アート・アーカイブ探求
吉田蔵澤《墨竹図》生長と反骨の宿命──「中島小巻」
影山幸一
2017年12月15日号
対象美術館
人格をもった竹
江戸時代にもアクション・ペインティングがあったのか。一気呵成に太い筆で屏風に線描した書道のような竹図をネットで発見した。愛媛県の町立久万(くま)美術館が所蔵する吉田蔵澤(ぞうたく)筆の《墨竹図》である。エネルギッシュな篠原有司男(1932-)の「ボクシング・ペインティング」を彷彿させる墨竹図だ。
初めて知った絵師であるが、蔵澤は江戸時代から松山の宝といわれ、特に墨竹図については松山市出身の俳人・正岡子規(1867-1902)や、文豪・夏目漱石(1867-1916)、そして陶芸家の浜田庄司(1894-1978)も絶賛する人物であった。美術館へ問い合わせてみると、次のコレクション展で《墨竹図》が展示されるというので実物を見に愛媛に向かった。
久万高原町は、平均標高800mで四国の軽井沢と呼ばれているという。松山から約35km、バスで70分ほど、人口は約8,000人で農林業と山岳観光が主な産業。西日本最高峰の石鎚山(いしづちさん、1,982m)や、四国カルスト、高い透明度で水質日本一の仁淀(によど)川の源流域に広がる面河渓(おもごけい)など、自然遺産の宝庫である。久万美術館は美術館としては珍しい木造建築で1989年に開館した。久万出身で造林業を営み、町長、県議会議長を歴任した故井部栄治(いべよしはる、1909-1987)が収集した高橋由一、黒田清輝、萬鉄五郎、長谷川利行、村山塊多など日本近代の洋画や、伊予にゆかりの吉田蔵澤、遠藤広実(ひろざね)、明月(めいげつ)、三輪田米山(みわだべいざん)などの文人書画を中心に920点ほどを所蔵している。
初めて目にした蔵澤の《墨竹図》は、一本一本の竹に豊かな表情があり、力強い意志を感じた。人格をもったような竹が、屏風空間を劇場的舞台と化しリアルに生きていた。学芸員の中島小巻氏(以下、中島氏)に《墨竹図》の見方を伺った。
「真剣に円を描いたことがありますか」
紅葉している木立の中の坂を上って行くと階段が見え、山に抱かれた屋敷のような佇まいの美術館があった。今年(2017)就職したという中島氏がすぐに出迎えてくれた。若さとともに美術館でただひとりの学芸員としての落ち着きを感じた。東アジア近現代美術史を専門とする学芸員である。
中島氏は1989年神戸市に生まれた四人兄弟の末っ子。高校生時代に芦屋市立美術博物館で美術を認識した。また高校の美術の授業で具体美術協会の吉原治良が紹介された際、美術教師からの「みなさんは真剣に円を描いたことがありますか」という問いかけに、「そんなことを考える人がいるんだ」と中島氏は驚いた。
ある日、耳鳥斎(にちょうさい、?-1802/03頃)の《別世界巻》(関西大学図書館所蔵)をテレビ番組「美の巨人たち」で先生が解説しているのを中島氏は見ていた。そのとき美術は、実技だけでなく、鑑賞教育や学問があることを知る。この先生と、《別世界巻》を買う大学は面白いと思い、中島氏は関西大学を選び入学した。テレビで解説をしていた中谷伸生先生(日本美術史・東アジア芸術論)が恩師となった。いま好きな画家は萬鉄五郎という。重要文化財《裸体美人》の油彩の習作を久万美術館が所蔵しており、その習作の調査研究を視野に、年2回のコレクション展と、年1回の企画展を開展している。
中島氏が蔵澤の作品を見たのは、久万美術館へ来てからであった。「最初に見たとき、円山応挙(1733-1795)など近世の画家が墨竹図を描いているが、蔵澤は彼らと異なる生命感あふれる写生力で、力強さや独特の竹の節、また墨の調子を自在に操作できる人だと思った」と感想を述べた。
竹の蔵澤
松山城
は「古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓(やぐら)も、そのように厳(いかつ)くはみえない」(司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文藝春秋)と作家、司馬遼太郎が描写するように、現在も俳句を育む名所である。天守閣の入り口近くに囲いに守られた実生(みしょう)モウソウチクが植えられていた。67年周期に開花し2043年開花予想と石に彫られている。竹に花が咲くことを待つ人たちがいるのだ。吉田蔵澤は、1722(享保7)年松山160石藩士であった吉田直良の長男として、風早郡(かざはやぐん、現・松山市北条地区)に生まれた。名は良香、字は子響、通称は弥三郎、のちに吉田家の世襲名である久太夫を名乗った。号として蔵澤のほか、豫章人、贅巌窟、白雪堂主人、翠蘭亭、酔桃館など多くの別号を用いた。
42歳で風早郡の代官となり、6年後には野間郡(現・今治市)の代官も兼ね、中間搾取の排除や公僕精神の強化など、農民の立場に立った善政を行ない信望を集めたという。1781(天明元)年に持筒頭(もちづつがしら)
を拝命し、以降藩の中央政治に参画する。その後物頭(ものがしら) となり、200石に領地は加増された。しかし、《墨竹図》を描いた同じ頃、1798(寛政10)年77歳のときに山田五郎兵衛事件(詳細不明)に連座し、退官隠居を命ぜられてしまう。蔵澤の画業は、狩野派の筆法を江戸から来た木村東巷(とうこう)に学んだ20歳台に始まる。また松山の文人僧である親交のあった蔵山(1711-1788)や明月(1718-1797)を通じ、大鵬正鯤(たいほうしょうこん、1691-1774)や鶴亭(かくてい、1722-1785)などが描く長崎南画を知り、影響を受けたとみられる。33歳頃より南画研究を深め、50歳前後から明清絵画の模写を試み、本格的に墨画を始めて「予章人蔵澤」の落款を用いた。主に四君子(蘭、竹、菊、梅)を好んで描いていたが、70歳を超えて竹に専念し、最晩年の十年間は変幻自在で精神性の高い墨竹画に到達した。
当時は池大雅や与謝蕪村らによる日本南画の黎明期にあたり、藩士蔵澤は伊予南画の先駆的な文人画家として早くから高い評価を受けていた。特に墨竹の名手といわれ、大幹の竹に優れ「竹の蔵澤」と称された。
蔵澤の後継者としては、甥で松山藩の儒者・大高坂家七代当主の大高坂南海(1766-1838)がおり、落款の雀印を譲り受けた南海は、蔵澤の画風をそのままに伝えた。蔵澤は1802(享和2)年81歳で死去し、松山市の大法寺に葬られた
。蔵澤の画系は南海の弟子の丸山閑山(1810-1872)から中野雲涛(1821-1908)へと伝承された。亡くなるまで墨竹図を描き続けた蔵澤の遺墨は約600点といわれている。
【墨竹図の見方】
(1)タイトル
墨竹図(ぼくちくず)。英題:Bamboos
(2)モチーフ
竹。
(3)制作年
江戸時代後期。1797(寛政9)年、蔵澤76歳頃。
(4)画材
紙本墨画。
(5)サイズ
縦172.5×横379.0cm。一扇(せん)ごとの本紙は各縦133.0×横50.0cm。
(6)構図
屏風の山折り(出オゼ)
側に竹を密集するように配置し、谷折り(入りオゼ) の連結側に余白をつくり、六曲屏風のジグザグ構造と墨の濃淡による竹の立体感とを重ね合わせ、遠近感のある空間を生んでいる。(7)色彩
黒、灰。
(8)技法
水墨技法。六曲一隻の押絵貼(おしえばり)。
(9)落款
各扇ごとに「蔵澤」の署名と「蔵」白文・「澤」朱文の連印
、朱文円印「魚」 の印章がある。落款も作品の一部としてユニークなところに配置。魚印は、蔵澤の澤にちなみ魚を用いたもので、71歳の作にも見られるが、雀印(70〜76歳)から寅印(76〜81歳)への過渡期の印であり、どれも晩年円熟期の力強さを示している。(10)鑑賞のポイント
屏風の各扇ごとに一枚ずつ絵を貼りつけて仕立てる押絵貼屏風で、用の美を兼ね備えた屏風の山折りと谷折りのジグザグ構造を巧みに活かして、竹の様態を効果的に配置している。谷折りに余白を大きく取ることにより、地面が竹の枯葉で埋め尽くされた竹林の奥深さを感じさせる。山折り部分に描かれた太い竹や黒々とした竹は、力強さがさらに強調される。節の目立つゴツゴツとした太い、あるいは細く曲がった15本の竹。竹林の風趣とも、竹の擬人化ともとれる。屏風の地と天を貫く竹の生長エネルギーと、裂けて割れて枯れていく竹の宿命を大胆シンプルに描破した。そのスピード感ある筆致や立体的に見える竹の濃淡、独特な節の表現に「竹の蔵澤」の特徴が表われている。蔵澤の代表作のひとつである。
構造と濃淡の遠近感
墨竹は、中国の北宋時代(960-1127)に広まった絵の主題のひとつで、文同(ぶんどう、1018-1079)が墨竹図の祖型をつくり、文人画家に大きな影響を与えたという。竹は、まっすぐ伸びることや、節があることから信念を曲げない高潔の士の象徴とされ、文人が自ら楽しむために描く墨戯(ぼくぎ)として広まった。
松山初代藩主松平定行(1587-1668)は、かつて長崎奉行を務め、長崎の文物が早くから伊予の地にもたらされており、おそらく蔵澤は知人を通じて長崎から中国の文人画を取り入れながら独自の作画をしていたのだろう。武士にとっての作画は、兵法の道理を究めるための余技であり、海北友松(1533-1615)や雲谷等顔(1547-1618)、宮本武蔵(1584?-1645)と連なる。迫真的で緊張感に満ちた画境であり、「蔵澤も、まずはこの武人画家の系譜に置かれるべきであろう」と愛媛県美術館の学芸員長井健氏が述べている(長井健「吉田蔵澤《墨竹図》考」p.4)。蔵澤の「雀印」は武蔵の愛蔵品だったといわれる伝承は、蔵澤の描画が余技ではないと当時の人々も感じていたことが想像できる。
日本画家で愛媛大学教授の石井南放(なんぽう。1912-1999)は、遺墨のコレクター・須山正夫や、俳人の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう、1873-1937)らに続く蔵澤研究家で、蔵澤研究の基礎を築いてきた。南放は、蔵澤の画業を印章や落款から区分して、「習作時代(50歳以前)、予章人時代(50歳代)、混乱時代(60〜70歳)、雀印時代(70〜76歳)、寅印時代(76〜81歳)」の5期に分けている。
中島氏は「《墨竹図》の六曲屏風の構造と墨の濃淡がつくる奥行き表現は、蔵澤マジックとも言える遠近感を生んでいる。余白の使い方や屏風の山と谷の用い方、筆致の力強さ、独特な節の描き方に蔵澤の特徴が見られる。晩年に向かい力強さが増すというのも蔵澤芸術の魅力」と語った。
よもだの精神
久万美術館の井部栄治コレクション378点は、愛媛県出身の美術評論家で友人でもあった「現代画廊」経営者の洲之内徹(1913-1987)から作品の多くを購入し、構成されているという。
この地方の方言に「よもだ」という言葉があると中島氏が教えてくれた。松山特有の基盤になっている精神で「反骨をおとぼけのオブラートで包んだような気質」と、中学・高校時代を松山市で過ごしたコラムニストの天野祐吉(1933-2013)が定義している(高木貞重『伊予の豪傑──吉田藏澤・三輪田米山』図録、p.66)。不真面目や無責任といったマイナスの側面もあるらしいが久万美術館の高木貞重館長は、「『よもだ』には既成の価値観からはみだし、常に新しさを求める生き方が根底にある」(同、p.66)と、肯定的な意味を見出す。ユーモアを含んだ反骨と逸脱の「よもだの精神」で、藩士であり竹に成り切った絵師、蔵澤。幕藩体制の矛盾が表面化してきた江戸時代を生き抜いた。
来年2018年は、開館30周年を迎えるという町立久万美術館。現在「H29 久万美コレクション展II 画家の『最期』と『最後』」(2017.12.2〜2018.4.15)が開催されており、久万杉の磨き丸太柱4本が立つ展示室の奥で、蔵澤の《墨竹図》が迎えてくれる。
中島小巻(なかじま・こまき)
吉田蔵澤(よしだ・ぞうたく)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献