アート・アーカイブ探求
ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》──大地に生きる尊厳「飯田昌平」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2020年09月15日号
※《落穂拾い》の画像は2020年9月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
自然と人間
人間が大地の糧で暮らしていた時代からヒトは随分遠くまで来てしまったようだ。過去に経験のない甚大な災害が続く昨今である。猛烈な暑さは9月に入っても30度台を推移し、熱中症に併せてコロナ禍である。この時期、在職日数が憲政史上最長と報じられたばかりの安倍総理大臣が8月28日突然辞任を表明した。混迷する一途の日常に、大型台風10号が容赦なく生活を壊していった。夜空の月が美しく輝いていることに救われるが、これまでの日本の四季は再び地上に降りてくるだろうか。
ヒトが大地と共に暮らしていたことを想起させる絵がある。畑で女性三人が腰をかがめて働いているジャン=フランソワ・ミレーの《落穂拾い》(1857、オルセー美術館蔵)である。落ちている麦の穂を拾っているのだろう。広々とした畑の匂いがする。懸命に生きている人間の尊厳を感じる。大空と大地に包まれた人間が、自然の一部として働き、生きる。人間の運命を問いかけてくるようだ。
栃木県にある小山市立車屋美術館館長の飯田昌平氏(以下、飯田氏)に《落穂拾い》の見方を伺いたいと思った。飯田氏は『バルビゾン派の画家たち』(美術出版社、1982)や『ミレー名作100選』(日本テレビ放送網、1991)を書かれ、また展覧会「ミレーとバルビゾン派の作家たち展」(2003)を監修されている。猛暑のなか、3密を避けながら東京・品川で話を伺うことができた。
ほのぼのと響くものは何か
飯田氏は1939年東京に生まれた。小学校に入る前に東京大空襲の噂が流れ、栃木県栃木市の郊外にある母の実家へ疎開し、小・中・高校の12年間を栃木県の農村で過ごした。男三人、女三人の六人兄弟で、飯田氏は次男。小学校のときに読んだ地域の偉人・山本有三の『心に太陽を持て』にミレーの話があり、「見た目にきれいなだけでなく、目を通して魂に触れるもの、真実を描いて心を打つもの、絵の後ろからほのぼのと響くものは何か」ということが強く印象に残ったという。
飯田氏は1959年に上京し、1960年東京大学に入学した。また兄の祐三と1962年に東京・銀座に飯田画廊を設立し、学業を優先しながら経営に参加した。卒業後の1968年から専務取締役として勤務。山梨県立美術館にミレーの《種をまく人》と《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》を納入した画廊として有名となる。
1989年より白鷗女子短期大学の非常勤講師も務めており、2009年から現職の小山市立車屋美術館館長に就任した。美術館は、文化財になっている古民家で米蔵を改築し、地域に密着した作家の作品などを展示している。
父が経営する写真材料商で育った飯田氏は、子供の頃、店に集まってきた画家や医者、学者たちが父と議論するなかで本を読んだり、戦車などを工作するのが好きだった。左利きだった飯田氏は、食事も書道も絵もそろばんも野球もすべて右利きに直された。吃音で人に会うのを嫌がっていたというミレーの気持ちがわかるという。
飯田氏がミレー作品の実物を初めて見たのは、東京オリンピックの年、大学4年生の1964年だった。ヨーロッパからオリンピック選手を運んでくる飛行機は空っぽになって帰っていく。その便で往復するツアーは48万円ほどで、初めてヨーロッパへ行った。飯田氏はパリのルーヴル美術館や、かつて風景画家たちが暮らしていたバルビゾン村なども巡った。「ミレーの時代以前の絵画に表わされた農民たちは、卑しく滑稽な風刺の対照として、困窮した姿で描かれていた。しかし、農民は苦しい農事を強いられた貧しい人々ではなく、私欲なく生きる喜びを感じている人々であった。ミレーの描いたそういう人々の存在をひとりでも多くの人に知ってもらいたい」と、飯田氏は語る。
始まりは肖像画
ジャン=フランソワ・ミレーは、1814年10月4日にフランスの北西部ノルマンディ地方、シェルブールにほど近い小村グリュシーに生まれた。格式のある農家で、父ジャン=ルイ=ニコラ・ミレーと母エーメ=アンリエット=アデライド・アンリとの間に誕生した八人姉弟の2番目の子で長男だった。敬虔なカトリックで信仰心の篤い祖母ルイズ・ジュムランが、アッシジの聖フランチェスコ(仏名フランソワ)からジャン=フランソワと名づけ、母親代わりにミレーを育てた。
ミレーは7歳になる前に学校に入り、12歳頃からラテン語を学び始め、やがて家業に専念する。あるとき、老人の歩く姿を木炭で描いたミレーの素描を父が見て、その腕前に驚き、長男が画家になることを許したという。
ミレーは、19歳になると最寄りの町シェルブールでダヴィッド派の肖像画家ムシェルに初めて絵を学ぶ。父が没し村にいったん戻ったが、祖母の強い後押しで再びシェルブールへ。そして新たに歴史画や肖像画で知られていたラングロワという画家に学んだ。1837年、師ラングロワの尽力により23歳になったミレーは奨学金が給付され、パリの国立美術学校で歴史画家のポール・ドラロッシュ(1797-1856)の教室に入るが、もっぱらルーヴル美術館で初期ルネサンスのマンテーニャやミケランジェロ、プッサンら巨匠の模写をして学ぶ。25歳のとき、画家の登竜門であったローマ賞に挑んだが落選、美術学校を中退する。翌年、サロン(官展)に肖像画《L・F氏の肖像》を出品し初入選を果たした。
1841年27歳、当時の美術界はドミニク・アングル(1780-1867)を領袖とする新古典主義
とウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)率いるロマン主義 が対立していた。ミレーは独自の道を模索し、シェルブールに戻り肖像画を描いていたが期待したほどの注文はなかった。ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚し、再びパリへ戻る。だがサロンの落選が続き、1844年妻は貧困のうちに亡くなってしまう。農民が農民画を描く
ミレーは失意のなかだったが、サロンで入選を果たして再度シェルブールへ戻った。《鏡の前のアントワネット・エベール》が評判となり、シェルブール市立大学デッサン科教授の席が用意されたが辞退した。この頃、ミレーは家政婦のカトリーヌ・ルメールと同棲を始める。ミレーの実家は結婚を認めず、カトリーヌを入籍するのは10年近くを経た後、祖母も母も亡くなった後のことであった。ミレーはカトリーヌとの間に3男6女の子供をもうけた。
1845年カトリーヌとともにパリへ向かう。翌年、後にミレーとバルビゾンへ移住する版画家のシャルル・ジャック(1813-94)と出会った。バルビゾン派
と呼ばれる画家たちとも交友を持ち、共和主義サークルに参加した。1847年にはミレーの伝記作者となったアルフレッド・サンスィエ(1815-77)と出会っている。彼はルーヴル美術館事務局長を務めた官吏で、物質と精神の両面でミレーを支えた。1848年34歳のミレーは、ル・ナン兄弟の農民を描いた《干し草刈りからの帰り(荷馬車、手押し車)》と、画面いっぱいに労働者を描いたジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)の《鍋を洗う女中》《居酒屋の給仕》に刺激を受ける。二月革命が勃発し、無審査となったサロンに出品した農民画《箕(み)をふるう人》が評判となり、新政府買い上げとなった。ミレーが生きた時代のフランスは、日本では江戸時代後期から明治時代の初めにあたる。1789年のフランス革命を発端にして、王侯貴族の社会から市民社会へと移行する過渡期に、農民出身のミレーが農民画を描いて生きていくことは容易ではなかった。
風景画に想う故郷
二月革命の影響で政治的に混乱したパリではコレラが流行し始めた。1849年、ミレー一家はジャック一家とともにバルビゾンへ向かい、定住することにした。翌年にはサンスィエがミレーの代理人として契約を結ぶ。《種をまく人》《藁を束ねる人々》がサロンで話題となったが、保守的な批評家からは、革命の種をばらまいていると評される。
1853年《刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)》ほか二点をサロンに出品し、二等賞を受賞する。祖母と母が死去して、カトリーヌと入籍した。第1回パリ万国博美術展でバルビゾン派の画家たちが評価され、ミレーも《接ぎ木する農夫》が入選。そして1857年43歳、ミレーはバルビゾンを含むシャイイの平原で農民の姿を見て感銘を受け、素描や版画を描き構想を練って《落穂拾い》をサロンに出品した。画家たちはその出来栄えに驚愕し、批評家は賛否両論だった。画商アルチュール・ステヴァンス商会と長期契約を交わし経済的苦労から開放され、1864年サロンでの《羊飼いの少女》が一等賞を受けた。
1866年52歳、グリュシー村に帰郷し、妹エメリーの死に立ち会う。郷愁にかられたのか、失われていく自然に危機感をもったのか、サロンに初めて風景画の大作《グリュシーの村はずれ》を出品、以後風景画が増える。1867年第2回パリ万国博美術展に一室を与えられ、《落穂拾い》などを出品し確固とした地位を築く。翌年レジオン・ドヌール勲五等を受勳。親友の画家テオドール・ルソーの後援者だったフレデリック・アルトマンに風景画《四季》の連作を依頼される。
1870年普仏戦争が勃発し、一時シェルブールへ疎開。1874年パリのパンテオンの壁画装飾の依頼を国家より受けデッサンを試みるが、健康状態が悪化する。1875年1月3日カトリーヌと結婚式を挙げ、20日には家族に看取られてバルビゾンにて死去。享年60歳だった。シャイイの墓地に親友ルソーの隣に眠る。
残された400点ほどの油彩画は、風景画が約150点、肖像画が120点以上、農民画は100点に満たなかった。ほかに聖書や神話が主題の歴史画、風俗画、静物画。そのほか素描や版画、水彩画、パステル画も残された。
【落穂拾いの見方】
(1)タイトル
落穂拾い(おちぼひろい)。英題:The Gleaners
(2)モチーフ
三人の農婦、麦畑、農民たち、馬上の人、荷馬車、貯蔵庫。
(3)制作年
1857年。ミレー43歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦83.5×横111.0cm。
(6)構図
画面3分の2を地平線で区切り、三人の農婦を中心に二等辺三角形に配置した安定した構図。明るく霞む背景に、前景のかがんだ若い二人と腰を伸ばす人が大きくクローズアップされている。
(7)色彩
赤、青、黄、緑、白、黒、茶、灰色など、柔らかなアースカラーが基調。三人の農婦の帽子は赤、青、黄色と色の三原色を連想させ目を引く。
(8)技法
筆触を残さない柔らかな筆遣いだが、前景三人の農婦は形を重視してリアルに描かれ、淡い背景とのコントラストによって浮き上がって見える。画面手前の地面を暗くし、奥行きを強調する技法「ルプソワール」によって静かな画面の中に鑑賞者を誘っている。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
8月の曇り空の下、遠くには麦を刈る人々、それを運ぶ女たちや、積み藁を積む男たちが声を掛け合い、馬に乗った監督に従いまとまって働いている。一方手前の三人の農婦は、質素な衣服を着て、彼らが落とした麦の落穂を黙々と拾う。農婦の顔はほとんど見えないが、腰をかがめてまっすぐ伸ばした腕と武骨な手が印象的だ。肉体を使って労苦をいとわず働く人間の気高さを、広々とした情景のなかでモニュメンタルに表現した。『旧約聖書』の「ルツ記」のルツとボアズに着想を得た
ミレーは、当時最下層であった農民を堂々と厳かに描いた。「額に汗してパンを得よ」に人間の担っている労働の尊さを見たミレー。運命に黙して従っている農民の勤勉な姿に、崇高な美を見出した。ミレーの代表作。勤勉のなかの喜び
《落穂拾い》に見られる農婦たちが前にかがむ姿勢は、1851年頃ミレーがバルビゾンの友シャルル・ジャックの雑誌の仕事を手伝ったときの農作業のイラスト《八月、落穂拾い》の原画素描に始まる。1853年にはパリの建築・不動産経営者アルフレド・フェイドーの注文によって連作「四季」のため《落穂拾い、夏》(山梨県立美術館蔵)を描いた。1855年のパリ万国博美術展では、写実主義の画家ジュール・ブルトン(1827-1906)の《落穂拾い》を見ていると思われる。同年ミレーは本格的にエッチングを始め、《落穂拾い》を制作した。そして1857年サロン出品のため油彩画《落穂拾い》を完成させる。
飯田氏は「《落穂拾い》は、聖書のなかでもっとも読まれている「ルツ記」そのものであろう。豊かな自然のもとで、一生懸命に働いている。聖書を読んでから絵を見ると別のミレーが見えてくる。ミレーの伝記を読んで絵を見ると、落穂拾いの女性がミレーの母や祖母に見えたりしてくる。《落穂拾い》の時代は、画家は共産主義のために絵を描いた。だから落穂拾いをしているような人間は、虐げられたように貧しく描かれた。しかしミレーは貧しくは描かなかった。ミレーは純粋無垢な心で農民のなかに人間性を見た。落穂拾いは、何のためにやっているかというとパンのため。“額に汗してパンを得よ”。自分が落穂を拾わなければ今日の食事がない。勤勉のなかに喜びを見出さない限り、生きる喜びは見出せない。人生の詩と美を描くミレーの信条が伝わってくる」と語った。実りをもたらす大地と、運命に対する全面的な肯定を《落穂拾い》は与えてくれる。
飯田昌平(いいだ・しょうへい)
ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)
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参考文献