田蘭画は甦ってきた。
そして1948(昭和23)年に《不忍池図》が発見され、1968年には重要文化財として指定。秋田蘭画への関心は急速に高まった。比較文学者の芳賀徹氏は「彼らの作品が東西文化衝突の現場証言としていまなお前衛的な緊張美をはらんで美しいからだけではない。あれだけの心理的な奥ゆきの深さを湛えた作品を残して、二人とも三十代で、相ついで死んでしまったということが、なにか痛切に私たちの胸に響くのである」と述べている(芳賀徹「秋田蘭画の不思議」『日本研究』p.67より)。