アート・アーカイブ探求

東山魁夷《道》──未完に見る希望「菊屋吉生」

影山幸一

2014年07月15日号

画論

 菊屋氏は大学で教鞭を執るかたわら、菊屋家13代当主として萩市で毛利藩の御用を務めた豪商、菊屋家の文化財を管理し一般公開している公益財団法人菊屋家住宅保存会理事長でもある。400年の歴史がある西日本最古級の町家は、国の重要文化財「菊屋家住宅」であり、所蔵品のひとつに雪舟の《溌墨(はつぼく)山水図》がある。高校生のとき前当主でもあった伯父からこのことを聞き、山口県立山口博物館の「特別展 雪舟 来山500年記念」展に展示されたその《溌墨山水図》を見に行った。菊屋氏は、格式ばった絵があるかと思えば、けっこう好き勝手に描いていたような絵もあって「雪舟って変な絵描きだな」と思ったそうだ。
 1954年山口県萩市生まれの菊屋氏だが、会社勤めの父親の転勤の関係で小学校を6回も転々とした転校のプロだったと笑う。少年時代は特に絵に関心があったわけではなかった。しかし、小学校6年生のときに家族と偶然銀座の画廊で見た杉山寧(やすし, 1909-1993)の代表作《穹(きゅう)》(1964, 東京国立近代美術館蔵)が映像として頭に残ったと言う。日本画でありながら、キャンバスにカゼイン★1と砂を混ぜた岩絵具でスフィンクスを描いており、その緻密で凹凸のあるマチエール(絵肌)がインパクトの強い原体験となった、と振り返る。
 歴史が好きだった菊屋氏は、立命館大学文学部史学科に進学した。大学3年生のとき一年間休学してアメリカのカンサスへ向かった。アメリカの真ん中の大平原で360度の地平線を初めて見たという。カンサス大学の聴講生のかたちで6カ月間中国美術や日本仏教美術史の授業を受けた。だがクラスメイトから話しかけられても、日本のことを何も知らず、自分は何も伝えられない、と愕然とすると同時に恥ずかしい思いをしたと言う。その後2カ月半アメリカ中を旅して、美術館と博物館を回り帰国した。
 美術をやりたいと思った。学芸員という職業を知った菊屋氏は、史学科のなかで絵画の評論、いわゆる画論を学ぼうと考え、中国文化史学者でお茶や書の研究を行なっている中村喬(たかし)先生のゼミに入り、高校時代に初めて見た雪舟を出発点に画論を研究した。南画と北画の区分けに大きな役割を示した董其昌(とうきしょう, 1555-1636)を研究するにいたって、この中国絵画で有名な明の文人の画論を読み、卒業論文は『南北二宗論の展開』を書いた。

★1──牛乳のたんぱく質を成分とする接着剤。

日本画のモダニズム

 1978年の大学卒業時にタイミングよく山口県立美術館が学芸員を募集していた。菊屋氏は大学院には行かず、美術館建設準備室の学芸員として就職した。美術館は翌年の秋に「生誕150年 狩野芳崖:山口県立美術館開館記念特別展」を初の展覧会として開館し、最年少の学芸員だった菊屋氏は海外との交渉など貴重な体験を重ね、日本近世近代絵画史を専門とする展覧会の企画者となっていった。
 「1980年代の初め、山口県立美術館で戦後の日本画の展覧会を開くことになったが調べてみてもどうもしっくりこない。思案していたときに、針生一郎の『戦後美術盛衰史』(1979, 東京書籍)を読んだら『日本画の循環』という項目があり、聞いたことのない画家の名前がたくさん出ていた。戦後の創造美術やパンリアルとか、ケラや日本表現派など、研究小会派や小グループがあり、日本画におけるモダニズム絵画の動きを追ってみたいと思った。そしてそれぞれの画家を訪ねて行くところから始めた」と言う。こうして菊屋氏と日本画の関係は始まり、1986年には「戦後日本画の一断面─模索と葛藤」展、1988年には「日本画 昭和の熱き鼓動」展を企画し、この図録の論文「昭和初期新日本画運動についての一試論」は、近代日本画史を見直す研究として第1回倫雅美術奨励賞★2を受賞することになった。日本の前衛絵画と、日本画との関係を明らかにする視点は斬新であり、また菊屋氏の調査によって失われかけていた戦前、戦後の若い日本画家たちの作品や資料が発掘できたことも意義深い。東山魁夷との関係もこの展覧会で深まったそうだ。
 「東山は戦前のことを不遇だった時代としてあまり詳しく語りたがらないが、大日美術院というグループで当時の日本画の新しい動きを模索していた。実は若手のなかでは非常に有望株だった。ただ東山にとっては自分よりも東京美術学校の同級生や先輩たちの活動の方が華々しく映り、劣等感を抱いていたのかもしれない。東山自身は家族の不幸や実家の破産など、戦前はさんざんだったと言っている。そうした状況は確かにあったかもしれないが、その制作活動自体は当時にあっては実に新しい内容をもったものだった。東山が戦前に培ったこうした制作活動は、戦後に花開いたとみている。《道》の実物は美術館に勤め始めたころ、東京国立近代美術館の常設展で初めて見た。“シンプルでいい絵だな”と思った」と菊屋氏は述べている。
 1997年、厄年も迎えた菊屋氏は仕事や体力などで思い悩むことが多くなったときに、大学の公募を知り19年間勤めた美術館から山口大学へ転職を決意した。展覧会を企画することへの未練はいまでもあると言う。

★2──優れた新鋭の美術評論家、美術史研究家に対する顕彰。

自然は心の鏡

 東山魁夷は1908(明治41)年、横浜市で船具商を営む父東山浩介と母くにの次男として生まれ、3歳で神戸へ転居し、少年時代を過ごしている。東山は洋画家に憧れていたが父親の反対に遭い、日本画の道を歩むこととなった。1926(大正15)年東京美術学校日本画科に入学。東山は成績優秀な特待生であったという。同級生に田中一村(1908-1977)や加藤栄三(1906-1972)、橋本明治(1904-1991)らがいた。雅号は温和な「東山」に対する反発の意味を込めて、自身で「魁夷」とした。
 日本画家の恩師である結城素明(1875-1957)は、写生的画風の円山派と西洋写実を学び、日常的な光景を写実的に描写する、自然主義絵画の代表作家であり、明日の日本画を創造するという趣旨を掲げた「大日美術院」を創立するなど新しい日本画を模索していた。
 1933(昭和8)年研究科を修了後東山は、ドイツのベルリン大学へ留学し、自然の中に超越的存在を見るドイツロマン派から近代の自然観を学び、2年後に帰国し、試行錯誤して造形力の強い画面をつくっていた。しかし1945年7月、終戦間際に37歳で熊本に召集。爆弾をもって戦車に肉薄攻撃する練習の毎日、そのとき平凡な風景に涙が落ちそうになるほど感激をした。自然の風景が“生の姿”そのものに映ったのだろう。翌8月に終戦を迎え、そして1947年に東山の転機となった代表作《残照》を誕生させ、1950年の《道》で実質的な風景画家としての第一歩を踏み出した。
 敗戦直後の美術界では“日本画滅亡論”が叫ばれ、東山は新しい日本画を追求するために「六窓会」や「未更会(みこうかい)」、「芝英会」などを結成し、表現のチャレンジを活発化していたが、色調や絵肌(マチエール)づくりといった新しい造形に関心を示しながらも、当時流行っていたリアリズム絵画へは足を踏み入れず、風景を主体とした情景表現をきわめることを目指した。
 日展を基盤に制作を続けた東山は、北欧、ドイツ、オーストリア、中国、京都の旅を通し、人間と自然との雄大な共生、人間の歴史の重さ、生活のぬくもりを確認しながら作画を進め、東宮御所、新宮殿、唐招提寺の障壁画などのスケールの大きな記念碑的作品も誕生させた。
 昭和を代表する日本画家のひとりになった東山は、モーツァルトをはじめクラシック音楽鑑賞が制作の源泉でもあったという。川端康成(1899-1972)の『日も月も』(1953, 中央公論社)や『虹いくたび』(1957, 角川書店)など本の装丁をしたことから川端との交流も始まり、川端がその生涯を閉じるまで、深く交流をもった。東山は1999年老衰のため逝去、享年90歳。長野市の善光寺北側の山腹にある花岡平霊園の墓石には「自然は心の鏡」の言葉がある。

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