アート・アーカイブ探求
ゲルハルト・リヒター《ベティ》──仮象のジレンマ「清水 穣」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年05月15日号
顔を描かない肖像
赤と白の服を着た、柔らかそうな金髪の若い女性の上半身が写真のようにリアルに描かれている。肖像画とも美人画とも当てはまらない人物画であろうか。女性は振り返っているため顔が見えず、絵を見ている者は、女性と一緒に後ろに広がる灰色の闇を見ることになる。菱川師宣の《見返り美人図》(東京国立博物館蔵)も、身体をひねった女性のポーズであるが、その絵画には美しさを漂わす金髪の女性が存在していた。ドイツの現代美術家ゲルハルト・リヒターの《ベティ》(セントルイス美術館蔵)である。
かつてドイツの国会議事堂表玄関ホールで見た、垂直に細長く伸びる巨大な壁面オブジェがリヒター作の《黒・赤・金》(幅2.96×高さ20.43メートル)だった。ドイツ国旗の3色を金、赤、黒と積み重ね、エナメル塗装を施したガラスで天空へ突き抜ける強さと危うさを表わしていた。国会議事堂と現代美術との思いがけない組み合わせを目に焼きつけたことを覚えている。そのリヒターが、娘であるベティを正面から描かず、絵画のなかで時間を止めた。《ベティ》は何を見つめているのだろうか。
リヒターに直接インタビューを行ない(『アプロ』No.2、美学出版、1997)、訳書に『評伝ゲルハルト・リヒター』(美術出版社、2017)がある、美術批評家の清水穣氏(以下、清水氏)に、《ベティ》の見方を伺いたいと思った。氏が教える同志社大学のある京都へ向かった。
ドイツ語の世界観
青空の下、レンガ造りに大きなガラス窓の校舎は新しさを感じた。研究室が並ぶ廊下を歩いていると少しドアが開いた部屋があり、清水氏の研究室とわかった。
1963年、東京に生まれた清水氏は、子供の頃からピアノを習い、小学校から高校まで桐蔭学園へ通ったという。小学校高学年のときに百科事典で見たジャクソン・ポロック(1912-1956)の白と黒の線画を鮮明に覚えているそうだ。「これでいいのかと驚いた。それが現代美術との最初の出会いだった」と清水氏。
氏の関心が広がっていったのは、ドイツ語のおかげだったと言う。東京大学では文学部のドイツ語を専攻した。当時はフランス現代思想(ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ)が流行。清水氏は、むしろその思想のもととなったフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)、ジークムント・フロイト(1856-1939)、カール・マルクス(1818-1883)などの文献を原語のドイツ語で読もうと思った。哲学者・音楽評論家のテオドール・アドルノ(1903-1969)から現代音楽へ、『複製技術時代の芸術』の著書がある文芸評論家で思想家のヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)から写真へ、と清水氏の世界は広がった。もともと現代音楽が好きで聴いていたが、1995年に『不可視性としての写真 ジェームズ・ウェリング』で第1回重森弘淹(こうえん/1926-1992)写真評論賞を受賞し、これを機に写真批評家としてデビューした。清水氏にとって音楽と写真は同じ世界観のようだ。「写真も電子音楽も、どちらもフィルム(テープ)に基づいた複製芸術。写真はそこに感光物質を塗り、電子音楽は磁気を塗る。複製可能で、真正性のあいまいな芸術に惹かれるのかも」と語る。
清水氏が初めて《ベティ》を見たのは、2002年、ニューヨーク近代美術館でのリヒターの回顧展だった。「写真絵画だと思っていたが、実はしっかり絵画だなと思った。非常によくできていて上手いというか。背景のグレーの異様さが意識に残った」という。また清水氏は「リヒターは《ベティ》のような具象ばかりではなく、さまざまなスタイルで描く。写真に基づいて、あるいは写真のように絵を描く。“写真”がキーワードであることを押さえる必要がある」と述べた。
東から西へ
ゲルハルト・リヒターは、旧東ドイツの都市ドレスデンに父ホルストと母ヒルデガルトの長男として1932年に生まれた。妹ギーゼラが4年後に生まれている。大学で数学を学んだ父が教師の職を得たのは1936年だったが、3年後の第二次世界大戦勃発後すぐに徴兵され、社交的で文化的な趣味のある母はリヒターと妹とともに田舎のヴァルタースドルフへの疎開を余儀なくされた。
父が米軍の捕虜収容所から帰還したとき、リヒターは13歳になっていた。禁止されていた文学が読めるようになると、ナチスに迫害された作家たちの本を読んだ。リヒターは詩を書き、多くの画集に刺激を受けた。商業学校で学びながら画塾の夜間コースに通い、学校を卒業後、看板画家や舞台画家を経て、ドレスデン芸術大学へ入るために一旦東ドイツ政府の機関であるドイツ広告宣伝協会の画家として働き、1951年、春に芸大に合格した。
ドレスデン芸術大学に入学したリヒターは、パブロ・ピカソ(1881-1973)やポール・ゴーガン(1848-1903)に憧れつつも社会主義リアリズムの教育を受け、基礎課程の後、自由度が高いと思われた壁画を学んだ。大学院に迎えられた1957年、25歳のときマリアンネ・オイフィンガー(通称エマ)と結婚(その後離婚)。1959年「ドクメンタ」を訪れ、ジャクソン・ポロックやルーチョ・フォンタナ(1899-1968)らの抽象画に感銘し、西側への移住を決意する。1961年、東西ベルリンの境界上43キロにおよぶベルリンの壁(1989年開放)が東側によって構築される2カ月前に、リヒターは西ドイツへ逃れた。
アブストラクト・ペインティング
当初、リヒターは伝統のある文化都市ミュンヘンを目指したが、アートの新たな都市へと変貌していたデュッセルドルフに移住した。そしてヨーゼフ・ボイス(1921-1986)が夏学期に教壇に招聘されたデュッセルドルフ・アカデミーに絵画を学び直すため再入学した。国際的なアーティストグループ「コブラ(CoBrA)」のメンバーであるカール・オットー・ゲッツ(1914-2017)のクラスに入り、抽象画に取り組みマンフレート・クットナー(1937-2007)、コンラート・リューク(本名:コンラート・フィッシャー、1939-1996)、ジグマール・ポルケ(1941-2010)とアメリカのポップアートを模範に「資本主義リアリズム」の概念を用いてジャーマン・ポップアートの展覧会「ポップと生きる──資本主義リアリズムのためのデモンストレーション」を家具店で実施した。
1962年には新聞の写真を用いたフォト・ペインティングの作品《机》を描き、それを作品番号1とし、以降通し番号が付けられる。1964年にアルフレート・シュメーラ・ギャラリーで初個展。1965年、マルセル・デュシャン(1887-1968)の回顧展がヨーロッパ諸都市を巡り、リヒターは大きな影響を受ける。1971年、デュッセルドルフ・アカデミー教授となり、翌年1972年、40歳のときにアビ・ヴァールブルク(1866-1929)の「ムネモシュネ・アトラス」に感化され、《アトラス》をオランダのユトレヒトで発表した。同年ヴェネチア・ビエンナーレに西ドイツ代表として《48人の肖像》を出展、初めてドクメンタにも選出された。
アブストラクト・ペインティングを1976年頃から描き始めていたリヒターは、偶然を制作に取り入れるため、スキージ(先端にゴム板を装着したシルクスクリーン印刷などに使用する道具)を用いて絵具の擦れを生成し、新しい画面をつくっていった。1982年、デュッセルドルフ・アカデミーのリヒターのクラスで出会ったイザ・ゲンツケン(現代美術家、1948-)と結婚(その後離婚)。1984年には新作のアブストラクト・ペインティングと風景画とを対比して展示した展覧会「ここから──デュッセルドルフでの新しいドイツ芸術の2カ月」の成功により、国際的にブレイクスルーを果たした。
基準となる芸術家
リヒターは、1988年に《1977年10月18日》(ニューヨーク近代美術館蔵)と《ベティ》を描いた。前者はドイツ赤軍を題材とした15作品からなる連作で、リヒター芸術のなかでも中心的な位置を占める作品と言われている。描かれた11年前に起きたドイツ国家と対抗する連続テロ事件「ドイツの秋」を、モノクロのフォト・ペインティングとして描いた作品だ。刑務所に収監されていたドイツ赤軍の幹部の釈放を要求し、ドイツ赤軍がハイジャックを起こしたが失敗。刑務所内の幹部は同日獄中で自殺した。集団自殺だったのか、処刑だったのか、いまだに解決を見ていない、現代ドイツ史のタブーともいわれる事件である。ドイツ赤軍は、男のアンドレアス・バーダーと女のウルリーケ・マインホーフが中心だったことから「バーダー・マインホーフ・グルッペ(集団)」とも呼ばれ、リヒターはバーダー・マインホーフ事件に関連するモチーフを扱った。
一見「フォト・リアリズム読む女》(1994)のモデルとなった画家のザビーネ・モーリッツと三度目の結婚をする。2002年にはニューヨーク近代美術館で回顧展を開催、企画したロバート・ストアはリヒターを「21世紀の芸術にとって基礎となり基準となる芸術家」(ディートマー・エルガー『評伝ゲルハルト・リヒター』p.326)と言っている。
」に見えるフォト・ペインティングや、カラーチャート 、風景画、静物画、グレイ・ペインティング、アブストラクト・ペインティング、さらにガラスや鏡を使った作品など、多岐に渡る表現手法で、リヒターは絵画の可能性を切り開いている。1993年にはヨーロッパ各地で大規模な回顧展が開催され、1999年、ドイツの国会議事堂には《黒・赤・金》が設置された。1995年に63歳となったリヒターは、《2007年にケルン大聖堂の南翼廊(よくろう)のステンドグラス(高さ23×幅9メートル)を、9.6センチメートル四方の正方形をした72色のガラスを使い制作。リヒターは抽象的な模様と幾何学的な構成とを結合させ、カラーチャートのような均質なガラス面とした。
現在は東京・六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートで、個展『PATH』(2019年4月20日~6月1日)が開催されている。インクジェット写真の上に、スクラッチ痕を施した新作エディション作品24点と、大型のガラス立体作品《8 Glass Panels》(2012)が涼やかに展示されている。
【ベティの見方】
(1)タイトル
ベティ。英題:Betty
(2)モチーフ
娘のバベッテ。リヒターが11歳の娘を撮影した1977年の写真をもとに描いた。「ベティ」はバベッテの愛称。
(3)制作年
1988年。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦102.2×横72.4センチメートル。
(6)構図
背後を振り向いた顔の見えない上半身の女性像、頭を頂点に三角形状の安定した構図。
(7)色彩
赤、白、黄、茶、青、ピンク、グレーなど多色。
(8)技法
写真をプロジェクターでキャンバスへ投影し、その形体を鉛筆で等身大よりやや大きく写した後、艶のない絵具で着色し、最後に刷毛や布などで絵具の筆跡や輪郭線をぼかして平面化する。カメラやプロジェクターによるイメージの機械的な転写作業には、画家の主観が入りにくい。そのためあらゆる様式化を防ぐことができ、理解を超えた表現が可能となる。
(9)サイン
画面の裏側に「Richter 1988 663-5」の署名があると言われている。
(10)鑑賞のポイント
リヒターが1977年に撮影した写真をもとに、11年後に描いた娘ベティの肖像画である。正面を向いていたが両腕で身体を支え、後ろを振り返った一瞬をとらえている。マットな暗いグレーの背景に、若々しい春の光をまとうようにベティの輪郭をぼかし、手前の左肩に焦点を置いて、ベティを身近に感じさせる。しかし、何をどのような顔で見ているのかはわからない。赤い花柄のような服とブロンドの髪の質感をきめ細やかに再現。特に束ねられた柔らかそうな金髪は、光の明暗が交錯するなかに浮かび上がる。柔と硬、静と動、父と娘の距離、親密さと近寄りがたさの間で揺れる。焦点のぼやけた写真を用いて、視覚の習慣への盲目的な追従を突き崩す、新たな視覚体験を呼び起こすリヒターの代表作。美しく可憐な画面に魅了されながらも、心理的には近付くことが難しい肖像に戸惑う。この宙づりにされた中間的な感覚がリヒター芸術の真骨頂である。
シャイン・レディーメイド・痕跡
リヒター芸術を鑑賞するためのキーワードを清水氏は三つ挙げた。「シャイン(ドイツ語のSchein)、レディーメイド、痕跡」。そのなかでも美学や哲学の用語であり、仮象と訳される“シャイン”がもっとも重要で、それは実体のないイメージ、感覚的現象だという。
シャインとしてわかりやすいのは、クロード・モネ(1840-1926)晩年の《睡蓮》シリーズ、と清水氏は語る。青い空、白い雲、水辺の木の反映を描き、その上に睡蓮を散らす。すると、睡蓮が浮かんでいる水面が現われる。モネは実際には水面を描いてはいないが、「そこに透明な面があったんだ」「すべてはその面に映り込んでいたんだ」という知覚がシャインの経験である。映像がそこに映っているという感覚。鏡に映った映像であり、ショーウインドウの反映であり、モニターやスクリーン上のイメージ。透明なレイヤーの上に映像が載っているそのクオリティー。鏡面やガラス上の映像固有の質である。リヒターは、多様な方法でシャインを純粋に抽出することを一貫してやり続けている。例えば家族の写真。そのレディーメイドの写真を丁寧に描き写し、筆でサーッとぼかす。本来ピントがあっていたはずの面がイメージできるため、人にレイヤーを意識させられる。
そこで二つ目のキーワードは“レディーメイド”。マルセル・デュシャンは《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称「大ガラス」。フィラデルフィア美術館蔵)のために、ガラスを支持体にした。この表現によって、シャインはレディーメイドとして扱われたとリヒターは思った。シャイン(レイヤーの出現)に基づいた絵画は、すでにレディーメイドになっているのだ、と。自分はレイヤーに基づいた絵画の流れの最後の画家だ、というのがリヒターの自己意識なのである。
リヒターは、シャインを浮かび上がらせようとするときに用いるテクニックとして“痕跡”を付ける。例えば画面の上にビシャッと絵具を付けたり、汚したり、削って傷を付けたりする。しかしこの「痕跡」はときにリヒターのトラウマと連動している。リヒターはトラウマ体質で過去の経験が無意識にリヒターの心に傷を残していて、その心の傷に反応したときにリヒターは絵を描き始める、と清水氏は語った。
テロリストと娘
《ベティ》は、リヒター作品のなかでも、節目になる時期に描かれている、と清水氏。《ベティ》のモデルは、リヒターの娘「バベッテ」で、愛称「ベティ」。1977年に撮影したベティの写真を基に、リヒターが1988年に絵を描いた。1988年には、リヒターがもう写真によらずとも透明レイヤーのシャインを感じさせる抽象画ができると判断し、それまでのフォト・ペインティングに引導を渡すために、バーダー・マインホーフ事件のテロリストたちを題材としたフォト・ペインティングの連作《1977年10月18日》を制作した。事実それ以降、いわゆる白黒のフォト・ペインティングは描かれていない。《ベティ》はこの連作と格闘している同時期に描かれた。
ベティは東ドイツ時代に知り合った最初の妻との子どもである。ところがこの妻の父はナチスの医者で、優生学的な民族浄化政策のもと身体や精神に障害がある人を処分ないしは不妊手術をしていた。リヒターの母の妹マリアンネは神経を病んでいてこの政策の犠牲となった。この叔母の住む地区でこの政策を仕切っていたのが妻の父だった。リヒターはそうなるとは知らずに、1965年に《マリアンネ叔母さん》を描いていた。また、2001年にリヒターはDNA鑑定を受け、父ホルストとは血縁がないことを知る。リヒターが肉親や血縁の人に感じる思いは複雑なものがある。
リヒターは娘を愛しているが、ふっと他人になるような感覚があった。雑誌『シュテルン』に掲載されたバーダー・マインホーフ事件の写真を見て、リヒターはショックを受けた。その心の傷を昇華するのに10年かかったのではないか。普通の人たちがイデオロギーに染まり、テロの道に入る。自分の娘も例外ではなかったかもしれない。自分の娘とテロリストの女が重なった。
特定の思想やイデオロギーに関係なく、革命と破滅との間のジレンマを描こうとした連作《1977年10月18日》のなかには、女のテロリスト、ウルリーケ・マインホーフの顔を、ちょうどベティの年齢に若返らせて描いた《若き日の肖像》(1988、67×62センチメートル)が収められている。顔を見せない《ベティ》とパラレルに描かれ、作品の因果関係が批評家などによって論じられてきたが、リヒターは両者の関係を否定し、事実に反して作品番号もあえて離して付けている。事件の陰惨な絵ばかり描いている途中で「キッチュにカラフルに描いてみたが、当初は失敗作と思った」とリヒターは《ベティ》について語るが、清水氏は「失敗作と呼ぶのは無理がある。リヒターの作品には、美術史的なレベル(アングルなど、肖像画の歴史を参照)、作品史的なレベル(ベティはアブストラクト・ペインティングへ移行する過程で描かれたグレイ・ペインティングを振り返っている)、そして歴史やトラウマのレベル(家族というものに対する複雑な感情)がある。複数のレベルがあるのが魅力だ」という。《ベティ》はいろんな面で複雑な絵だ。リヒターにとって絵画はトラウマを昇華させるもの。「夢が無意識の昇華であるなら、作品はリヒターの夢なのであろう」と清水氏は語っている。《ベティ》は、単独作品の鑑賞だけでなく、連作《1977年10月18日》や、リヒターの全作品との関係で見ることによって新たな文脈が見えてくる。
清水 穣(しみず・みのる)
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)
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【画像製作レポート】
参考文献